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キリシタン目線の日本のキリスト教史①-フランシスコ・ザビエルから二十六聖人の殉教まで

※記事内の日付は極力西暦に書き換えています。


伝来

初めて洗礼を受けた日本人「ヤジロウ」

1546年(天文15年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長で商人のジョルジュ・アルヴァレスの勧めで、ヤジロウは乗船しマラッカを目指した。
ヤジロウが以前何をしていたのかは不明確であるが、フロイスの『日本史』では八幡(海賊)であったと書かれている。

ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国の出身で、彼自身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺めた為、来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。
その罪を告白するために、後に日本初のキリスト教宣教師となるフランシスコ・ザビエルを訪ねたという。

マラッカにいたヤジロウは、ザビエルの導きでインドのゴアに行き、1548年、聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で他の数名の日本人と共に洗礼を受けた。
これが記録に残るはじめて洗礼を受けた日本人である。
その後ヤジロウは、同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだが、彼以外の記録はない。

ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教について尋ねられたおり、スムーズに進むだろうと答え、ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞く中で日本への宣教を決意した。

1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いゴアを離れ、同年8月15日に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲町)に上陸。
この時、ザビエル、ヤジロウの他、2人の日本人とイエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、トーレスを助けながら活動をともに続けたフアン・フェルナンデス修道士がいた。
この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げ、ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。

当初言葉の問題で、聖書のデウス(神)を「大日」と訳したこと、ザビエルらがインドから来たことなど、複数の要因から「天竺教」「南蛮宗」などと呼ばれ、仏教の一派と誤解されることも多かったが、キリスト教の正確な理解を妨げていると認識し、すぐに「原語主義」を採用していくこととなる。

なお、その後のヤジロウの生涯については不詳である。
一説には布教活動から離れて八幡の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという説もあるが、鹿児島県にはヤジロウが身を潜めて宣教を続けていたとする伝承がいくつかある。
日置市伊集院町土橋の県道206号沿いには「ヤジロウの墓(伝)」と記されたヤジロウのものであるとされる墓があり、下甑島の下甑町片野浦にある天上墓もヤジロウの墓であるとされ、クロ教(クロ宗)と言われる現地の土着宗教は、ヤジロウの伝えたキリシタン信仰であるという伝説がある。

フランシスコ・ザビエル

日本上陸の翌月9月に、ザビエル一行は伊集院城(一宇治城)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見し以下のように記している。

「領主はたいへん丁重にもてなしてくださり、キリスト教の教理が書かれている本を大切にするように言われました。そしてもしも、イエズス・キリストの教えが真理であり、良いものであれば、悪魔はたいへん苦しむであろうと言われました。数日後、その臣下たちにキリスト信者になりたい者はすべて信者になってよいと許可を与えました。」

聖フランシスコ・ザビエル書簡

後に日本人初のヨーロッパ留学生となるベルナルド(洗礼名のみ)にもこの時に出会い以降ザビエルと同行する。

ザビエルは薩摩に滞在していた時、曹洞宗の玉龍山福昌寺の忍室和尚と親しく交流し、彼自身の書簡には以下の記述がある。

「僧侶たちのなかでもっとも知識のある人たちと幾度も語り合いました。そのなかで、とくにこの地のすべての人びとからたいへん尊敬されている方は、学識豊かで生活態度が立派で、高位にあり、また80歳の高齢であるためにたいへん尊敬されている方で、忍室と呼ばれ、日本語では(この名は)『真理の心』を意味しています。彼らのあいだでは司教に相当する地位(東堂)におられます。
…いろいろ話しあったなかで、霊魂が不滅であるか、あるいは身体とともに滅びるものであるかについて、彼が疑いを持ち、決めかねていることを私は知りました。彼は私に、ある場合には霊魂は不滅であると言い、他の場合には否定します。」

