【連載小説】ノイズ(仮) 第九回

鏡に映ったオレのはだか。変化していた。浮き出ていた肋骨に筋膜が張り、つるっと薄いだけだった腹にも胸からへそにむけて一本溝ができ腹筋が現れた。身体の中心には変わらずぶらさがっている。陰毛の紅茶色から淡いピンクのグラデーション。グラデちんこ。


   *

久野 早季 様

前略
 この度は私の身元引受人になって下さり、本当に感謝しております。
残す所二ヵ月、出所後の事ばかり考え暮らしております。
 ここに入る前に世話になっていた社長に使って貰うか、或いは、一緒に仕事をしていた佐々を手伝ってやるか、いずれにせよ、エナの居所を突き止めてからの話だと思います。
 出ましたら、御恩は必ず返させて頂きます。
 本当に有難うございました。
                         草々
平成十年三月四日                         
                       明石 多果夫

   *

 庭の草刈り、床磨き、居間の復旧を終え、難所の台所作業はまだ続いている。
 溶けて変形したプラスチックの容器がオーブンレンジに入れっぱなしになっているのとか、鍋を火にかけたまま忘れたゆで玉子が破裂してできたと思しき壁の跡などを見るたびに、ばあちゃんは正気に戻ることもあったけどやっぱりぼけていたんだ、と思い知った。
 ただ、元気だった頃のばあちゃんちを再現したいとか、センチメンタルな気持ちでやっているわけではない。
 少しずつ「家」の様相を取り戻しつつあるこの家、目に見える実感は、オレをぐっすり眠らせてくれる。「思春期外来」で処方された薬よりも、オレには効いているようだ。
 薬を飲まなくたって、いまはなんだかふつうだ。特別ではなくていつも通り。オレは戻ってきているのかもしれない。女医に言わせれば、心の風邪が治ってきている、ということかもしれない。
 ……なんて、単純に済めばいい。

   *

久野 早季 様

 エナを探しに行きます。
 見つけ次第出頭する事も考えましたが、私が刑務所に戻った途端、また雲隠れされるかも知れません。しかし出頭しなければ、刑期が終わらないまま一生逃げ続けなければなりません。もしかしたら保護観察停止となり時効が発生するかも知れません。私の場合、調べたところ時効成立まで五年かと思われます。
 いつとはお約束できませんが、晴れてお会いできるその日まで、あれを預かっておいて欲しいのです。
 あれは私とエナの未来を明るくする宝物なのです。
 御恩は、いつかきっとお返し致しますので、どうか私を信じて、お願いを聞いて下さい。
 この手紙は読んだら焼くなりして処分して下さい。
 勝手ばかりで、もう謝罪の言葉も見付かりません。

   *

 お盆にはまだ少し日があるが、今日は家族で墓参り。
 貫井さんの札幌出張が終われば、姉ちゃんは東京に帰ってしまう。その前に、ふたりも一緒につれて行くためだった。
 水を汲んだ桶を持って迷路のような墓地の敷地内を歩いていると、同じように桶を持った女が前を歩いていた。
 若作りの服装や髪型が痛々しいほど、腕や手はしみだらけで骨ばっていた。手前で曲がった先で女は桶を置いた。その墓に、他には誰もいなかった。ひとりの墓参り。それはどんな気持ちがするんだろう。未来のオレは誰と墓参りをするのだろうか。
 現在のオレが戻った墓前には、父さん、母さん、姉ちゃんと婚約者がいて、地べたにビニールシートを敷いて日除けのカラフルなパラソルを立てていた。
 桶の水を柄杓でかけて墓石を洗っていると、父さんと母さんが「さっき本家のお墓お参りしたときにもあった?」「近所の農家さんかね?」と言いあっていた。墓前に一本の青い瓶。うちの一家が来る前に誰かが供えていったものらしい。
「ワインなんてばあちゃんもじいちゃんも飲む人じゃなかったのに」と母さんが不思議そうに掲げて言った。
 父さんがろうそくに火を点けて、皆で手を合わせた。
 姉ちゃんと母さんは墓前のビニールシートに座り、フルーツ盛りをひろげている。庭で育てたミニトマトや、買ってきたぶどうやプラムがつやつや光っていた。
「ばあちゃんの骨は入ってないんだよね」姉ちゃんが言った。
「じいちゃんのお骨だけ。次男だから」と母さんが答えた。
「まあ、貫井さんも和美から聞いて知っていると思うけど……」
 父さんが話しはじめた。
 どうしてうちは父方の祖父母の墓参りをしないのか。
「自分の父と母が亡くなってからは、沢木の家とは、絶縁しているんです。だから親戚も、妻のほうとしかつきあいはありません」
 理由はオレも知っていた。
 母さんが姑や小姑の義妹たちからひどくいびられいじめられていたのだ。それが許せなかった父さんは、自分の両親が亡くなると、妹たち含め親戚とは一切縁を切ったのだった。
「家族は妻とこどもたちだけで良いと決めたんです。大切にできるものは少ないですから」
 そして父さんは「和美をよろしくお願いします」と、貫井さんに頭をさげた。
 父さんが絶縁した当時、オレはまだ幼稚園にあがったばかりで母さんが置かれた状況をわかってなかった。だけど七つ年上の姉ちゃんは、母さんが義母や義妹たちになにをされているか、きっともうわかっていた。どうしていままで、そのことに思い至らなかったんだろう。
「赤ちゃんが生まれたら、また来るからね」姉ちゃんが墓石に向かって言った。
 墓参りの最後に、デジカメを脚立にセットして皆で墓前に並んだ。
 もしかしたら、初めて全員が揃った家族写真かもしれない。

