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失恋は痛かった。全ての成長に痛みは伴うのか。

 19歳の頃、いくつかの理由が重なり合って、何人かの“大切な人”への信じる心を失った。

 理由というのは、私自身の失恋と、信頼する人の不倫と、信頼する人の恋愛観によって崩れた人間関係。
 全てが別々のところで、ほぼ同時期に起こった。
 
『世界は自分の写し鏡』という考え方を、不完全な状態で持っていた私は、起こった全ては自分の責任、自分の未熟さ故だと思い、自分を責めた。

 今思えば、他者との線引きができず“大切な人”の問題までも、自分の問題にしていたのだと思う。


 自分を責め続けることは、精神的には苦しいけれど、思考的には楽だと、思考の堕落だと気が付いた私は、抜け出し成長する為に、
『今の自分も好きだけれど、より良い自分になる』
という目標に立て、自分に言い聞かせるようになった。


痛みを伴う成長への依存

『今の自分も好きだけれど、より良い自分になる』
 この言葉は、一見美しい。
 けれど、鍍金が剥げると『今の自分が嫌い。嫌いな自分を受け入れられないと、好きな自分には成長できない』だった。

 成長の為に“自分の嫌いなところ”を隈なく探す。
 そして“自分の嫌いなところ”を1度受け入れた上で、改める。
 この流れを繰り返すことで、成長し続けられていると錯覚してしまった。


“自分の嫌いなところ”に向き合うと、当然痛みが伴う。
 思春期の成長痛のように、筋トレ後の筋肉痛のように、成長には痛みが伴うのだと思い込んでしまった。


 私を否定する人と付き合い続けたり、自分の歌を声が出なくなるまで何度も否定したり。
 積極的に痛みを覚えることで強くなり、成長できると信じていた。

 母との関係もあり、自分への否定は身近な選択肢だったのだと思う。
 

新しく見つけた成長

 25歳を迎える2023年に入って【成長=思考・感情】ではないと、やっと気が付いた。

 体感や経験、実感そのものを振り返った時にあるものこそが、成長と呼ぶに相応しいと思う。
 気が付いた今は当たり前のように思うけれど、少なくとも19歳から23歳の私には、分からなかった。


 今なら【目標に向かって走っているつもりが、走ることが目的になってしまっていた】のだと、理解ができる。
 私だけではなく、より良い自分になろうとする人、より良い自分になってからがスタートだと考えている人は、陥りがちかもしれない。


 19歳の私へ「課題を持つことは道標になるけれど、課題を積極的に見つけようとすると、迷子になるよ。」と言ってくれる人がいたなら、そう言っても理解できない私を側で見守ってくれる人がいたなら、覚えた痛みは少なくて済んだのかもしれない。
 そう思うと、切ない。


 このように気づき、考えるようになったのは、偶然、あるいは自然に“痛みを伴わない成長”を味わったからだと思う。

 手放しに自分と相手を受け入れた上で“好き”を実感したり、涙が止まらなくなるくらいの感動を経験したり。
 それらと過去を線で結ぶと、やさしくて鮮やかな“痛みを伴わない成長”が見つかった。

 ここ数ヶ月で起きた“痛みを伴わない成長”に繋がる出来事の全てが、ご褒美のようで、もう元には戻りたくないし、戻れない。

 具体的な出来事の話は、折を見て文章にしようと思う。



 痛みを覚えながら、自分を否定しながら、それでもなお、成長しようとする人へ。
 今の私が紡いだ言葉が、糸口へのきっかけとなりますように。
 もし、会えるのなら、話を聞きたいし、話をしたい。

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