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「お気に入り」は見つからないほうがいい。

「お気に入りを見つけたい」

買い物好きなわたしはずっとそう思って、いろんなものに散財してきた。時計や服。音楽やマンガもそうだ。オンリーワンでわたしにぴったりあう、これ以外考えられない。そんなものを探してきたはずだった。

――はずだったのだけど、最近思う。
お気に入り、見つからないほうが良くない?

いや見つからないほうがよい、というのはすこし語弊がある。

お気に入りじたいは見つかったほうがよい。それは長いこと探しもとめて、みずからの理想に限りなくよりそってくれるものなのだろう。
私事でいうと仕事用の革グツはCAMPERでしか買わないことにしたところだ。仕事でつかえる華美でないクツの種類が多くないのが難点なので、また浮気する可能性は高いけれど。

それでも甲が高いわたしにとって、やわらかくかわいいデザインの革グツは貴重で、これまでもいろいろ浮気しながら探してきて、結局元サヤにもどったという感じだった。すこし前に正式に「お気に入り」として認定した。

それ自体は大変喜ばしいことだ。
しかし同時にさみしさを感じた自分にも気がついてしまったのだ。

「お気に入り」を作ること。

これからも定期的にそこに戻ってくること。それは他の商品を「選択しない」という選択でもあるからだ。

沢山の商品があり、なにを選び、なにを与えてくれるのかを考え、財布と相談しながら取捨選択をすることに買い物の楽しさはある。そこにもともと選択肢がなければ楽しいはずがないのだ。
買うものが決まり切っているのであれば、悪くなるのを見極めて定期的に補充するだけの事務作業にすぎない。

そんなこと言い出すと「結婚したがらない男」の言い訳のような気もしてきたけれど、まあそれは置いておこう。結婚してるし。

若いことが素晴らしいのは選択肢がたくさん残されているからだ。それをかなえる時間と体力があるからだ。
年を重ねるということは、選択肢というチケットをあらがいようもなく奪われることであったりする。それは事実だ。

だからといって、みずから選んでまで選択肢をせばめる必要はないだろう。できる限り「お気に入り」は作らないほうがいいのだ。

祭りは準備が一番楽しい。
「お気に入り」は見つかるまでが一番楽しい。

多分世の中そんなものなのだ。大切なのは「お気に入り」を見つけることではない。「お気に入り」を探しもとめるその姿勢なのだ。

揺るぎようのない「お気に入り」で自分のまわりを固めてしまった状態は、ある種の地獄のようなものではないだろうか。「お気に入り地獄」とでも呼ぶべき空間に違いない。

もちろんそんな生活が理想的という人もいると思う。そういう人は理想のためにこれからも「お気に入り」を探求していってほしい。
他方わたしは理想的なクツと出会ったことで、逆にさみしさを感じてしまった人間であり、やはり理想のために次なる「お気に入り」を探求していくつもりだ。


#エッセイ #コラム #クツ #お気に入り

「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)