美しいものを、美しいと
先日こんな言葉をもらった。
「私を本当に素敵に撮ってくれてありがとう。普段はね、写真を撮られるのが嫌いなの。だけど愛ちゃんが撮ってくれた自分を見たら、いいじゃん、イケてるじゃん、私素敵、綺麗じゃんと思えたよ。救われたの。本当にありがとう。」と。
なんとカメラマン冥利に尽きるお言葉だろうか。
彼女は、私がパーティーでいわば盗み撮りした女性だった。無心で気持ち良さそうに音に身を委ねる彼女は美しかった。撮らずにはいられなかった。
このような嬉しい奇跡を、カメラマンは起こせる。
当の本人すら知らない、その人の美しさを顕在化し撮り収めることができる。
その写真が美しいのは、snowで加工したからじゃない。
大前提として、私から見た彼女が美しかったからだ。
数年前だろうか。私は原美術館で催されていた篠山紀信大先生の展示「快楽の館」に足を運んだ。そしてそこに大きく飾られていた壇蜜さんの写真の前から動けなくなった。
元々壇蜜さんのことはとても好きだったのだが、何故動けなくなったかといえば、
その写真がとりわけ美し過ぎたからだった。目を離すことができなかった。
壇蜜さんのいつもに増して憂いを帯びた恍惚な表情、
真っ白な柔肌にかかる、枝葉の繊細な影。
その写真を見て私は思った。
「紀信さんの見る世界はどんなに美しいのだろうか。」
ーーー篠山紀信大先生にはまだまだ到底及ばないだろうが、
写真機を扱う端くれの私なりに思うことがある。
写真家の最も身につけるべきものは、美しいものを美しいと思う心、感性だ。
当然それを感ずるままに表現する技術力も必要ではある。
ただ全ては美しいと感じ取るところからがスタートだ。
でなければシャッターチャンスがわからない。
これは同時に、醜いもの、状態...
"さして美しくないもの、それなりなもの"を識別する力を身につける、ということでもある。
"本当に美しい、素敵なもの"と、"そうではないもの"、
両方を知っていなければならない。
特に前者の"本当に美しい、素敵なもの"を知らなければ、
"そうではないもの"をそれだと思い込んでしまう。
すなはちこれを世間は3文字で"センス"というだろう。
この世の沢山の美しいものを目にして、センスを磨いていこう。
心は鎧をせず常にむき出しで、ナマモノであるべきだ。
自身に嘘をつかず、素直に世界を味わい噛み締めていこう。
そう思った。
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