見出し画像

[ 鷹匠が語るウサーマ・ビン・ラーディンと鷹狩キャンプ ]

ハヤブサは中東ではステータスであり、権力の象徴でもある。ハヤブサは金よりもヘロインよりも価値があった。70年代初頭、メイン州に住むアラン・パロットという当時18歳の青年は、プロの鷹狩りとしてキャリアを追求するために、イランへと旅立った。

首都テヘランに到着し、鷹の絵を見せると次の日にはモハンマド・レザー・シャーの所有する鷹狩キャンプへ連れていかれたそうだ。その後すぐにパロット氏はシャーの個人的な鷹のトレーナーとして雇われた。18歳の米国人の青年がパフラヴィー2世とすんなり引き合われるのならば、それは事前に用意されていたとしか言いようがない。結局、パロット氏はそのままテヘランに1年滞在した。

アメリカに帰国すると、パロット氏はコーネル大学に入学し、生物学を専攻する。在学中、世界で初めて白ハヤブサを合法的に捕獲し、繁殖に成功させると、彼は大学を3年目で中退した。その後、白ハヤブサの供給者としてアラブ王族と繋がりを持つと、王室鷹狩キャンプに出入りするようになった。

しかし時代が経つにつれて、裕福なアラブ人の趣味である鷹狩が変化し始めていることにパロット氏は気づいた。ハヤブサの闇市場は軍事指導者の汚職、政治的殺人、国際テロにつながり、王室鷹狩キャンプは武器の密輸業者が集まるロビー活動の場と化した。そして「鷹狩キャンプ」は、中東で「ビジネスをする」という比喩となった。パロット氏はアラブ王族へのハヤブサ供給を辞め、ハヤブサの密輸の取り締まりに専念することにした。これは自分が白ハヤブサの繁殖に成功したことで、密輸業という結果を招いたことへの罪悪感によるものだ。

密輸を取り締まるということは密輸業者から情報収集することになり、機密の鷹狩交通ルートを手に入れることができる。例えば鷹狩キャンプに出入りするウサーマ・ビン・ラーディンの位置を見つけ出す時に、こうした機密ルートが機能した。そして鷹狩キャンプがアルカイダのたまり場であったことは周知の事実であった。

90年代から2000年代にかけて、ウサーマ・ビン・ラーディンは鷹狩りに深く関わっていた。パロット氏が交流した密輸者のなかには、バローチスターン地域でウサーマ・ビン・ラーディンに遭遇した人もいた。その頃、米国務省も鷹狩キャンプを監視していて、「ウサーマ・ビン・ラーディンはワズィーリスターン地域の洞窟にいる」という情報まで得ていた。これはトラボラの戦いの後だろう。

2004年、パロット氏はウサーマ・ビン・ラーディンがイラン北部に所在していることを突き止め、CIAやNSAに情報を提供した。しかしアメリカ政府からの反応はなかった。なぜならアメリカはビン・ラーディンが10年近くも自宅軟禁という形でイランに身を隠していたことを知っていたからだ。いや、知っていたどころか、ビン・ラーディンとアルカイーダのリーダーや彼らの家族たちをイランで保護していたのだ。だからアメリカがアフガニスタンを侵略する必要性は全くなかった。

鷹匠アラン・パロット氏がサファリクラブのエージェントになった時期は分からないが、ウサーマ・ビン・ラーディンもサファリクラブに属していた。(ビン・ラーディンは米国籍も有していた)サファリクラブの始まりは70年代にチャーチ委員会(上院情報問題特別調査委員会の前身)が設立されたころ、旧ソ連に対抗するためにCIAの代替として結成され、特に冷戦時代のアフリカに深く関与していた。サファリクラブは多国籍銀行の口座を使って同盟国からも支援されていた。パロット氏も口座を所有していたし、ビン・ラーディンもサファリクラブを通して支援されていた。これが「ウサーマ・ビン・ラーディンはCIAのエージェント」と言われる所以だろう。

