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小学校教員として大切に思うこと   授業教科別


中堅と呼ばれる今、改めて自分の教育観を振り返ることができるよう記録として記そうと思う。

教科ごとに、授業を組み立てる上で、今、教員として大事に思っていることや、意識的に気を付けていること、最終ゴールをできるだけ「端的に」「明確に」、「難しい言葉や教育用語をできるだけ使わず」にキーワードで記していく。 

賛否両論、合っている合っていない、同意できる同意できないあると思う。コメント欄まで。

国語

読書好き、言葉の面白さ・難しさ

社会

世界の広さを知る、選挙に行く

算数

問いと答え、そのプロセス(過程)

理科

日常の不思議、なぜ?

生活

五感

音楽

余暇を豊かにするための音楽

図工

表現の楽しさ、技能≒安全指導

家庭

家族への所属、技能≒安全指導

体育

体を動かすことは楽しい

道徳

正解はないが答えもない

特別活動

互いの立場を考える、学校は小さな社会だということを知る

総合的な学習の時間

自ら進んで、勉強をもっと面白くする

外国語活動

英語ってなんかかっこいい

解説

ざっくり過ぎて訳が分からないと思うので。補足の意味で。

国語 読書好き、言葉の面白さ・難しさ

相手に言葉を伝える(読み・書き・話す・聞く)というゴールにたどり着くには、まず、正しい字や漢字、熟語、発音、イントネーションなど様々なことが必要であることに気づかせなければならない。教師自身が本や文章、言葉で話すことの面白さを伝える。先生が嬉々として文章の味わいを語ることは子供にとって文章という冒険に出たくなる栄養剤だと思っている。また、作文も(主に宿題で)どんどん書かせる。作文アレルギー(笑)の子にも取り組みやすいよう、「もしも明日で世界が終わるなら何をする?」「生まれ変わったら何になりたい?」「夏が好き?冬が好き?」(もしもシリーズが多いかな)など、文章の構成が多少なりともおかしかったとしても、「書きたい!」と思えるようなお題を付けてあげると子供が喜んで取り組む。そして必ずコメント付けて返す。文章の構成は絶対に否定しない。(誤字脱字、句読点ぐらいに留める)こうすることで先生との交換日記感覚で文章に触れる量を増やすことができる。文章の構成の仕方は国語の授業中の指導で充分。ノート一面が真っ赤になって返ってくる子供の気持ちにもなってみてほしい(笑)。最後に読書の時間をたくさん作って、読書好きにさせ、自分たちで勝手に活字に触れる機会を増やす。話すこと聞くことは、各教科ごと、グループワークや日々の友達や先生との関わりで等の生活の場面でだんだんと上手くなってくると考えている。むしろそれで充分だと考えている。

社会 世界の広さを知る、選挙に行く

教室から地域へ、地域から県外へ、県外から日本へ、日本から世界へと世界にはまだまだたくさん知らない生活が、文化があることに気付かせる。そのために教師が子どもたちが知らない世界に目を向けたくなるような導入をすることが必要。沖縄の市街地の写真を見せ、屋根についたタンクには何が入っているか考えさせたことがある。大人であれば、正解は「水」、理由は台風が多く断水になる可能性が本州と比べて多いから、ということは知っていることだ。しかし、子供たちに写真を見せ、グループで学び合わせると、始めはただの予想(当てずっぽう?)でしかなかったが、だんだんと資料を引っ張り出してきて、「台風が多い」という気象条件に気付く。それだけでなく、「離島だから、中身は石油じゃないかな?タンカーで運んでくるの大変だもん」「雨や台風が多く、湿気が多そうだから、乾燥させる何か?シリカゲル(乾燥剤)?除湿する装置?」「離島は山の標高が低い。そうすると川が短くなって、水不足になりそうだから、水かな?」などたった一つの「タンク」から思考を巡らせることができる。正解でない回答や的外れな理由も多少あるが、その過程で沖縄の気候や、立地について知ることができた。自分たちの当たり前の生活から離れることが大切だと思う。そしてその生活の根っこが人と人とのつながり。そして、人と社会をつなげる(統治する)のは政治。自分たち(の生活)をよりよくするには、自分たちの手で選んだリーダーと一緒にやっていくしかないということに気付かせる。そうすることで、社会に参画する意識が芽生えてくるであろう。