聖フランシスコ・ザビエル書簡

1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京都に向かい日本国の王(天皇)の宣教許可を得ようと京を目指し平戸を出発した。
しかし、当時の京都は戦乱で疲弊し、天皇の権威も失墜していたため、目的を果たすことができなかった。
サビエルは一旦平戸に戻り、今度は進物を携えて山口を訪れ、領主の許可を得て宣教に励み、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら、徐々に日本人協力者を得ることができ、700名ほどに洗礼を授けた。
1551年11月15日、日本滞在が2年を過ぎインドからの情報がないことを気にしていたザビエルは、一旦日本を離れゴアへ帰ることに決めるが、このとき、4人の日本人、山口のマテオ(洗礼名のみ)と鹿児島のベルナルドを神学校へ留学させるつもりで同行、他は大友義鎮の家臣といわれる武士とジョアン・アントニオという青年がいた。

1552年2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。
しかし、ザビエルは間もなく病を発症。
12月3日、再び日本を訪れること無く死去。46歳であった。

1622年3月12日、教皇グレゴリウス15世によって列聖(聖人とされる)。
ザビエルは、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれ、12月3日は記念日となっている。
遺骸は、ボム・ジェズ教会(インドのゴア)に安置され10年に1度棺が開帳される。

「ザビエルの遺骸」
https://www.flickr.com/photos/joegoaukoldgoa/

ザビエルは日本人を以下のように評価している。

「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」
「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」

フランシスコ・ザビエル

ザビエルの報告を受けたイエズス会本部は、さらなる宣教師を派遣し、それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られることとなる。
また、ザビエルは日本の首都に神学部、法学部、ならびに医学部を兼ね備えたカトリック系の総合大学を建学するという夢を抱いていた。

その後、マテオはゴアで病死。
ベルナルドはゴアで学んだ後、1553年9月にリスボンに到着、修道院で生活する。
1555年ローマ教皇パウルス4世に謁見。
引き続きポルトガルのコインブラ大学などで神学を学ぶが、1557年3月のはじめの四旬節に病のため死去。
ベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちに最後まで大きな感銘を与えたと言われる。

ザビエルとヤジロウ、ベルナルドの像
ベルナルドはザビエルが最初に日本で洗礼を授けた日本人で初のヨーロッパ留学生となる
鹿児島市 ザビエル公園「© K.P.V.B」

布教の拡大

ザビエルは共に日本へやって来たコスメ・デ・トーレスに日本布教の責任を任せ1551年ゴアへ旅立ち、フェルナンデスはトーレスを助けながら布教を続けた。
その後、トーレスは日本人のロレンソ了斎などの協力者を得て地道な宣教を続けた。

トーレスは宣教師たちに対して日本文化を尊重し、日本式の暮らしを行うことを求め、彼自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごした。

1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名を生み出した。
各地を転々とし続け、京都、堺、山口、豊後、肥前などに多くの教会と多数のキリスト教徒を生み出したトーレスは疲れ果て、新しい布教長の派遣を依頼。
1570年6月に新しい布教長フランシスコ・カブラル神父が到着した後、4ヶ月後10月2日天草志岐(熊本県天草郡苓北町)にて死去。
活動を共にしていたフェルナンデスは1567年、布教活動中の平戸で病死している。

トーレスと共に活動していたロレンソ了齊は、目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていたが、周防国山口の街角でザビエルの話を聞きザビエルによって洗礼を授かった。
仏教や神道の知識が深く名説教家であったと言われ、多くの大名に謁見し高山右近の父高山友照は彼に感銘を受け洗礼を受ける。
1569年、ルイス・フロイスとともに織田信長の面前で反キリシタンの論客であった日蓮宗の僧・朝山日乗と議論を行った。
戦国末期の時代、救いを求めていた多くの人々の疑問に答え、特に畿内や九州で多くの洗礼者を出したのはロレンソの活動が大きいと言われる。
晩年はバテレン追放令を受けて九州へと移り、1592年に長崎で死去した。

