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ソーシャルディスタンスをとれば済むのか。結局そこそこになってしまう自分を回避したい。

おはようございます。

藍澤誠です。
ただいま午前3時です。少し睡眠不足が続いたので、22時に寝ました。起きたのは2時。ということは何時に寝ても結局4時間しか眠れない体になってしまいました。昼寝で調整するしかないですね。

あくまで東京からの個人的な総括ですが・・・2020年3月に学校がいきなりすべて休校になってしまい(変化のスタート)、2020年4月は世の中がものすごくナーバスに(劇的変化)。2020年5月上旬は我慢継続、5月末は少しずつ解除の兆し(変化の終わり)、そして2020年6月に不安の中、新しい社会の模索(次のステップ)というのが、私の実感です。

4月の段階で、「6月末までは学校が通常の状態にならない」という予感があったので、ここまでは予想の範囲内でした。

さてここからです。

「この事態に対応できたかどうか」という点で振り返ると、「そこそこ対応はできたが、新しい社会は創れていない」というのが自己評価です。

たしかに仕事において、「自分としては新しいことをいくつも始めた」ように感じるし見えるかもしれないけれど、それは今思うと、新しいことではないし、社会からの強力な要請があったから起こせたアクションであって(まさに対応)、内部から沸き起こった動機ではない。ましてや「理想を現実にしよう」というクリエイティブな動機でもない。

だから「新しい社会の模索」という現段階において、「社会的な変化を求める強い圧が弱まった」ときに、私自身は「ちょっと新しい社会的変化」に、「ちょっとだけ対応したアクション」しかとれないことは、容易に想像できます。

「結局、そこそこ」になってしまう。そうはなりたくないけれど、これまでの経験上、間違いなくそうなってしまう。

たとえば新しい生活として提示されている「ソーシャルディスタンス」。基本的にこれまでの社会は、人との距離を縮めることが是とされてきたのに、それが転換してしまった。そんなときに、ただ根拠もなく、感染回避という目的だけのために、ソーシャルディスタンスを声高に叫んだり、あらゆるものに適用しようとしたりするのはありなんだろうか。

極端な話、感染していない人どうしが(←ここが重要)マスクをしてソーシャルディスタンスをとっても、ほぼ無意味なわけです。ほぼ無意味なのに、このアクションはある意味実行しやすいし、見た目にも解りやすいから、自分たちでできちゃうし(いいことをしてる感があるし)、人や社会にもこの対策を要求してしまいがちな気がします。さらには、いったんそうしてしまうと、そうしないことが悪のような気さえします。感染していないか、自分でわからないのも問題を複雑にします。私も「自分が感染している」という前提にたったら、いきなり誰とも会わない状態を作り出す努力を始めてしまいました(※悪いことだと言っているわけではありません。事実を書きました)。

一方で、とっても難しいのは「自分の体調を見極めて、体調が悪い時には休む」こと。感染症対策としては、こちらの方がどう考えても決定的に重要。でもちょっと無理っぽい。私は20年塾をやっていて、去年初めて1日だけ休んだのですが、それを「けっこうすごいこと」だと思っていましたし「ムリしていた日」はかなりありました。

具体的なウィルスにかかった場合、「回復まで数か月の休養を個人レベルで取れる」か、というと即答で「無理」です。今回はいくつかのレベルで休業補償がありましたが、「個人のちょっとした体調不調の兆し」を支援するような体制には社会はなっていません。ましてや「個人的に大事をとって長期に休む」ことが「当たり前」としてデザインされているかというとそんなはずはありません。

「ちょっとでも熱がある場合は休んでくださいね」と伝えるのは簡単ですが、「大事をとって休む」という選択をした個人は、安心して休めるのか。休業したときに経済的に大丈夫なのか。勉強は大丈夫なのか。スポーツは大丈夫なのか。大事な取引の日に休めるか。テスト当日に休めるか。レギュラー争いをしているときいに休めるか。社会保障レベルではなく、自衛として(その延長に、周囲を守る行為として)そういう設計がなされているか。

たった今、思い描いてみました。熱があるときにムリしないで、安心して休める社会を。

それはいきなり隔離状態になる時期が、みずからの人生のプランに当たり前に組み込まれ、自分も社会もそれを受け入れることができる社会。しかもその隔離が、弱いものでは「自主的隔離」(私も高齢の母に会わないようにしてきたし、たった今も、対面式の授業をやる気があまり起きていません)であり、強いものは「入院した隔離」。

自分の人生において、本当の意味で「人と強制断絶させられるというソーシャルディスタンス」が、結婚や、出産が組み込まれたり、転勤や転職が組み込まれるのと同じような方向性で組み込まれていく社会を想像してみました。「ちょっと調子悪い」を「アラート」として、「感染症だったらまずいから休みます」と言える社会を創れるのか。

少し体調の悪いシェフが、「お店をいきなり数日臨時休業する」ことと、「無理して店を開きます。でも除菌のグッズは店にあるし、清潔にしているから安心です」という状態を比較した場合、どっちが感染防止対策になるか。熱が少しあるので臨時休業します、という貼り紙がされている店に、また行くのか。その誠実さを信頼するのか、それとも熱を出した人と受け止めて、今後は近寄らないようにするのか。

結婚も出産も仕事に対するアプローチも、性別も生き方も、「ひとりひとりが自由に選べる」状態にあるとは言えないし(自分の記憶の範囲では、過去よりは少しずつよくなっていると思う)、社会的な支援も十分ではないし、過去のイメージにずっととらわれている社会設計・社会状況において、感染症対策という新しい観点だけが、「みんなの負担が、できるだけ小さい状態」で設計されるとは、楽観的な私でも思えない。

ただ一つだけ特殊なのは、「感染症は人を選ばない」というところ。そして人種・信条・性別・年齢を超えて「拡がってしまう」というところ。この超強力な、ある意味「負の普遍性」をもった対象と、とことん対峙することによって、副次的というか結果的にあらゆる「社会の選択」が肯定&支援されやすくなるのでは、という予感がします。

社会が動き出すこのタイミングで、息子が骨折で利き手が使えなくなりました。そこで私は「不自由さをデバイス(機器)で克服してみよう」というチャレンジを選択してみました。

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