ウサーマ・ビン・ラーディンがイランにいることを確信したパロット氏と彼のチームは、鷹狩キャンプの裏でビン・ラーディンを機密に中立地帯に移動させようとイランと交渉し始めた。しかし2009年にオバマ政権が誕生すると、新しいCIA長官として昇格したレオン・パネッタ氏はこの身元引き渡し作戦を中止した。仕方なく、パロット氏と彼のチームは直接イランと交渉することにした。その後、彼のチームはイランとの交渉に成功し、作戦を開始する準備を整えていた。2010年12月上旬、当時のニューメキシコ州知事であったビル・リチャードソン氏とパロット氏は交渉し、米国大使としてビン・ラーディンの身柄を引き受けることに同意してくれた。ところがビン・ラーディンの身柄は数か月前にすでにイランからパキスタンのアボッタバードに移動させられていた。

翌月、パロット氏がカーティス・ウェルドン元下院議員(ペンシルベニア州)との電話会談で得た情報によると、リチャードソン州知事はビン・ラーディンの身柄引き渡しの役を得れば次期大統領も可能だと周りから煽てられていたが、レオン・パネッタCIA長官が許可しないだろうとのこと。実際にリチャードソン州知事は二回ほどパネッタCIA長官と交渉したが、ビン・ラーディンの件は首を突っ込まず北朝鮮だけに集中しろとパネッタCIA長官に言われたとのこと。また、当時のバイデン副大統領の弁護士、ブライアン・エッティンガー氏は国務省を介さず(ヒラリー・クリントンを介さず)パキスタンにバイデン副大統領の私用で行けるぐらいのフィクサーであるからして、このエッティンガー氏を通してみるべきだと助言された。

イランがパロット氏の交渉を蹴って、当時の国土安全保障・テロ対策担当補佐官だったジョン・ブレナン氏(のちにCIA長官)の要請に従ったのは、第一に、アメリカとイランは表向き敵対しているように見えるが両国の上層部は繋がっているということ。第二に、パロット氏のシナリオから万が一、両国間の戦争に発展する可能性をイランは恐れたからだ。

ビン・ラーディンと100人以上のアルカイーダたちはパキスタンのアボッタバードにある豪邸に移された。こうしてジョン・ブレナン氏やヒラリー・クリントン国務長官の計画通りにビン・ラーディン撃のステージが用意された。ビン・ラーディンを豪邸の庭に立たせたりと彼の所在も「宣伝」した。あとは運命の日を待つだけだった。ウサーマ・ビン・ラーディンは2011年5月2日に米海軍対テロ特殊部隊の軍事作戦によってパキスタンで殺害されたとされているが、実際に殺害されたのは影武者で、本物はイランにいたとパロット氏は告発している。大体、イスラーム教徒が「水葬」されたという話自体が嘘っぽいから、殺害されたと信じていない人も多いのではないかと思う。しかも死体を水葬したと表明したのがイスラーム教徒のジョン・ブレナン氏だ。彼は2013年にCIA長官として出世している。オバマ政権はイランに20億ドルを支払うことに同意した。表向きには1,520億ドルの核合意だが、第一回目の分割払いとして4億ドルを外貨、主にユーロで支払った。

パロット氏が語ったこれらの話が真実であれば、映画「Zero Dark Thirty (ゼロ・ダーク・サーティ)」なんかはCIAのプロパガンダ映画だ。ビン・ラーディンを撃ち殺したと語った海軍特殊部隊の元隊員ロバート・オニール氏の話もまさにプロパガンダである。とにかく、あれだけウサーマ・ビン・ラーディン殺害のプロパガンダを世界中に流してしまえば、もう二度と彼は表舞台に現れることはない。


最後までお読みくださりありがとうございました。このコンテンツは2020年10月のブログ記事を改訂したものです。現在ではウェルドン元下院議員の音声はYouTubeから削除されていますのでリンクを貼れませんでした。

[参考]

Feathered Cocaine: The Story of Money, Terrorism and Falconry
ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害(ウィキペディア)
Alan Parrot - Feathered Cocaine 2010 Documentary (YouTube:Part 1 of 6)
Alan Parrot - Feathered Cocaine 2010 Documentary (YouTube:Part 2 of 6)
Alan Parrot - Feathered Cocaine 2010 Documentary (YouTube:Part 3 of 6)
Alan Parrot - Feathered Cocaine 2010 Documentary (YouTube:Part 4 of 6)
Alan Parrot - Feathered Cocaine 2010 Documentary (YouTube:Part 5 of 6)
Alan Parrot - Feathered Cocaine 2010 Documentary (YouTube:Part 6 of 6)


いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。