この頃から有力者が洗礼を受けキリシタン大名となる者が多数現れる。
しかし、キリスト教の理念に惹かれた者ばかりでなく、南蛮貿易により利を得たい考えのものも多かった。
または南蛮の文化や科学技術を習得する目的から信仰するようになった者もいた。

バテレン追放令

織田信長は、鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易のためと、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。
信長の跡を継いだ豊臣秀吉も当初は信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていた。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事などを知り、1587年7月(天正15年)にキリスト教宣教の制限を表明する「バテレン追放令」発令。

1587年7月(天正15年)『吉利支丹伴天連追放令』原文

これは宣教師(バテレン)の国外退去を求めるものであったが、布教に関係しない外国人の出入りは自由なままであり、個人でキリスト教を信仰すること自体も許されていた。
大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能であったが、実際には政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高(よしたか:または官兵衛)が棄教したり、高山右近が信仰のために地位を捨てるということもあった。
一方で小西行長有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいた。
また退去を宣告された宣教師たちも抗議を行うなどして、南蛮貿易を重く見た秀吉は以後黙認する形を取っている。

結果として、追放令以後も宣教師達は制限付きだが活動することはでき、この後、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受けていたなど、キリスト教の広がりは活発であった。
なお、日本初のキリシタン大名となった長崎県の三城城主大村純忠(おおむら すみただ)はその追放令の発令される前月に病で死去している。

バテレン追放令は日本で最初の国策としてのキリスト教への制限ではあるが、キリスト教やその信者への弾圧が目的ではなく形式的なものであった。追放令を命じた当の秀吉も、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた。
秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった。
長崎ではイエズス会の力が継続し、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した。

原因について

よく、禁教令やキリシタン迫害を「宣教師は奴隷貿易を斡旋していたのが原因」などと言われ、またその根拠となっているものに大村由己(ゆうこ)の『九州動座記』の以下の記述がある。

「日本人を数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主(バテレン)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する」

『九州動座記』

注意すべきことは、大村由己は秀吉に御伽衆として仕えた人物で、秀吉の伝記である『天正記』の著者でもある。
かつ、この「九州動座記」はバテレン追放令のあとに書かれたと言われ、かなりの政治的バイアスが働いていることは否めない。
また同様に『天正遣欧使節記』を根拠にされることがあるが、これは日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことからフィクションとされている。
更に、バテレン追放令には人身売買を禁止する文が前日の「覚」書から削除され、発布されたバテレン追放令自体に人身売買の記述はない。

なお、平安中期以降「下人」と言われる私的隷属民が日本におり、戦国時代では乱妨取りなどによる人狩りもしばしば見られ、日本人間で古くから人身売買は行われていた。
それの裏付けとして、外国人の奴隷取引とは別に秀吉も朱印状を出して(日本人間の)人身売買を禁止するよう命令してるし、江戸幕府は、慶長17年(1612年)、元和5年(1619年)、天和3年(1683年)と、度々禁令を発して人身売買を禁止したが、変わらず身売りが日常的且つ大量に行われた。

また、イエズス会は1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発し、イエズス会の抗議もあり、1571年当時のポルトガル王(セバスティアン1世)は日本人の奴隷交易の中止を命令。
しかし、奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いていた。

「ポルトガル人が来たから人身売買が始まった」、「日本人狩りのために宣教師がやって来た」かのような発言は明らか誤りである。

その他の原因としては諸説あり、「外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため」「キリスト教徒による神社仏閣への迫害」「日本の植民地化の意図に気づいたため」との説明がある。

