母親になる、なれない、ならない

母になれた人と、母になれなかった人、母にならなかった人。

自分自身は現在42歳の子なし。
タイムリミットのキワッキワにいる段階かもしれないけど、自分では今世は子どもは持たないだろうと思っている。

私自身は、母にならなかった人と、母になれなかった人を両方兼ね備えているタイプだと思っている。
「自分が母親にふさわしいのか?ふさわしくないのではないか?」という、得体の知れない不安が幼い頃からあった。
自分と母性というものを結びつけることができなかった。

それでも、結婚していた時は家庭を作りたかったから、子どもは欲しかった。
不妊治療もした。でも、できなかった。
子どもを望んでも叶わなかった。
私のような、元々母親になること自体を不安に思っている人間でさえ、こんなにダメージ受けるんだから、ずっと願って願って治療をしている人の悲しみは、本当に計り知れないと痛感した。


今週、女性3人で飲む機会があった。
私以外の2人は、子どもがいる母親である。

会の終盤。
「”子どもが家にいないんだから(その方の子どもさんは、学校の寮暮らしをしている)、勤務時間の融通がきくわよね”って言われたんだよね。そういうことじゃないんだよね。子どもから、いつヘルプがあってもいいように、動けるようにしたいから夜勤は避けてるのに、その辺がわかんないんだよね、あの人。」

会話の中の「あの人」というのは、子どものいない50代の女性上司のことだ。

もう1人が言う。
「そうだよね、そういうことじゃないんだよね。子どもからの連絡がなかったからといって、その時間は無駄じゃないんだよね。それだって、子どもとの時間だから。多分、そういうことがわかんないんだろうね。」

そこから母親談義が始まった。
私は何となく目の前にスーッと薄い線が引かれたように感じた。
線のこちら側と向こう側の境界線に、「母親」を感じた。

私自身は子どもを持たなかったこと、持てなかったことに対して、大きくは傷付いてはいないつもりだ。
だけど、母親の人と、母親になれなかった人の圧倒的な違いを感じた。
そのコントラストがあまりに鮮烈で、その場にいるのが苦しかった。

「分かり合えないことがある」と感じた。

会話に出てきた子なし50代女性の心中は、私は本人じゃないからわからないけど、自分を投影してしまって、”子育てに関して理解がない”と言われてしまっていることが、悲しくもあった。

母親じゃない私には、子どものいない私には、母親の苦労や大変さを知ることができない。わからない。
仕事をしながら子育てする大変さの本当のところは、わからない。
だから母親ってすごいと思う。
私は自分ができないから、余計そう思う。素直にそう思う。

でも、母親になれなかった人の悲しみや辛さ、そこで噛み締め、押し殺している持ちがあることを知っている。
この辛さが、なかなか口に出せない類のものだということ、それが更に胸を刺すことも、自分の経験上知っている。
自己憐憫したいわけではない。
むしろ自己憐憫なんて、余計に惨めになるだけだ。
だから、口に出さない。そうせざるを得ない。

女性にとって「母親になるか、ならないか、なれないか」は、とても繊細な部分だと思う。

私自身は、女性という性に生まれて子どもを産まないということに対して、罪悪感を感じることもある。
自分の性を全うできなくてごめんなさいと、心の奥底でうごめいている。

スーッと引かれた薄い線のこちら側で、私は何に怒っているのだろうか。
何に悲しんでいるのだろうか。
線の向こう側に行けなかったことだろうか。
それは女性としてダメなことなんだろうか。
声にならない悲鳴が聞こえる。

女性にとって母親になるということは、どういうことなんだろうか。
改めて、突きつけられた夜だった。