算数 問いと答え、そのプロセス(過程)

 問題があって答えがある。算数はそれが露骨だ。たとえ低学年でも計算の過程を大切にしたい。2×3=6たったこれだけのことでも、「2つのかたまりが、3つ分あって、合わせて6こ」と考えるようにできなければならない。よくテストの「一箱にみかんが2つ入っています。箱が3つあります。みかんは合わせていくつでしょう。」という問題に3×2=6と書いた児童がいて、バツがついている。答えは同じなのに。かけ算は交換法則が成り立つから丸では。という親がネットにテストの写真を晒していたりするが(笑)私は、3×2は間違いだと思っている。賛否両論あるが。交換法則が成り立つことはまた別に指導するし、それを理解させた上で、2×3なのか3×2なのか判断できる力を付けなければいけない。算数は技能指導よりも、思考の指導が必要だと思っている。よく分数のわり算などでは、ひっくり返してかける!などと指導することもあるようだが、(ちなみに私も伝えるには伝えるが)授業ではこれを壊すところから始める。(クラスに一人は必ずいる塾等で先に知っている児童を使う)「正直これやり方も答えもわかる人?答えも言っちゃっていいから教えて?」「ひっくり返してかけます。答えは○です。」「正解!じゃあ今日の授業は終わりだ!」開始五分で終わる授業に子供たちはイエーイと言い出す(笑)そこですかさず、「じゃあ何でひっくり返すの?なんでかけ算になったの?わり算なのに?先生もわからないから教えてくれ○○さん」すると、説明できる子もいるが、大体は黙るか、曖昧な説明になる。「じゃあみんなで考えていこうか」技能だけではダメだと無意識のうちに子供たちが思うようになってくれれば成功である。どうやって答えにたどり着くか、そしてそのために役立つお助けアイテム(公式など)を探してゴールできるように仕組んでいく。一昔前に「暗殺教室」でテストの問題を敵のモンスターに見立てて主人公たちがテストの問題と戦う描写があったが、あんな感じ。問題が敵のモンスターで、子供が持っている武器が手立て。武器を増やす即ち手立てをたくさん持たせてやることが大切。

理科 日常の不思議、なぜ?

日常のほとんどの物事が科学で証明できると言っても過言ではない。(もちろん科学で証明できてしまうと面白くないものもたくさんあるのだが)理科の最終目標は日常で起こることに「なぜだろう?」と思える子供が育てば成功だと思っている。では、どうすれば子供が「なぜだろう?」と思ってくれるのか、それはやはり見える化が一番だと思っている。「校庭の水溜まりが乾くのはなぜだろう」水が蒸発するようすをビニールシート等で水滴が付く様子を見せる。「植物は水を吸ってどこを通して蒸散するのか」色水を吸わせて道管の観察をする。しかし、これだけでは理科に興味はあるが、受け身な子になってしまう。そこで予想と実験方法が大切になるのだと思う。YouTuberの○○説とか○○やってみたというものに近いかもしれない。○○説で予想を立て、それを確かめるためにはどんな実験をすればいいのか考える。ある意味、検証系のYouTuber は理科教育の完成形なのかもしれない(笑)目に見えないものごとを見えるようにする(原理や規則性なども含めて)ことが大切だろう。

生活 五感

本当に一言、「五感」。これに尽きる。目、耳、鼻、口、手触り、人間に与えられた「感覚」を全て使わせるように指導する。落ち葉拾いに行けば、見た目、音、匂い(臭い)、触り心地、ときには舐めさせたってかまわない(もちろん衛生には気を付ける)これら全てを使って観察させる。(もしかすると観察という言葉は相応しくないのかもしれない)よく、春の匂い、夏の香り、秋の空気、冬の足音など様々な表現を耳に(目に)するが、この言葉を聞いて─人それぞれ違ったものだろう─イメージができるというのが大事なのではないだろうか。最終目標は「きれいなものを『きれい』と感じる心を持つことができるように」たくさんの「きれい」を味わわせたい。世界は美しい。それがわかるように。

