<完璧主義>の危うさに思う

思いつきで、ダラダラ書いてみません。うまく言えないが、五輪の開会式の作曲家問題を含めて、いま、どこかに<完璧>を期待する、あるいは完璧が当たり前だ、というような<完璧主義>が強く流れているように感じます。

もちろん、過去の言動が不適切な人に重要な役割を与え、問題が出てきてからも曖昧な対応に終始してきた主催者側の対応はおおいに疑問です。

まもなく始まるオリパラ大会、これからもコロナ感染の影響は様々に出てくるでしょう。事前に十分シミュレーションして、ルールを整備し、きちんと準備すべきだというのも、そのとおりだと思います。それでもうまく行かない局面に直面することは、避けられない気がします。

20年ほど前、アジアのある国に3年ほど住んで仕事してました。何事ものんびりしていました。予定通りに進まないことはしょっちゅう。でも、お互いそこまで気にしていませんでした。慣れるまでは、とても気になりました。

海外出張も多く、アフリカ、南米、ヨーロッパなどなど、いろんな国で開かれる会議に出ていました。国際会議で元首や政府高官などが出席する場面も、多く見ました。もちろん各国の主催者は、準備にそれなりの努力をされ、プログラムも入念に用意し、リハーサルもしているのでしょう。
 しかし、それでも予定通りにいかない場面は、必ず、というと言い過ぎかもしれませんが、しばしば起こりました。それでも大抵の場合は、少なくとも参加者・観客などは、かなりおおらかに、温かい目で見守り、なんとか元の予定に戻ったりすると、大きな拍手が湧くのも目撃しました。

日本だけとはいいません、ドイツや中国、韓国なども、儀式の完璧性を求める点では、かなり真剣というか、厳しいというか、そういう傾向が強いように思いました。

反面、多くの南の国は、のんびりというか、余裕というか、ダラダラというか、、でした。これで大丈夫かな、とよく思いました。でも、最終的にはなんとか辻褄が合い、気持ちよく行事が進み、終わっていきました。笑顔とともに。

もちろん、人命にかかわること、人の尊厳にかかわることは、良い加減にすますことはできないと思います。

でも、そうでないところにまで、あまりにも完璧性だけを追い求めると、かえって大事な何かを喪うことにもなりかねないと思います。何のためにそこまで他人を責めるのか、ときに立ち止まることも必要だと思います。

失敗も、許せるものは赦す、、もちろん自分の責任による誤りは潔く認める、そのうえで同じ失敗を繰り返さないようにお互いが努力する。だれかに皺寄せを押し付けるのではなく、、


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