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通り雨

※この作品はフィクションです。実際の人物・団体とは関係ありません。

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ざっ、という音とともに、横殴りの雨が、コンビニの窓を汚した。読みさしの雑誌から、顔をあげる。レジの周辺に目をやると、透明なビニール傘はまだ、売れ残っていた。私は安堵して、バッグから財布を取り出し、レジに向かった。
 自動ドアが開くと、アスファルトの足元は豪雨に煙っている。激しいしぶきをあげながら、車が目の前を通り過ぎていく。少し待てば止む気もしたが、洗濯したシーツを干していたことがひっかかった。
 思い切って、歩き出す。ストッキングを穿いた脚は、みるみる濡れていった。パンプスの底から雨水が侵入し、湿った音をたてた。一人暮らしのアパートまでは、信号を渡って数分程度の距離だ。気がせいて小走りになったところで、
「あっ!柏木さん!」
と呼ぶ声が、耳に入った。
「すみません、入れてください!」

 素っ頓狂な声とともに、私の傘の中に飛び込んできたのは、深瀬くんだった。同じサークルの1年生だ。私達のサークルは天文サークルで、プラネタリウムを観に行っては飲み歩くという、ごくライトな活動を主としている。私は現役を退いた4年生で、彼のことは飲み会や学内で見かける程度だった。必要事項以外に、言葉を交わすこともない。けれども、私の視線はよく、彼の姿の上で止まっていた。
 大学1年生の夏なんて、まだ高校生が抜けきっていない。成長期の途上にあるかのように、彼の長身は痩せ細り、また身長が伸びているのではないかと思わせた。時折見せる笑顔も、どこか高校生めいていた。まだまだ、男友達と騒ぐのが楽しい年代だ。そのくせ、いつもちゃんと同じ、同級生の女の子を連れていた。彼らは、頭半分くらいのちょうどよい身長差だった。ゆるく巻いた髪に、薄手のスカートを穿いた彼女は、手入れの行き届いたミニチュアダックスフントを思わせた。彼のほうは、無造作に背を丸め、ポケットに手を突っ込んで歩いていた。それを見ると私は、自動的に目を細めてしまうのだった。つまり、彼らは、とても幼くて、愛らしかったのだ。
 自分にもあんな頃があったかな、と、私は考える。私は、入学して早々に、サークルの先輩とつきあい始めた。だから、高校生の匂いを脱ぎ捨てるのは早かったかもしれない。自分のことはよくわからないものだ。その先輩は先に就職していて、今も安定した関係を築いている。一緒にいると居心地がよく、いつもあたたかな気持ちになった。だから、本当にわからない。
 その時、どうして深瀬くんを部屋に招いてしまったのか。

 深瀬くんが傘を持っていないのは、一目瞭然だった。私のアパートは、大学のキャンパスと最寄り駅の中間地点にある。駅に行こうと思えばまた、ここから来た方へ引き返すことになる。シーツのことは気がかりだったものの、ひとつ傘に入ったまま、私は尋ねた。
「駅まで送っていこうか?」
「すみません。傘はないし、気分は悪いし、もう最悪っすよ」
後半は独り言のようだった。よく見れば、こころなしか顔が白く、額に汗をかいている。
「熱中症?うちで休んでいく?」
言ってしまってから、自分でとまどった。
「いいんですか?」
意外そうな顔で、深瀬くんが目を上げる。この流れで、断るのもおかしな話だと思った。もちろん気はとがめたものの、気がつくと私は頷いていた。我に返って、一言、つけ加える。
「雨が、止むまでだよ」

 部屋は、片づいていないと気が済まないたちだ。だから、突然の誰かの来訪に、戸惑ったことはない。どちらかというと、深瀬くんの方が面くらっていた。
「おじゃまします……」
ぼそっと呟いて、あたりを見回す。
「すごい、綺麗ですね」
対面キッチンではないけれど1DKなので、二人掛けのテーブルセットを置いている。私は深瀬くんに椅子を勧め、エアコンのスイッチを入れた。
 ベランダに駆け込むと、したたかに雨が額を打った。完全に、アウトだ。雨は、部屋の中まで侵入する勢いで降り続いていた。シーツを取り入れ、もう一度洗濯機の蓋を閉める。リビングに戻り、こまごましたお菓子の入った籠を、食器棚からテーブルに置く。
「塩飴あるよ。なにか飲む?」
確か、麦茶を作っておいた筈だ。冷蔵庫を開けていると、ふと気配を感じ、私は振り返った。