音楽 余暇を豊かにするための音楽

正直無くても困らないもの(体育、道徳、外国語など)の一つであることは間違いない。しかし、あったら絶対に良いものであることは間違いない。私自身も音楽が好きだし、ジャンルは様々あれど、音楽に親しむことで生活を豊かにできると思っている。音楽の授業では正直もっと様々なジャンルや種類の音楽に触れた方が良いと思っている。(現行のものでは絶対に足らない)人によって良いなと思う音楽は異なるし、その違いが面白かったりする。よく言われているのが、例えば好きなアーティストがいたとする。それを人に勧めて「私は好きじゃなかったな」と言われたり、自分の好きなアーティストがバカにされていたりする。そこで自分が言われているかのように腹を立てるのは日本人特有だそうだ。それは様々なジャンルの音楽に触れて来なかった(足りなかった)せいだと私は考えている。では、海外だとどうかというと、そこまでではないようだ。そういう聞き方もあるよね。とか、私は好きだけどあの人には好みが合わなかったみたいね。となるようである。文化の違いもあるだろうが、私はそれぞれの音楽の良さや多様性を認められる授業を組み立てる必要があるのではと思っている。音を楽しむ。「音が苦」にならぬよう。

図工 表現の楽しさ、技能≒安全指導

「表現することは楽しい」と思わせることができるようにする。図工の時間では、安全に関わること以外は否定はしないようにしている。安全上危険が見られたとき(カッターの持ち方や糸鋸の刃先に手がいっているとき等)は「そうではない、こうである」というように指導する。技能指導と安全指導はほとんど同意であるととらえている。正しい使い方を教えればおのずと安全に作業に取り組むことができる。逆になぜその持ち方や使い方なのか考えさせると子供にはわかりやすいようである。では、道具や画材の正しい使い方だけ教えていればいいのかというとそうでもない。その単元に合ったゴールがある。技法に関して言えばモダンテクニック(さまざまな手法で偶然の模様や形を利用し、表現する技法)など率先して取り入れる。ドリッピング(吹き流し)、スパッタリング(霧吹き)、フロッタージュ(擦り出し)、デカルコマニー(合わせ絵)、マーブリング(墨流し)、スタンピング(型押し)、コラージュ(貼り絵)、スクラッチ(ひっかき)・・・。私は子供に技法を教えるときはあえてこのカタカナで教える。なぜか。そのほうがカッコいいからである(笑)「今日は貼り絵をやるよ!」「ここは擦ってみたんだね。」と言われるより、「今日はコラージュに挑戦だ!」「フロッタージュのワザを使ったんだね」と言われたほうが子供たちはテンションが上がる。間違いなく。だってカッコいいから。(笑)それに中・高学年となるとけっこう面白がって口にしたくなる。(リズムがいいのかな?必殺技みたいだからかな?(笑))そうすると覚えていて家で調べてきましたーという子も出てくる。するとよい循環ができ、次はこれやってみようとか、誰かのまねをしてやってみようとなる。結局はやってみたくなる・表現してみたくなる・わくわくする図工がゴールなのだろう。

家庭 家族への所属、技能≒安全指導

家庭科は字で読んでの通り、家庭について学習し、家庭で実践できることを目標とする。よく大学生で一人暮らし、自炊に困って家庭科の教科書を引っ張り出してきたなんてことを耳にしたことがあるが、それはよい傾向だと思う。教科書など見なくともできるのが一番だが・・・。もしかするとゴールの一つとして「一人暮らしできる人」を育てるも含まれるかもしれない。家庭科に関しては、どうしても保護者へのお願いなどが欠かせない。お手伝いや家事を体験したことも見たこともないことは子供には不可能なのである。正直なところを言えば、家庭科なぞ学校でやるものではない。家でやるものである。(それを言ってしまえばおしまいなのだが・・・。)しかし、授業で取り扱う以上、保護者や子供たちに必ず伝えることは「家族の一員としてやる仕事」「低・中学年の時は『お手伝い』と呼んでいたものはすべて高学年では家での『仕事』。家の仕事と書いて『家事』。働かざる者食うべからず。みんなもいつまでも子供ではいられない。感謝を込めて、家族のために、仕事をする。家族の一員なのだから。」