「神社仏閣への迫害」説については、大村純忠や大友義鎮、義統などのキリシタン大名による過激行動がある。
純忠は、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。
また、領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない領民が殺害されたり土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招いていた。
その結果、双方の信者間での対立関係が激化し、宣教師の中には「(寺院を破壊することを)善き事業として賞賛し寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望む」を書簡を残した宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノもいる。
その一方で、一時日本におけるイエズス会の責任者でもあったアレッサンドロ・ヴァリニャーノは寺社仏閣の破壊を禁じていたなど、日本の宣教姿勢を巡って宣教師間やイエズス会とフランシスコ会などの宗派によっても激しい対立があった。

一番有力と思われる「日本の植民地化の意図に気づいたため」との説については「日本二十六聖人」の項に記載する。

天正遣欧少年使節

少し時を戻し、バテレン追放令の8年前の1579年(天正7年)7月、イエズス会東インド管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日する。

彼は日本人の資質を高く評価しており、日本布教区の責任者でありながら日本人と日本文化に対して否定的・差別的であったカブラルを解任させた人物。
ヴァリニャーノは日本人司祭の育成が急務と考え、1580年に豊後臼杵に修練院ノビシャドを、肥前有馬(南島原市)と近江安土(近江八幡市)にセミナリヨ(小神学校)を、1581年豊後府内(大分市)にコレジオ(大神学校)を設立した。
これらの学校でラテン語、日本語および哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させた。

また、少年使節の企画を発案。
1582年(天正10年)にキリシタン大名である大友義鎮(宗麟)大村純忠有馬晴信らの名代としてローマへ4名の少年を中心とした「天正遣欧少年使節団」が派遣される。
ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的を以下のように説明している。

第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てる。

使節の少年たちはセミナリヨで学ぶ生徒の中から4人が選ばれ、彼らの派遣当時の年齢は13 - 14歳であった。
選ばれたのは以下の4名である。

  • 伊東マンショ(主席正使) - 大友義鎮(宗麟)の名代。義鎮の血縁。日向国主伊東義祐の孫。

  • 千々石(ちぢわ)ミゲル(正使) - 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。

  • 中浦ジュリアン(副使) - 肥前国中浦城主小佐々純吉の息子・小佐々甚吾として生誕。

  • 原マルチノ(副使)- 大村領の名士・原中務の子

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。
タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。
右上 伊東、右下 千々石、左上 中浦、左下 原、中央 メスキータ神父

使節団は1582年(天正10年)2月20日長崎港を出港する。
季節風を頼りとしながらマカオ - マラッカ - ゴア - アフリカの喜望峰を経て、2年半の時間を要し 1584年8月リスボンに到着する。
彼らは滞在中、ポルトガル、スペイン、イタリアを訪問し、各国国王に謁見の後、1585年3月23日 - ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見を賜るがグレゴリウス13世が間もなく崩御されたため、新教皇シスト 5 世の戴冠式にも参加することになる。

その後、ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの都市やアッシジにも巡礼し、1586年4月リスボンを出発し帰路につく。
翌年5月インドのゴアに到着した際には、恩師ヴァリニャーノに再会し、コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる。

全てが順調に進行していると思えたが2ヶ月後の7月、キリシタンにとっては歴史的な大事件が起こる。
秀吉によるバテレン追放令発布である。
使節団は急遽帰国を延期し、長崎に帰港したのは1590年7月21日であった。

帰国後

使節団は各地で大歓迎され、大成功であった。
使節団によって日本の存在がヨーロッパに知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
彼ら一人一人も素晴らしい経験をし帰国を果した。

しかし、8年の時はあまりにも長かった。
使節団が日本を発ったのは織田信長が生きていた時代であったが、帰ってきた日本は秀吉が統治する時代であり、彼らを送り出したキリシタン大名大村純忠と大友義鎮もこの世におらず、キリスト教禁制の時代になろうとしていた。

日本に戻って来た翌年1591年3月3日、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。
秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレ)を演奏。
伊東マンショがバイオリン、千々石ミゲルがチェンバロ、原マルティノがハープ、中浦ジュリアンがリュートを演奏、秀吉は3回もアンコールしたと言われる。
秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、一様に神学の道を志してみなそれを断った。