 少し乱暴に抱きすくめられて、ああ、やっぱり部屋にあげることは、こういう事とセットになっているんだな、と頭の隅で思った。抱き返すことはせず、かといって、突き放すこともしなかった。閉めたつもりの窓が、少し開いていて、隙間から豪雨の音が溢れ出している。
 私の反応に、深瀬くんもどう出ていいか迷っていた。力を抜いた腕で、静かに抱き寄せたまま、じっと黙り込む。
 どうして、部屋に呼んでしまったんだろうな。と、頭の中でひとりごちた。
 私には、つきあっている恋人がいる。その関係を、壊す気はない。私のしていることは、明らかに矛盾していた。相反することをしながら、私は、ミニチュアダックスフントのような女の子を思い浮かべていた。私は、彼女をも傷つけたくなかった。誰のことも、傷つけたくはなかった。
 豪雨は、降ってきた時と同じように、唐突に止む。視界に急に差してきた光に、私はそれを悟った。いつのまにか遠ざかる雨足に、屋根を打つ水音もおさまってきた。
「雨、止みそうだよ」
私は言った。
「雨が止むまで、って、言ったよね」
深瀬くんは、上体をはなして、私の顔を見た。虚を突かれた表情をしていた。やがて、その瞳に、悔しそうな色が浮かび、唇が固く引き結ばれた。
「柏木さんって」
低い声が、独り言のように言った。
「ちゃんとしてますよね」
 その通りだった。ちゃんとしているのが身上だった。部屋はいつも片づいている。結婚を想定できる恋人がいる。就職も内定し、あとは卒業するだけだ。私の前には、未来へまっすぐに伸びた道があった。そこに、顔見知りの後輩と浮気をする、なんて寄り道はない。こんなにも軽率なことをして、なぜか今もそう思っている。初めて、自分のことを、嫌な女だな、と感じた。深瀬くんも、そう思っているのではないか。目をあげると、腹立たしそうな顔つきで、深瀬くんがこちらを見下ろしていた。でも、私に対して怒っているのではないと分かった。彼は、自分に腹を立てているのだ。子供扱いされている、彼自身に対してだ。
「どうして、いっつも、見るんですか?」
気づかれていたのだ、と思った。そんなに不躾に見ていただろうか。私は優しい気持ちになった。
「懐かしいから」
一言だけ答えると、そっと全身をはなした。深瀬くんは、それ以上無理強いしなかった。不貞腐れた顔で、足元に置いた荷物を拾い上げる。
「小降りになったけど、傘、持ってく?」
「いいです、走ります」
ぶっきらぼうな口調で答え、頭を下げた。
「お邪魔しました」

 カンカンカン、と、アパートの階段を下りる音が遠ざかるのを、私は聴いていた。ベランダに駆け寄ると、眩しい太陽光の中に小雨が散っていた。虹が出そうだな、と私は思った。
 眼下の住宅街の道を、長身の後ろ姿が遠ざかっていく。こころなしか、落ち込んでいるようだ。それを見ていると、胸が痛くなった。呼び止めたい衝動を堪え、ゆっくりと息を飲み下す。肋骨のあたりが軋んで、呼吸が乱れた。太陽の光はどんどん強まり、雨足は弱まっていた。雨粒のひとつひとつが、細い針のように輝いた。
 ちゃんとおうちに、帰るんだよ。
 声には出さず、私は言った。これでよかった、と思った。あの時、踏み出さなくてよかった。そう思う日が、必ず来るのだ。私にも、そして、彼にも。私は確信していた。そして、自分の身上よりも、深瀬くんを守れたことにほっとしていた。
 台所に置きっぱなしのバッグの中で、スマホが鳴った。着信を見ると、恋人からだった。深呼吸して、息を整えた。雨は、もうすぐ止む。眩しい太陽の光に、すべてが飲み尽くされる。あれは、通り雨だったのだ。画面に指を滑らせ、電話に出ると、落ち着いた口調で、私は恋人と話し始めた。



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