体育 体を動かすことは楽しい

初めに言いたいことは、「体育はスポーツ選手を育てるわけではない。」この一言に尽きると思う。厳しい技能指導や熱の入った指導。とても素晴らしいが何事も適度に指導することが必要だと思う。運動好きを減らしては元も子もない。体を動かすとなんだか楽しいと思わせることが必要である。逆上がり、跳び箱。学校の定番中の定番。最も得手不得手が分かれる種目。これらを「できなくても好き」「できるようになった」「もっと好きになった」にしなくてはならない。だから私は、子供たちに強要はしない。でも、「やりたい子、できるようになりたい子は絶対できるようにしてやる」という思いでやっている。というか、これは子供に授業の導入で必ず伝えている。意外と子供は苦手意識のせいでできないものも多い。先生が率先してそういった前向きさを発信して「なんだかいけそうな気がする」(芸人ではない)と思わせることが大切だと思う。教師がお手本を見せるのはほかの教科では大切にしているが、私は体育ではやらない。むしろ失敗の見本しかやらない。子供が委縮してしまって、「なんだかいけそうな気がする」が「なんだかいけそうもないかも」になってしまってはならないからである。なんなら、ちょっとスポーツできる生意気な子(失礼かな(笑)でもクラスに一人はいるよね。)に「先生より俺のほうがすごいぜ!」って思われるぐらいが勝ちである。子供もおだてりゃ木に登るのである。ただ、そういう子に舐められ始めると後々学級経営がめんどくさくなるので、休み時間に見本よりすごい技で思いっきり叩き潰す(笑)ポイントは休み時間。授業中はやらない。できればあんまり苦手意識のある子がいないところで。体育は「動く楽しさ、集う楽しさ、わかる楽しさ、伸びる楽しさ」を味わわせてあげれば大成功だろう。

道徳 正解はないが答えもない

これも、家庭科同様、道徳なぞ学校でやるものではない。家でやるものである教科である。道徳をやっているのは、外国で見ると少なく、日本は珍しい。それが日本の良さでもあるのだが・・・。震災の時に暴動が起きなかったのはなどと肯定的に捉えられていることもあるが、実際はそうでもないよなあといった印象。道徳など家庭でできるなら家庭教育で充分だと感じている。躾に近いかもしれない。ただ、道徳的な価値について知ったり、考えたり、議論したりすることは大いに価値があると思う。しかし、学校で(授業という名の)強制しなければこういった話し合いや対話が生まれないのは非常に残念である。家での対話が少ない(対話を増やせばいいってもんじゃない。量より質だろう)ことが原因かもしれない。だから授業でたくさん考え、意見を持たせてあげることが大切だと考えている。別に教科書じゃなくてもいい、考え議論させられればいいのであれば、子供にとっては「トロッコ問題」なんかがシンプルで分かりやすい。「ブレーキの利かない列車が走っている。その先には子供一人が列車に気付かずに立っている。このままでは轢かれてしまう。その間、自分の前にはレバーがあってポイント切り替えができる。しかし、ポイントを切り替えた先には老人が2人立っている。切り替えれば老人2人が轢かれてしまう。あなたならレバーを引きますか。引きませんか。」というたぐいのものである。ちなみに私はレバーは引かない。なぜなら、自分の手で人の運命を変えてしまったことになるからである。と子供に伝えると必ず「えー」という子供が半分ぐらいいる。「レバーを引く派」と「レバーを引かない派」で話し合いが始まる。答えはない。意味も無いのかもしれないが。しかし、この話し合いこそ考え議論する道徳だと思う。一人一人が考えを持ち、それを戦わせる。(勝ち負けはないがあえてこの表現で)そうすることで新たな価値に気付いたり、わかっちゃいるんだけど実際はできるかなあと実践的な想像ができたりするわけである。それこそ学校で道徳する意味があるのだろう。