その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、共にイエズス会に入会。
1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(千々石ミゲルはイエズス会を退会)。
1608年、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。

その後、伊東マンショは豊前小倉を拠点に活動していたが、1611年に領主・細川忠興によって追放。
長崎へ移った後、コレジオで教えていたが、1612年11月13日に病死した。

伊東マンショ(16歳頃)の肖像画。ドメニコ・ティントレット筆。
1585年に使節団がヴェネツィアを訪れた際、元老院がヤコポ・ティントレットに製作を依頼。
その後ヤコポの息子ドメニコが仕上げたものと見られている。

千々石ミゲルは欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じはじめていたと推測されている。
そのせいか、或いは元より病弱であったためか、コレジオにおいて次第に勉学が振るわなくなり、マカオ留学前の1601年、棄教を宣言。
洗礼名を捨て千々石清左衛門と名を改め、従兄弟の大村喜前(よしあき:大村純忠の長男)に大村藩を立藩すると藩士として召し出される。

ミゲルは棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押しし、藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下。
さらに領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じないように諭したという。
欧州でキリスト教の本山を見聞きして来たミゲルが反キリストに転じたことは宣教師達の威信を失わせた。

当然キリシタン派の反発を招くようになり、裏切り者として命を狙われ、長崎へ移り住む。

晩年については不明であるが、2003年に自らの領地であった伊木力(諫早市多良見地区)で墓所と思われる石碑が発見された。
2017年9月、石碑周辺を発掘し、ミゲルのものと思われる木棺と欧州製のロザリオとみられる遺物などが見つかった。
その後の調査で出土した歯や骨片はミゲルの妻であることが確定。
最終となる2021年8月の発掘調査で、新たな墓坑が見つかり、そこからほぼ全身の人骨が発見。

「長崎新聞」https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=811402203504328704

2022年4月、千々石ミゲル墓所調査プロジェクトは、この埋葬施設跡が千々石ミゲル夫妻の墓と確定し、妻の墓所にあった副葬品からミゲルが晩年までキリスト教信仰を保っていた可能性があるとしている。

中浦ジュリアンは1604年(慶長9年)に長崎に帰国して有馬のセミナリヨで教え、1608年(慶長13年)京都、博多で布教。
1614年2月の江戸幕府の厳しい禁教令により、多数の宣教師や信徒が追放されたが、彼は禁教令に叛いて国内に残り、潜伏して布教の道を選ぶ。
激しい弾圧の中、約20年潜伏して布教活動をしていたが、1632年捕縛された。
翌1633年10月18日、イエズス会司祭のジョアン・マテウス・アダミ、アントニオ・デ・スーザ、クリストヴァン・フェレイラ、ドミニコ会司祭のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士とともに、西坂で穴吊るしの刑に処せられ棄教を迫られるが、頑なに棄教を拒み、4日目の10月21日に殉教した。65歳没。
最期の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」だったという。
2008年(平成20年)11月24日福者に列福された。

ローマを指さす中浦ジュリアン像
中浦ジュリアン記念公園 (長崎県西海市西海町中浦)

原マルティノは当時の司祭の必須教養であったラテン語にすぐれ、語学の才能があった。
彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタチオ・クリスティ』(『キリストに倣いて』)の日本語訳「こんてんつすむんぢ(世のはかなさ)」などを出版している。
渉外術にすぐれ、小西行長や加藤清正とも折衝にあたり、当時の日本人司祭の中ではもっとも知られた存在であった。

1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令を受けて11月7日マカオにむかって出発。マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西(小西行長の孫)やペトロ岐部らがローマを目指した際には援助した。

1629年10月23日に死去。遺骸は(正面のファサードのみ残る)マカオの大聖堂の地下に生涯の師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。

日本二十六聖人

秀吉は1596年、京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕らえて26人を処刑した。
日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。
26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。