第二部「グッドラック」

   **

久野 早季 様

 逃亡中の身ゆえ、名を偽り、一方的な手紙になります事お許し下さい。
 エナはまだ見付かりません。
 血より濃い関係と言うものを信じて生きて来ましたが、幻想だったのでしょうか。
 恥ずかしながら、身元引受人になって下さると早季さんからお返事頂いた時、私は、何かしらの見返りを期待しているのでは、と疑いました。預かって頂いているあれを狙っているのではないか、とまで考えました。
 しかし、嫁ぎ先で辛い思いをされている娘さんとエナが重なって放っておけなかったと聞いて、納得したのです。娘さんが長子に女児を産んでから、姑や小姑からの排斥が益々非道くなっているとおっしゃっていましたね。男児でなかったばかりに姑や小姑から可愛がってもらえないお孫さんも不憫でなりません。
 今は何も出来ない身ですが、娘さんとお孫さんの幸せをお祈りしています。

   **

一.まだ手紙を知らねーオレはやっぱり鏡の前に立っていた


 鏡に映ったオレのはだか。変化していた。浮き出ていた肋骨に筋膜が張り、つるっと薄いだけだった腹にも胸からへそにむけて一本溝ができ腹筋が現れた。身体の中心には変わらずぶらさがっている。陰毛の紅茶色から淡いピンクのグラデーション。グラデちんこ。
 姉ちゃんに「たくましくなった」と言われたとき、恥ずかしかった。けど同時に、自分の身体がどういうふうに変わるのか興味が湧いた。
 アタラシクナリタイ。
 オレは夏休みの日課に夕食前のランニングを加えることにした。
 住宅地を走り抜け幹線道路に出る。いっきに景色が開ける。農地に挟まれた道路は、ずーっと地平線まで続く。それを覆うたそがれの曇り空は、ピンクと水色、その間の淡い紫を映している。
 走りながらオレは、こんな模様のTシャツが欲しいなあと思った。
走るうちたそがれは青く色を増し暮夜になり霧雨が降りだした。遠くで爆ぜる音が聞こえた。そういえば母さんが「せっかくの花火大会なのにねえ」と言っていた。
 音の方向を仰ぐと、雨でけぶる空の花火は紗がかかって光の粒がまばらだった。片側半分しか開ききらないようなのもあった。
 四車線ある広い路面は雨に濡れ黒い鏡のようになり、等間隔の街灯の橙色をいつもよりくっきりと映していた。霧雨のなか、数台の車が行き来している。
 と、暮夜に覆われた農地に、ぽつん。鈍く白光しているのを見つけた。晴れたたそがれ時には気にもかからなかったのに、今日は曇った夜のはじまりに目立って見えた。それは飼藁を刈った平坦な農地に不時着したUFOのようだった。
 気をとられながら歩道を走るオレの斜め後ろを、いつからか一台の車が徐行していた。車がオレの右側につけたので見ると、
「あっ……」
 助手席の窓が開いた。「こんばんは」甘苦く低い響き。
 大人の手を持つ男だった。
 オレは小さく、「ども……」と会釈した。
「マラソン?」
「あ、はい」いや、ただひとりで走っているだけだから「ランニング」だろうか? 
「雨降ってるのに?」
「こんくらいなら、気持ちいいくらいだから……」
 走るオレの横を、男の車が並走している。乗用車が一台、男の車を追い抜いて行った。
「じゃあ、あの……」と、先の方向を指さして、オレは走るスピードをあげた。
「乗りなよ。送って行くから」
 男の声に、とんでもない、と上半身だけ振り返り手をぶんぶん振って見せた。
 霧のようだった雨が粒になり強く降りだした。
 遠く、開ききらない花火がフィナーレの連発をはじめた。
 男はもう一度、「乗りなよ」と言った。
 オレは立ち止って幾重もの半開の花火を見た。車へ一歩踏み出すと、男がなかからドアを開けた。助手席に乗りこんだオレに、男は後部座席からタオルを取って渡してくれた。身体についた水の粒を拭っていると、男が車を出した。
「なにかスポーツしてるの?」
「え、してない。ですけど」
