見出し画像

平成の東京外国語大学の教育:韓活韓国語はここから誕生した

 「ことばと文化」を連動させた言語教育の実践。これが韓活韓国語のコンセプトです。

 ではなぜ、一介の文化研究者である私が、「ことばと文化が融合した学び」を必死になって考えるに至ったのか。

 振り返ってみたところ、自分のライフヒストリーに原点があることに気が付きました。私の大学時代の経験です。どこの教育者も、自分が受けた教育をベースに人を教育していますからね。

 というわけで、今日は私の受けた大学教育について思い出してみます。

東京外国語大学に存在した“二つの柱”

 私が入学したのは90年代後半世紀末の東京外国語大学。語学の殿堂と呼ばれ、生来の語学好き(主に英語好き)が集まる大学です。

 90年代当時、東外語大には外国語学部という1つの学部しかありませんでした。そこに欧米第一、欧米第二、ロシア・東欧、東アジア、東南アジア、南・西アジア、日本課程がありました。朝鮮語専攻は東アジア課程の中にあり、この課程には他に、中国語専攻とモンゴル語専攻がありました。ちなみに、専攻は定員に応じて大語科、中語科、小語科に区分されました。中国語が大語科、モンゴル語は小語科。中語科の朝鮮語は、定員がおそらく30人くらいだった思います。

 東外語大は「言語研究」と「地域研究」の2本柱を謳っていました。入学してから2年間は、毎日1コマから2コマ、語学を学びます。3年生になると、言語・情報コース、総合文化コース、地域・国際コースの3つのコースに分かれていきます。言語・情報コースがつまりは「言語研究」、総合文化コースと地域・国際コースが「地域研究」です。

言語と文化が融合したカリキュラム

 2年間みっちり語学を鍛えられた後、3年からは3つのコースに分かれて、専門性を高めていきます。この時、地域研究に進めば、「語学と文化が融合した状態」になります。

 そんなの普通じゃないのか? いいえ、普通じゃありません。

 もし仮に他の総合大学ならば、言語学と歴史学はそれぞれ別の学科です。言語学には言語学の、歴史学には歴史学の学問体系というディシプリンが核となり、研究エリアは学生によってバラバラになります。しかし、外語大はエリアを核にしており、ディシプリンが学生によってバラバラになるのです。

 言語の学び方も違います。外語大では、朝鮮語言語学をリードする重鎮から手ほどきを受けます。教授陣が言語学出身者ですから、言語学脳を自ずと鍛えられることになります。1年生は、彼らの研究課題である言語学の話題には1ミリもついていけませんから、世間と同じくカナタラから始めますが、言語学的課題をこなすところまで強引に育て上げられます。レポート課題も「-니까と-서の違いを調べて書け」といった言語学の初歩ですから。

 総合大学では、1〜2年で第2外国語として少しかじる程度ですから、これはとてつもなく大きな差です。私は地域研究者であり宗教学が専門ですが、言語学もかじっているため文法事項の整理は理路整然としており、朝鮮語の教職免許すら持っています。巷の韓国語教育者が持たないくらいの言語的知識を備えてしまっているのです。その証拠に、他大学の大学院に入学してからは、学会での通訳など語学要員として可愛がられました。語学と地域研究は両立しないことの方が一般的なのです。

 お分かりいただけたでしょうか。外語大という特殊な環境ゆえに語学と言語学以外の学問とが融合してしまったのです。言語学なら言語学、史学なら史学、政治学なら政治学にしか触れないのが普通です。語学も文化も両方かじるという状態にはならないのです。

 一方で、外語大は言語学以外の学問体系の学びが弱いという問題も存在します。外語大はエリアごとの縦割りなので、ディシプリンの学びが不十分になってしまうのです。例えば地域研究で政治学を学びたくても政治学が専門の先生がいなければ独学になってしまいます。私も「専門的に学ぶなら他大学院へ」と指導されました。外語大だけで完結する学びは、実は「言語学だけ」というと言い過ぎでしょうか(笑)。

 そういうデメリットもありますが、言語学と地域研究の基礎を学んだことが、「韓活韓国語」として体現されているのは間違いないでしょう。

韓国語単語ではなく文化を暗記する「常識テスト」 

 外大ならではの教育だったなと思うもの。もう一つは、「常識テスト」と呼ばれるテストです。

 今の大学で課しているテストは単語テスト、作文テスト、暗唱テストなど。いずれも外国語の習得を目指すものです。でも、この「常識テスト」は違います。語学知識以外のもの、歴史的事件、地理(山や川の名前)、著名人物などを100問以上出題されるテストなのです。

 あらかじめ出題問題は分かっています。単語帳を頭に叩き込むようにそれらを覚えていくのですが、歴史的事件などは「2〜3行で説明せよ」という記述式もあったものですから、それなりの対応が必要です。平凡社の「朝鮮を知る事典」という朝鮮半島に関する分厚い事典がありますが、それを引っ張り出してきて、調べてはまとめるという作業でテスト対策をしていました。