特別活動 互いの立場を考える、学校は小さな社会だ

学級の話し合いでは、「折り合いをつける」ということが大切である。しかし、「折り合い」とはかなり難しい。意味も難しい上に、大人でもわからない。子供に少しわかりやすく噛み砕いて伝えるとしたら「みんなが少しずつガマンすること」「誰かの不安をみんなで取り除いてあげること」とこの二つは伝えている。(高学年であれば「折り合いをつける」という言葉は知っておいてほしいので伝えた上で意味も考えさせる)学級指導や朝の会、帰りの会(会をやるかやらないか賛否両論あるが、私はやっている)の先生の話などで、随時「学校は社会の縮図」だということは伝えておく。「当番活動」で学校(学級)を自治し、「係活動」「委員会」で学校(学級)をよりよくしていく。学校は小さい社会であって、誰一人欠けたり、仕事をしなかったり、不幸せであったりすると全員が幸せにならない。ということを発信している。だから子供たちにとって学級活動の時間は自分たちが何かをする時間だという認識かもしれない。話し合いグッズや議題箱の作成などこちらが押さえておきたいルール以外はすべて子供たちに任せている。(といってもこちらがレールは引いているんだけれど(笑))先生に言われなくたって自分たちでクラスを回せますよまで言われればこちらのものである。先生も仲間に入れてくれとは伝えるが(笑)

総合 自ら進んで、勉強をもっと面白く

本当に総合はやりようでどうとでも化ける教科だと思っている。やり方によってはこの教科、必要ないのでは?と思うほど。自ら進んでとか、勉強をもっと面白くするのは、総合だけでは成り立たないと思う。やはり各教科で進んで学習する力や面白さに気付かせなければならない。(あれ、やっぱり総合いらないんじゃ・・・)総合では、その学習の面白さを加速させる役割があると信じている。そこで、ただ調べ学習に徹するのではなく、様々な学習の仕方を伝えていくべきだ。例えば、インターネット上から必要な情報を見つける力や、図書室を使う方法、過去の新聞記事を見ることなど。表現もたくさん身に着ける。プレゼン資料を作ってみたり、新聞にまとめたりなど色んなインプットとアウトプットがあることに気づかせられれば、総合は成功だと考える。そのインプット、アウトプットを各教科に生かすことができればよいだろう。

外国語 英語ってなんかかっこいい

(私は外国語活動で英語を選択している学校に勤めています。他国の言語を選択している場合「英語」を「○○語」に変換して読むといいかもしれない)英語って「なんか」かっこいい。この「なんか」が大切だと思う。「なんだかわからないけど」「なんでかしらんが」という意味合いの「なんか」。これが大事。というか、本当の英語の面白さを伝えるには、日本の外国語活動ぐらいの時数や取組、授業ではダメダメである。本気で第二言語として定着させたいのであれば国語科ぐらいの時数を確保し、読み、書きや話す、聞くことをしなければ習熟しない。ある意味今の段階では「習熟」を目標とするなら時間の無駄である。一昔前に流行ったスピードラーニングっていうやつである。聞き流すだけというやつ。右耳から入って左耳に抜けて行っている状態である。どうすればいいのか。やっぱり最初に言った通り「なんか」が大切なのだろう。何となく先生がやっていてカッコいい。将来英語じゃべれるようになりたいな!と思わせることが最優先である。とにかく英語を浴びせる。できればかっこよさを意識して浴びせる。イントネーションがちょっと間違ってたぐらいで怯まない。(どうせ子供はわからない。間違って覚えるというレベルまでいかない。というかいけない。)出川イングリッシュ並みにポンポン伝える。てもでもそれだけだと子供がいやになるので日本語で解説しつつ活動を取り入れて、「英語ってカッコいいし楽しいね。」「外国の人とも話してみたいなあ。」と思わせることができれば成功だと考えている。そう思えば、自分の将来の夢に英語を使った仕事も選択肢の一つとして与えることができるだろう。

何年後かにこの記事を見返して、「この頃なんにもわかってねえな」とか「この気持ち忘れてたな」と振り返ることができますように。

2020年 5月 味ぽん先生

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