原因と言われる「サン=フェリペ号事件」

この原因としてよく「サン=フェリペ号事件」の事件を期に、秀吉がキリスト教を警戒し始めたという説(先の「日本の植民地化の意図に気づいたため」)がある。

通説においては、巨額の積荷を没収されたサン=フェリペ号の船員が憤って五奉行の一人増田長盛に世界地図を見せて、スペインは広大な領土をもつ国であり日本がどれだけ小さい国であるかを語り、長盛が
「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」
と問うたところ、
「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」
と答えたというもの。
この経緯はスペイン商人が書いた『日本王国記』に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたものであり、似たようなやり取りはあったものと見られているが、直接目撃した証言や文書も残っていないため、史実であったかについて定まった評価はない。

当時の豊臣政権はアジアにおけるスペインの脆弱な戦力を正確に把握しており、東の果てにある日本は弱小国どころか、当時のスペインを凌ぐ軍事力を誇る強国であったわけで、はるばる遠征してやってくるヨーロッパの国が征服できる国ではなかったのは事実であるが、「その土地の民をキリスト教徒とし、その信徒を内応せしめて国家を操る。」ということになれば話は違ってくる。

実際、中南米を始め多くの国々はそのようにして植民地支配をされてきたわけで、それを秀吉がこの時に知ったのであるなら宣教師追放を始めた秀吉の政策は正しかったのかもしれない。

しかし、だからと言って凄惨極まる宣教師やキリシタン迫害、虐殺を正当化はできないだろう。

宣教師の思い

私は宣教師自身が、植民地支配の目的のために宣教をしていたとは思えない。
そもそも、侵略が目的なら殉教する必要は無いし、迫害が厳しくなる日本で捉えられれば拷問し棄教を迫られ、棄教しなければ処刑が待っていると知りながら日本を目指した宣教師が多数いた。

「殉教することで天国へ行けると思っていたからだ」と言う人もいるかもしれないが、当時、宣教師や商人たちの報告が随時届けられていたため、彼らは惨たらしい拷問の様子を詳細に知っていた。
そして実際に拷問され棄教、殉教して行ったのは彼らの友人であり、尊敬していた先輩たちであった。
宣教師たちにとってまさに地獄のような、そんな日本へ向かわせた彼らの心には、神への献身が多くを占めていたと私は思う。
彼らの多くは純粋に聖書の教えを広めたいと思い、教えに習って日本人を愛そうと懸命であったはずである。

中にはフランシスコ・カブラルのように日本人に対して差別的な宣教師もいたが、日本に対して好意的な宣教師も多くいた。

「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」
「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ
彼は寺社仏閣の破壊を称賛した人物だが、一方で日本人に慕われ、日本人と日本に対しては好感を抱いていた。

また、実業家で後にイエズス会員となるルイス・デ・アルメイダは、日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受け、私財を投じて乳児院を建て、大友宗麟に願って土地をもらいうけ、日本初の病院を建てた。

殉教

秀吉は1596年12月11日、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。
三成は捕縛名簿からイエズス会派の者を除外するように主張したが、許されず、高山右近の名を除外することはできたが、パウロ三木を含む他の信者の除外は果たせなかった。
大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。
24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて、市中引き回しとなった。※秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた。
1597年1月10日、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。
また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛。
二人はキリスト教徒として己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった。
26人のうち日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。

厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、
「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」
とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは
「つかの間の命と永遠の命を取り替えることはできない」
と言い、毅然として寺沢の申し出を断った。
26人は通常の刑場でなく、ゴルゴダの丘に似ている長崎の西坂の丘の上で処刑されることを望み、一行はそこへ連行された。
処刑当日の2月5日、長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにもかかわらず、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきていた。
パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。
群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは午前10時頃であった。

この禁教令において信徒に対する強制改宗などの政策は取られず、京都のフランシスコ会以外には弾圧は加えられなかった。

「日本二十六聖人記念館」長崎市西坂町


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