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『日本的感性と短歌 / 佐佐木幸綱編』のレビュー

概要

 どうして日本人は短歌を偏愛し長歌を捨ててしまったのだろうか。短歌と長歌の本質的な違いは何だろうか。短歌の文字からどこまで読み取れるだろうか。私たちから自然は失われてしまったのだろうか。短歌をつなげることでどんな深みが生まれてくるのか。

内容は、

短歌形式と天皇制  3
簡潔と詠嘆――短歌という形式――  41
日本の詩と季節  79
しみじみ胸の底が痛んで来る――若山牧水『みなかみ紀行』をめぐって――  98
三十一音への亡命――危機のヴィジョンとしての短歌の言葉――  115
旅人の歌  145
神女を演ずる男たち――古代和歌とジェンダー――  166
無常観の伝統と現代――短歌と死生観――  185
日本人・こころ・恋歌  217

 日本人にとって歌は特別な才能を持つ作家の作品を凡人が鑑賞するというものではなく、誰もが作り鑑賞し合うという相互性を持つものだった。長歌のような物語は、一連のストーリーを持っている。それに対し、短歌は三十一文字という制約の中で、一瞬の風景、一瞬の感情を表し、また短歌全文を一瞬で見渡せるのだ。

一番好きな部分

 日本語への過剰なまでの意識。外来種であり根拠を持たない詩の不安と、固有種であることにしか根拠を持てない短歌の不安は、それぞれのジャンルの宿命として決して解消できないからこそ、詩人と歌人は両極端のパラノイアと化していく。「その僕の暗い情熱の源泉はただ短歌への限りない憎悪、それのみである」(『装飾楽句』跋文)。塚本邦雄のこの言葉は、詩人と歌人とを結ぶ「暗い情熱」の組紐を語っている。
 詩はついにすべてのルールを放棄し、あらゆるゲームから落ちこぼれた。短歌も自らの〈形式〉に固着し、日本語とともに生き日本語とともに滅びるしかない固有性によってゲームから落ちこぼれていく。明日をも知れない雑種の危機と、ついに列島でしか生きていけない純血種の危機。

『日本的感性と短歌 / 佐佐木幸綱編』
三十一音への亡命 p.117-118

 三十一音から短歌はどこにも脱出できない。この三十一音が千年以上にわたって蓄積してきたものを内部に宿らせて生きていくしかない。日本が居住不能になれば、日本人はその言語を保持できるだろうか。日本人が全世界の表に散ったとき、それでも歌をよみ続ける者だけが歌人の名に値する。

評価

分かりやすさ   7/10
おもしろさ    7/10
手軽さ      6/10
有益さ      7/10
表紙のデザイン  8/10

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