映画『君たちはどう生きるか』を見るに至るまでの、私の思考のほぼ全てを書きたかった話。
よく一人でここまでやってきたね。
全ての準備を整えて、あとは観始めるだけだ。
うん。少し怖いよね。
長い物語を、感情の籠ったものをぶつけられるかもしれないのは。
でもそんなに気負わないで。
きっと、君のやってきたこと、考えてきた事全てが、君を支える土台になっている。
そう信じよう。
行ってらっしゃい。
はじめに
この文章の執筆にはタイムリミットがあったため、乱筆乱文となっております。整った文章、ストーリー性のある文章を期待された方には合わない可能性が高いです。正直、人に見せる文章として自信を持ってお届けしている文章ではありません。逆に、ちっぽけな人間のリアルが見たい方にはおすすめできるかもしれません。その点を承知の上ご覧下さい。
序
きっかけは、とあるインターネット上のやり取り。
正確ではないが、このようなニュアンスの一問一答。この返答に対して自分は、少し否定的な考えが頭に浮かんだ。
哲学を学問として知っている訳では無いが、哲学のような分野で考えを巡らすことを趣味とする私は、「自分の観念をより深く知ることが出来るチャンスなのに、それを一蹴するなどなんと勿体ない」と冷笑気味にこのやり取りを見ていた。自分の考え方とは反していて、対極に位置するものだろうと。
とはいえ、その場では特に気にすることも無く次なるコンテンツに移り、一旦はいつもの一日に戻っていくこととなる。その晩、ふと思い返したこのやり取りには、ひとつの疑問が付随していた。
「ああは考えたが、自分の中にも、問題提起を題材に据えたような作品を苦手として避けようとしている節がある、ように思える。実際、同名で出版されている書籍の表紙を見た際、苦手なタイプだと感じ避けた記憶がある。似たような哲学的問題を考えること自体は好きなのに、なぜ苦手意識があるのだろう?」
これが今回の、自問自答すべき議題となった。
少し考えると、原因はすぐに思い浮かんだ。「あの言葉が強い意志を持って発せられていると確信でき、それによって自身が責められているような感覚になるから」である。
あの強い目が、意志を固めた強い人間である彼の目が訴えかけてくるのだ。「強い人間であれ」と。「強い意志を持って生きろ」と。「めげずに、諦めずに、最大限の努力をしろ」と。そして、「君はまだそれらを出来ていない、とても弱い人間だ」と。
要するに、自分は意志も弱く周りに流されやすい、自己を確立できていない人間である、そういうコンプレックスからくる被害妄想。それが苦手意識の一端を担っていることは、容易に推測できることであった。
加えて、他人との質疑応答の中では、期待されている答えを出して自分のイメージや相手の機嫌を損ねないようにしなければならない、などというプレッシャーが存在する事も一因に挙げられる。自分発端の自問自答ではなく他者からの問題提起の形になると、他人と対話しているかのような感覚に陥り、結果無意識に外面のよい答えに逸れていくようになる。
私も結局は、あの冷笑の目を向けた者と似た考えで作品を忌避していた。せっかくのチャンスを、私は自らの手でわざわざ遠ざけていたのであった。
破
このように、判明したのは自身の後ろ向きな思考回路で、駄目な自分を改めて認識し暗い気持ちが増長するだけの結果となったが(このように何でもネガティブに捉えること自体が悪癖とも言えるが)、同時に、不思議とどこかから、この映画を見るモチベーションがじんわりと湧いてきた。
そう思わせたのは、根拠無き予感。
あの目なら。
青年の目ではなく、鳥のキャラクターの目なら。
本物の人間の目ではなく、偽物のキャラクターの目であれば。
エッセイ風の書籍に書かれた直接的なものではなく、フィクションの作品でキャラクターを通して問いかけがなされるというフィルターがあれば。
俺は。
何とか耐えることが出来るんじゃないか?
沢山のチャンスを逃してきたことが判明した今、一歩を踏み出すチャンスなのでは?
急
数日が経った。時計の針が12を越え、土曜日がやってくる。「破」を執筆した時点での目標は、「あらかじめ自分の生き方についての考え方・感性を突き詰めて言語化した上で作品に臨み」、「あえて人の多い週末に映画館に赴き、おどおどせずに一人映画鑑賞を完遂する」二点であった。
時間が、無くなっていた。
時間が無い。「生き方」という広いテーマについて余す所なく明快に言語化するには、膨大な時間が必要だ。
時間が無い。今週末を逃すと、この灯火は吹きすさぶ現代社会という風によって鎮火されてしまうだろう。この熱がギリギリ保たれる今週末しか、重い腰を上げて映画館に向かうタイミングは存在しないと心の内に確信があった。
時間はあったはずだった。この数日、時間を捻出することは可能なはずだった。頭の片隅には執筆を進めなければという感覚が薄らと漂っていた。
結局、気分の浮き沈みやスケジュール管理の甘さで、理想の記事は完成することなく終わった。
最悪のパターンがよぎる。このままずるずると先延ばしを続け、そのうち映画館に行くほどの気力も失せ、このnote文も無駄になり、時が経ち金曜ロードショーあたりで一般公開された作品を横目に、変わらず価値観の違う人間を冷笑し続ける人間になるパターン。
このまま放置すればどうせ映画館など行かなくなるし、執筆作業も諦める。
俺はこう生きたかった訳じゃない、なんて締め方をするのも時間の問題だ。
諦めよう。
妥協をしよう。熱なんていつまでも継続することは無いのだから。種火よりもロウソクを、ロウソクよりもストーブを、ストーブよりも暖房を手に入れて長く熱を失わない方法を得るべきなのに、俺は種火のような熱源でしかやる気を出すことが出来ないのだから。この種火を動力に動くしかないのだから。
幸い妥協案は残されている。全てを手に入れようと貪欲に臨み続ける姿勢を持たない者にとって、次善の策をもってある程度の幸せを手に入れることは重要だ。前向きに捉えれば、妥協出来ない己の性格を和らげるよいチャンスとも考えられる。
一つ、理想的なnoteの構成をきっぱり諦め、不格好な状態のnoteを放り投げ映画館に向かう。
一つ、土曜を使い考察を完成させた後、満を持して日曜に映画館に向かう。
前者は楽な分noteの完成度が落ちる。後者は躓いてnoteが完成せずかつ意地を張って時間を浪費した場合タイムアップになる可能性がある。
どちらにしても重要なのは映画館に行きたいという気持ちが消えない内に映画館に向かうことであり、その為には余裕を持って映画館に向かえるよう準備を整える必要があり、その為には丑三つ時に画面とにらめっこしているこの行為は今すぐに止めるべきなのである。
寝る前にふと、執筆に取り掛かり始めた時間を確認してみた。
木曜の朝だった。
なんとどうやら、全てを手に入れるには無謀な時間設定だったようだ。安心した。ハナから無理なことだったのだ。
そんな呆気ない結末で、私は眠りにつく。
果たして私は、映画館に辿り着けるのだろうか。
おわりに
このnoteが投稿されているならば、今頃私は映画館に到着し、鑑賞の準備を全て完了したということです。この文章は現地の映画館に到着後、入場できることが確定した段階で投稿ボタンを押すこととしています。冒頭の文章は、鑑賞前の緊張しているであろう自分へのメッセージです。感想を文章にしたい気持ちもありますが、この映画を見終えた後どのような気持ちになるかは不明なので、感想をまとめるかどうかの確約は致しかねます。なのでこのnoteは前後編ではない、ということにさせて下さい。ご了承ください。それでは、ここまで閲覧頂き誠にありがとうございました。
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