 1,2年時の概論授業は数コマでしたが、この常識テストで、その国の社会・歴史・文化といういわゆるレアリアを叩き込まれました。今考えると、非常にバランスの取れた教育だったなと思います。体系的なレアリア教育は、一般的な大学の語学講義ではまず行われていません。

 この教育の意味は、外国語という「言葉」にしか興味がなかった学生に、無理矢理に文化を注入することにあります。外国語オタクの学生に対して、もっと文化を勉強せい!と尻を叩いているのです(その逆もしかりですが、言語以外の学問に興味があって外語大を選ぶケースはレアでしょう)。

実はなおざりの外国語コミュニケーション

 褒め倒しもあれなので、外語大の客観的な評価も一つご紹介。

 当時の外語大生の韓国語力について、文法はめちゃめちゃよく知っているが、会話力はK田G大に劣るなどと揶揄されていました。90年代は留学がまだ一般的ではなく、語学留学するのは4年間で数名程度でした。今の勤務大学では、ほぼ全学生が半年以上の留学経験を持ちますから時代が変わったものです。

 日本にいながら外国語のコミュニケーション力をつけるのは困難なことだと思いますが、理由は他にもあります。天才言語学者から語学の手ほどきを受けていたこと、そして外語大が研究者養成機関だからです。

 旅行や仕事での会話力をつけるコミュニケーションという分野は眼中になく、研究者視点で外国語を見ています。普通の人のコミュニケーション力をつけることを主とする外国語教育を専門とする教員は、外語大にはいないのです。言語学研究のための外国語の習得という視点にならざるを得ません。それが外語大の文法偏重文化を作ったのだと思います。その意味で、外語大は「外国語を習得する大学」ではありません。「言語学の研究者を作る大学」なのです。世間の人は誤解しますから、「国際言語学大学」とでも名付けておきたいくらいです(笑)。

 ちなみに東外語大文法で有名な文法が語基論。ここでは詳しく述べませんが、活用で語基の話を始めたらほぼ間違いなく東外語大出身者です。

明らかに言語>文化なのがちょっぴり残念だけど

 そういう私は、2年時までに「-니까と-서の違いを調べて書け」といった言語学の初歩的なレポート課題をこなすなかで、自分は言語研究に興味なし(というか才能なし?)と自ら判断しました。2年間の語学習得期間に、いろんな分野の先生から韓国語を学びましたが、印象的だったのは文学の先生です。圧倒的な知識力、与太話に引かれました。なので、私は「地域・国際」コースに進みました。

 言語と文化が融合しているとはいっても、外語大生の圧倒的多数は、外国語大好き!外国語大得意!の外国語オタク大集団です。入学当初の興味は、明確に言語>文化。なので、優秀な学生ほど、外国語と一直線に結びつく「言語研究」になびく傾向が明らかに高い状況でした。

 学生ばかりではありません。言語研究と地域研究では、教授陣の勢力も言語研究側が上位にいるように見えました。カリキュラム上言語と文化はセットでしたが、教える側の心も一つ、というわけにはいかないようです(笑)。地域研究はディシプリンが弱いというハンディキャップもあり、地域研究の先生方は立場が弱かったのかもしれません。学生の頃も、先生方の肩身の狭さを何となく感じていました。


 さて、その後、外語大は言語文化学部、国際社会学部の2つに分裂し、日本学科が発展した国際日本学部の3学部体制になりました。

 外語大のHPを見ると、言語文化学部の学びの特徴は下記のようになっていました。

・世界のさまざまな地域の言語や文化を深く学びます。
・専攻言語や英語の高度な運用能力を身につけます。その他の外国語も多様に組み合わせつつ、高いレベルで言語を習得します。
言語研究・文化研究を中心とした人文学的思考を養成します。

 やはり、言語と文化は切り離されていないようです。国際社会学部は、エリア縛りも外しているようですね。

外国語教育を担ってきた外語大

 外語大で学んだ研究者の大半は、やがて外国語教育を担うことになっていきます。教養科目の外国語教育の教員として採用されることがほとんどです。専攻である言語学や宗教学を教える立場になることは非常にまれなのです。専門のポストは少なすぎて高嶺の花です。

 ここも勘違いされそうですが、言語学と外国語教育は異なる分野です。外国語教育が、どうすれば効率的にわかりやすく習得させるかを考えるなら、言語学は言語の法則を整理したり新たに見出すことが主目的なのです。「広く薄い視点」と「狭くて深い視点」に言い換えられるかもしれません。言いにくいことですが、言語学研究と比べて、外国語教育研究は歴史が浅く、歴史ある学問分野と比べると、本格的な研究とは呼べないほど質も量もつたないものです。外国語教育に提言しようと、野間秀樹先生が「朝鮮語教育講座」を書かれたこともありました。外語大で外国語教育が軽視されるのは、研究レベルに差がありすぎることも原因なのかもしれません。

 しかし、韓国語でいうと、エリートが学ぶ時代から大衆が学びたい言語となったとき、どんな教育がふさわしいのかを考えても良い時期に来ていると思います。言語学だけではそのテーマに対応できない。それが私の今感じていることです。言語学、コミュニケーション、文化や社会、この3つを融合させた「韓活韓国語」についてこれからも考えていきます。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?