見出し画像

80年代よ、さようなら



 夫は子供のような純真さのある人で、トム・クルーズが大好きです。とりわけ『トップ・ガン』を愛してます。見た回数では誰にも負けないと豪語しています。『マーヴェリック』が出た時などは、まるで自分が作ったかのようなドヤ顔で撮影トリビアを話すので、笑いました。

 日本のバラエティ番組などを見ていると、夫のような男性タレントが少なからずいて、皆、自分こそがトップ・ガン及びトム・クルーズの一番のファンだと言わんばかりに熱く語るので、夫と重なってウケます。



 私も『トップ・ガン』は高校の時リアルタイムで見ましたが、映画にもトム・クルーズにも、あまり特別な思いを抱いていません。しかし世間での『マーヴェリック』の盛り上がりぶりを見て、これは話題についていくために見なければと思い、予習のため、オリジナルを久しぶりに見ました。ところが、すっかりお腹いっぱいになってしまい、新作を観る気がすっかり失せてしまいました。


 なんというか、自分には全く関係のない、白人男性の世界だなと感じたのです。この続きがあるなら是非見たい、とはちっとも感じませんでした。


 『トップ・ガン』を筆頭に、80年代はハリウッド映画に勢いのあった時代でした。当時ティーンだった私は、ご多分に漏れず、スピルバーグとコッポラの映画に夢中でした。とりわけ私はコッポラの『アウトサイダー』が好きで、マット・ディロンに熱を上げていました。今で言う「推し」です。ちなみに、この映画には、ブレイク前のトム・クルーズが端役で出ていました。



 当時のハリウッド映画は私にとって、アメリカという国を覗く窓でした。ストーリーを追いながら、アメリカの風景やファッション、食文化、インテリアなどを夢中で吸収したものでした。私のアメリカ観は、その頃に見た映画の断片の寄せ集めでした。『グーニーズ』だとか『セント・エルモス・ファイヤー』だとか『ブレックファースト・クラブ』だとかを見ては、妄想上でその中に自分を置いて、ワクワクしたものです。

 それが、いつの頃からか気がついたら、ハリウッド映画に全くワクワクしなくなっていたのです。アメリカ、しかもロサンゼルスに住んでいるにもかかわらず、ほとんどの作品が自分とは無縁の世界に感じます。アメリカ社会を知れば知るほど、ハリウッド映画の世界観は遠くに感じるのです。『トップ・ガン』の世界に全く接点を見出せないのと同じで、端的に言うと、ほとんどの作品が白人の世界のお話で、そこにアジア人である私は、妄想上でも居場所を見いだせないのです。


 留学時代に始まり、いわゆるアングロ系アメリカ人と接する時、向こうの反応が素っ気ないことがあっても、性善説よろしく、気のせいだと自分に言い聞かせたり、あくまでも個人的な問題と理解してきました。それが、おそらく子供が小学校に入ったぐらいからでしょうか、「結局はそういうことなんだな」と悟ったのです。どうやら、白人は私に興味がないんだと。



 例外はもちろんあります。オープンマインドで素敵な白人のお友達との出会いもありました。彼らはだいたい、親や親戚が日本に住んでいたことがある、アジアを旅行したことがある、親戚の配偶者がアジア系、などの理由で、もともとアジアに対して心がオープンだったり。アニメや黒澤映画など、趣味がニッチだったり。もしくは、インテリで意識が高く、異文化に対する好奇心が旺盛だったり。でも、「ああ、またか」と既視感を覚えるシチュエーションの方が桁違いに多いことから、平均的な白人は、アジア人、ましてや外人には興味がないのだなと、肌感覚で悟るに至ったのです。アメリカ人は、日本人が海外のことを知りたいと思っているほどは外国のことを知りたがってはいないのです。




 永住者、いわゆるグリーンカード保持者である私にはアメリカで参政権がないし、留学からそのままなんとなく、居候の引け目というか、「居させてもらってる」というような意識で暮らしていました。しかし、出産してからは、単なる「外国人居住者」から「アメリカ市民権を持つ子供の親」という立場になりました。これは、私に意識の変化をもたらしました。



 子供が学校に上がり、PTAなどでボランティア活動をするようになると、そこで知り合う保護者は、白人であれ黒人であれ移民であれ、「子供と子供たちの教育環境を守る」という共通の関心事において、対等の立場なわけです。多様な人種、文化背景をもつ保護者が集まり、親睦を深めて知恵と力を貸し合うべき場で、壁を作られているように感じるのは、往々にして白人でした。身も蓋もない言い方ですが、この白人至上主義的なヒエラルキーと排他性は、残念ながら、根深くアメリカ社会の随所に染み込んでいるのです。誤解のないよう繰り返すと、例外的な人たちはたくさんいます。地域によっても差があるでしょう。




 80年代に胸躍らせた『セントエルモスファイヤー』のあのメンバーの中に紛れ込む妄想をすることができなくなったのは、そういうわけです。ましてや『アウトサイダー』は、中西部の寂れた田舎の不良グループの話。今だったらトランプサポーターが8割を超えていそうな超保守的な町の中の、「不良グループ」という極めて封建的な組織に属する彼ら。万が一わたしが中西部の片田舎に引っ越すことがあっても、アジアから来た大学出の中産階級である私は、マット・ディロンと恋に落ちるどころか、知り合う機会もないだろうと思われます(アラフィフなのは置いといても)。

 昨今のハリウッド映画は、いかにも「ほら、多様性を考慮してますよ〜」と言わんばかりに、主要キャストを白人5:黒人2:ヒスパニック1:アジア系1ぐらいに設定しているようですが、どうも作為的で、鼻白んだりもします。昨年、Everything Everywhere All At Once(エブエブ)に全米のアジア人が沸いたのも、ミシェル・ヨーとキー・ホイ・クァンのオスカー授賞スピーチで多くの人が咽び泣いたのも、アメリカが初めて、アジア系アメリカを価値のあるものとして扱ってくれたと感じられたからです。今年話題になったNetflixシリーズの「Beef』も、南カリフォルニアのアジア系コミュニティの光と影をとても巧みにリアルに描いていて、見ていて痛快でした。


 日系人の夫が手放しでトップガンを愉しめるのは、夫が本当に子供のように何も考えてないからなのか、トム・クルーズという俳優が持つマジックなのか……。おそらく両方なのでしょう。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?