レトリックの快楽

「ロリータ」を読んだ。
この小説がロリータという言葉を生み出したということぐらいのことは知っていても、内容についてはほとんど何も知らなかった。しかし先日ネットでこの「ロリータ」について書かれたブログを読んで興味が湧いたのだった。

主人公は反吐が出るようなサイコパス、読者は主人公に嫌悪感や怒りを感じながら読み進める、その不快感に脱落する読者も多い。というような事が書かれていて、そうか、それは一体どれほどのものなんだ?という薄暗い期待と気色の悪い好奇心で、「ロリータ」を手に取ったのだった。もし読み通せなかったらそれはそれで正常な精神を持っていることになるのではないかと思ったのだ。

ところが、これが途中で投げ出すなんてとんでもない、抜群に面白い小説だったのだ。主人公は確かにサイコパスなのだが、期待していた不快感や嫌悪感は全く感じられなかった。異常であることは間違いないし、私自身が同じことをしたいかと言われれば違うのだけれど、変態的な行動やその喜びに浸っている主人公を見ているのが面白い。最低だな主人公……と思うのだけど、なぜかそれが読書の喜びに転換されてしまう。読みながらにやにやしっぱなしだった。

ひたすらロリータを崇め、賛美し続ける主人公が、いかに倒錯的な行為に及ぶかということを面白がりながら読んでいるところで、物語は急転直下、まさにそのロリータが主人公の手の中にはいってしまう。そして物語が一気に退屈になるというのがこの本のすごいところで、思いを遂げた主人公が途端につまらない人間になる。他の男に嫉妬したり、周りの目を恐れたり、手に入れたロリータを失いたくないばかりの主人公ハンバート・ハンバートはふつうすぎて全然面白くない。おいおい、あの狂おしいまでにロリータを賛美していたお前はどこにいったんだ!しっかりしろ!もっと狂気を見せてみろ!とハンバート・ハンバートの胸ぐらをつかんでぐらぐら揺さぶりたい衝動に駆られてしまう。

そういう「変態紳士観察ツール」みたいな面白さだけでは読み進められないとわかった時に、じわじわと浮かび上がってくるのは、隣にいるロリータ、思いは遂げたものの遠く離れてしまったかのようなロリータ、自分の理想とは違ったロリータ、その主人公のやきもきっぷりはきっと人類共通のもので、ちょっとしたことで舞い上がったり絶望したりしながらもじりじりと焦がれているハンバート・ハンバートの姿は、ただシンプルにせつないものだった。

そうしてみると「ロリータ」は恋愛小説としても捉えられるのだけど、ナボコフは幾重にも幾重にもそうしたくくりを用意しているので、恋愛小説だ!と言った瞬間に恋愛小説でなくなってしまうみたいな正体のつかめなさがある。


恋愛小説以外の読み解きをするなら「ニンフェット」という主人公が提唱する気持ち悪くそれゆえに面白すぎる概念があるけれど、主人公はただひたすらニンフェットを追い求め、手に入ったと思ったらニンフェットはすり抜けて逃げていく。だからこの小説は神や大自然や超越的なものを追い求め敗北していくロマン派そのもので、絶対に手に入らないものを求め続けるという最初から敗北している、ハンバート・ハンバートの挫折の物語でもあった。そうして主人公が己の敗北を理解した時、美しい情景が立ち上がり始める。追い求めていたニンフェットが完全に失われた時、それまで一方的でしかなかった主人公の欲望が愛に転換されていくのだ。

そんな叙情の中で胸を打たれつつも、私の中の半分は「ハンバート君、君のロリータは失われたのだから違うニンフェット探してこいよ!お前の狂気を見せてみろ!」とわりとガチで最低の心の声がこだましていた。読み手の私はそのように思っても、ハンバート・ハンバートは違うわけで、そうかそのようにして愛は生まれうるのか、ロリータにこだわり続けるハンバートが最後に見出したのは愛だったのか。と感動した。もはや求めていた容姿も人格でもなんでもない存在の、かつてのロリータを、おずおずと、心の底から、打ちひしがれてもなお切実に求めるその場面は美しく感動的だった。ハンバートが人の心を取り戻した瞬間だった。

「孤独が私を腐食しつつあった。私には人とのまじわりといたわりが必要だったのだ。」とか書かれるとぐっときてしまう。ハンバートが見つけたもの、それはきっと自分の弱さだったのだ。


そんなわけで、読者を裏切り続ける「ロリータ」は、官能小説でも恋愛小説でもミステリでもコメディでもロードノベルでもピカレスクロマンでもなく、どれでもあってどれでもないというまぎれもなく「ロリータ」としか言いようのないひとつの作品になっていて、ものすごいものを読んだ!という充実感と、やっぱり変態だったな!という倒錯が入り混じった唯一無二の読後感が押し寄せてくる。

この「ロリータ」がこれほどまでに面白いのは、究極にまで「文字を読む」という快楽を追求しているからではないかと思う。「ロリータ」はハンバートの手記という体裁をとっているのだけれど、ハンバートは学者であり文章は饒舌であり衒学的。ありとあらゆるものが引用や暗喩によって表現され、それをかみしめ味わうだけで脳に直接快楽が叩き込まれる。何気なく「ハンサムなアッシリア人」なんて言葉が出てきて、何かの引用なのかパロディなのか平均的なアッシリア人の顔さえわからないけれど、レトリックの面白さに惹きつけられてしまう。読書中、終始自分とは桁外れに頭がいいナボコフという人に圧倒され続けるわけで、脳内をナボコフのレトリックによって陵辱され続けるような状態。そうして私は苦痛の中に快楽を見出すわけです。苦痛の中の快楽はドストエフスキーだったか。

でも、読書の喜びとは本来そういうものではないか。自分より遥かに頭のいい人に頭の中を蹂躙され、屈服し、そうして刺激と知見を得ているのではないか。それが書物を読むことの本質ではないか。そう思うと「ロリータ」というのは変態的で扇情的な側面がまず先立ってしまうけれど、その本質は意外にも真っ直ぐな、読書を好む者に正面から向かい合った作品ではないかと感じられる。

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