「そうなの? 走ってるし、陸上でもしてるのかと思った」
「走ってるのは、」
 身体の変化に興味を持ったから。アタラシクナリタイ。そんなの説明できない。「趣味で」とだけ言った。
 ハンドルを握る陽に焼けた男の腕。オレの腕もだいぶ焼けているけど、全然違う。男の腕は表面だけでなく内側から火が通った焼け方みたいだ。
 オレは、アタラシクナリタイ。
「ここらの農家が管理してるのかな?」
「え?」訊き返すと、男はバックミラーを指した。遠く、さっきのUFOが映っていた。
「ああ、なんなんすかね?」
「DVDの無人販売でしょ? よくここ車で通るけど、昼間はのぼり立ってんだよね」
「DVD売ってんの? あんなとこで?」
「ちょっと寄ってみる?」
 男は面白いものを見るような目でオレを見ると、いきなりハンドルを切ってUターンした。
 路肩に停めた車をおりると、暮れきった空の下でさっきよりもずっと白く存在感を放っていた。農道か畑かおぼつかない暗闇のなかUFOを道しるべにずんずん行く後ろ姿を、オレもあわてて追いかけて行った。
 反射した雨が金色の針のように映るくらい近づくと、UFOなんてとんでもない、台風でもくればひしゃげてしまいそうな、ちゃちな作りの小屋だった。半透明のプラスチック製の波板を継ぎ接ぎした外壁がなかの灯りを通して、まるで小屋自体が鈍く白光しているように見えていたのだった。
 扉の煽り止めを外し、先に男が入った。おそるおそるオレがあとに続くと、なかには数台の自動販売機が並んでいた。乳、尻、腿、腰。柔らかな曲線の複合体、女のくねる裸体が陳列されていた。アダルトソフトの自動販売機。
 四畳ほどの空間はオレと男が入るともう狭くて、オレは目の前に並ぶ写真、いろんな恰好でいろんなことになっている女たちにも圧倒され、息苦しくなっていた。
 オレの耳もとに、男がささやいた。
「買ってやろうか」
 振り返ると、男は薄ら笑いを浮かべていた。反応を楽しんでいる。痛かった。胸の奥の怒りの球体に尖がったものを押しあてられた。
「どういうのが好き?」
 答えずうつむいていると、男はわははっと笑い、オレの肩をばしっと叩いた。
「なーに恥ずかしがってんだよっ」
 そういうふうに見えたのかと、オレはほっとした。
 男は一分ほど選んで買ったDVDを渡してきた。
『イキった黒ギャルを時を止める能力を得たニートがイジリまくってイカせまくる勇者となった件』
「良かったら貸して」男はまた、わははっと笑った。オレも笑顔を作ってみたけど、頬がひきつっているのが自分でわかった。
車に戻って再び走り出すと、この男がラブホテル関係の仕事をしているのを思い出した。まだ知らぬ生臭さに、また息苦しくなる。
「プリン食った?」
「あ、はい。おいしかったです」
 固まりかけた血のような、半殺しにつぶした苺をかけたプリン。
「君のおばあさんの家って、いま、誰も住んでないの?」
「え? はい」
「いや、いま、久野早季さんの家のほう向かってるけど、君の家はこっち方面でいいの?」
「ええっと。方向は同じなんだけど……」
「じゃあ、ナビして。家の前までは行かないから。知らない人の車に乗って帰ったら、うちの人に叱られたりするんでない?」
 オレが女ならともかく、ずいぶんこども扱いされている。
 ほどなく近所になり、オレは「あれ」と、自分の家を指した。男は認めて車を停めた。
「おばあさんの家の整理は、君ひとりでしているの?」
「はい」
「そう。えらいね」と、男はダッシュボードから名刺を出してオレに渡した。
「DVD、飽きたら電話してよ。ホテルのレンタルで使うから」
 男の車が行ってしまうと、オレはDVDをハーフパンツの腰のゴムに挟んで上からTシャツを被せて隠し、名刺をポケットに入れた。
 雨はあがっていた。雲間から欠けた月がこちらを覗いていた。


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