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18歳になったら、車の免許を取るのと、大学進学するの、どちらが普通(マジョリティ)だと思いますか?

「18歳になったら、車の免許を取るのと、大学進学するの、どちらが普通(マジョリティ)だと思いますか?」

この質問でその人の「ふつう」感覚がわかるのでは?と思ったのは、
官僚になる内定をもらっている、東大卒+慶応卒の年下の子たち8名程に囲まれて沖縄料理を一緒に食べていた時だった。
彼らにとって、「東大」はそこに普通に存在する、数ある選択肢の1つでしかなかった。

「なんで東大行こうと思わなかったんですか?」あっけらかんとそう聞かれた。
わざわざ何でそんなとこ行く理由がないからだよ。そう思った。言わなかった。
彼らにとって、「東大」は「ふつう」の選択肢の一つでしかなかった。
それだけは、よくわかった。

私にとってはそうじゃなかった。

鈴さんのこのエントリは、そんな「ふつう」の差をありありと記述している。


つまりは、日本では無視されて、存在しないかのように取り扱われている社会階級と社会資本の話だ。
と、言えばそれまでに聞こえてしまうけれど、それを自分の経験から、しかも自身の社会的上昇の経験談も踏まえて詳細に記述している。のが、17歳だという衝撃。こんなに自分の社会的ポジションを分析して、メタ認知して、しかも明確に記述しているという事実に、鳥肌がたってしょうがない。

スタートラインの差が生むものは、所有の差だけではない、その先に開ける可能性の差だ。


一見「貧困」的な話にも見えるだろう。例えばこの別の方のnoteのエントリも、近いものがある。

比較して、鈴さんのエントリは、社会資本の格差をメインに立てながら、しかし「ケンジュウ」の話からわかるように、日常の中に潜んで気づかれにくい経済的な背景もありありと記述している。

「頑張ればいい」で自己責任にされることが、実は構造の問題だったりする。スタートラインが実は異なることに、気づける人は少なかったりするし、Privileged(優遇されている者)はそこに気づかない。人種差別だって、性的マイノリティだって、あらゆる多様性を理解するには、スタートラインを吟味する必要があるが、それに気づかなければ、本当の多様性も理解が難しい。

私の親も専門高校卒(商業・工業)なので、この成り上がり感はすごくわかるし、だからこそ、私は本に、知識にかじりついてきたのだということを改めて実感する(親も私も大学生まで大学院の存在すら知らなかったけれど、私はアメリカの大学院を卒業した)。

母親は、本だけは一寸も惜しむことなく私に買い与えてくれた。小さい時には、お金はあまりないものの、本を際限なく読ませることができるよう、一階に本屋が入っているアパートの二階に引っ越すほどだった。夏休み、家に共働きの両親が居ない間の居場所は図書館だった。この経験は、間違いなく今の私をつくりあげている。

おそらく、私の母親は知識を得ることが社会的な上昇に役に立つことを感覚的に知っていた。鈴さんの親もそうだったのだと思う。こういった親の「ふつう感/価値観」も、まさに子にとってはスタートラインの差になるのだ。

確かに、/頑張らなければいけないこと/は、世の中に沢山ある。

しかし、もう少し大きな社会のしくみに目を向けないと、見えないものもあるのだ。自己責任論にもやもやしている人にはぜひ読んでほしいし、
権力構造の中で作り上げられている格差を無視して、「お前は弱いが俺のやり方を見習えば楽になるんだ」と一見「愛」にあふれて見える「頑張れ」論に流されそうになっている人への警鐘としても。

こちらも思い出したのでせっかくだから一緒に。


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