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落ち着きが欲しい

2022/02/06





 最近、あることに気が付きました。新聞を読んでいる時、ニュースを見ている時、あと数回で最終回を迎える大河ドラマを見ている時など、つまり、習慣でやっているけれども入り込むほど面白くはないものを見たり読んだりしている時、同時にプチプチを潰したり、パティ(粘土)を丸めて気泡を潰したり、中毒性の低いワードパズルを解いたりなどしているのです。





 こんな落ち着きのない癖ができた原因はなんだろうか?と考えました。よく分かりませんが、日夜、絶え間なくスマホから新しい情報を得ることにあまりにも慣れてしまい、刺激のない時間が耐えられなくなっているのではないか?という答えに辿り着きました。これはあながち検討違いでもなさそうです。



 小学校高学年から中学校2年ぐらいまでの数年間、お友達のお祖母様から茶道を習っていました。自分がお茶を点てている時は楽しいのですが、他の生徒さんが点てている時に何もせずじっと座って見ているのが苦痛でした。「床の間のかけ軸や季節のお花を愛でましょう」などと言われても、その年端の子にとっては、ちょっとできない相談です。



 ですから、お茶菓子は茶道におけるハイライト。今日はどんなお菓子だろう?主菓子だろうか干菓子だろうか?なんてワクワクして待っていたものでした。



 実は、私は茶道を始めるまで和菓子はあまり好きではありませんでした。それが、断食の後に供される重湯のように、退屈の極限の中で供される和菓子の美味しいこと、口の中に甘味が広がったところににいただくお抹茶の美味しいことを知ったのでした。また、かけ軸などに比べて、和菓子の見た目のなんと分かりやすい美しさよ。和菓子とお茶は、私が人生で初めて良さを知った日本文化なのでした。



 お茶のお稽古には、もうひとつの楽しみがありました。先生はお友達のお祖母様なので、お稽古が終わったら、お新香などを出してくれたり、炉に残った炭でお芋などを焼いてくれたりしました。八つ頭というゴツゴツした珍しい芋を見たのも、その時が初めてでした。小さくなった炭をお箸で寄せ集めながら3人でおしゃべりする時間は、両祖母を早くに亡くした私には、他には味わえないような温かく豊かなひとときだったのです。



 鉄釜の湯がチンチンと沸くあの心地よい音だけが微かに響く時間のなんと贅沢だったことでしょうか。パティもプチプチもスマホもないあの空間にまた身を置いたら、デトックス出来そうな気がします。

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