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開心果(ピスタチオ)—喜びを与えるもの

市場に行くとピスタチオという木の実を売っていますが、中国語ではピスタチオ のことを「開心果」と呼んでいます。普段お茶を飲みながらおしゃべりするときに は欠かせません。人が集まれば、自ら笑いを取る人、ユーモアのわかる人、ユーモアのセンスのある人などがいます。その人たちは自らが「開心果」になり、喜びや 笑いを他の人に与えています。ですから、彼らのいる所はいつも笑い声であふれ、とてもにぎやかです。

「開心果」は精神の栄養です。子どもの純真な言動は、家庭を楽しくしてくれる「開心果」です。春秋末期の有名な思想家である老莱子は親孝行をするために、七十歳を過ぎていたのに赤ん坊の格好をして「開心果」になりました。道化師はいつも芝 居を楽しくしてくれ、観客の「開心果」になっています。楽観的な人や慈悲深い人 は皆の「開心果」です。

「開心果」はどこへ行っても歓迎されます。その人は大地に吹く春風のようです。 私たちは自分自身の「開心果」になるだけでなく、他の人の「開心果」にもならな ければいけません。世の中にもう少し「開心果」が増えれば、たとえ物はなくても 心は豊かになります。

仏教では、弥勒菩薩を歓喜仏と呼んでいます。それは弥勒菩薩が衆生に喜びをも たらす「開心果」だからです。お釈迦様の前世といわれている、人に逆らうことの なかった須達撃(スダーナ太子)も衆生の「開心果」になることを願っていました。 西方極楽浄土では人々に喜びを与えることだけでなく、仏様に会えることも、更に歓喜地菩薩(仏になるまでの五十二の段階の 四十一番目に達した菩薩のこと)も皆「開心果」なのです。

「開心果」は歓喜に満ちています。世界で最も尊いものはお金でも名誉や地位でもな く、喜びです。「歓喜」はこの世界を彩ります。「歓喜」は私たちの人生を希望で満たします。ですから、私たちは常に、どのよう に真心を使えば人を喜ばせられるのか、ど のように慈悲と喜捨を用いれば人に歓喜を 与えられるのか、どのようにご馳走すれば喜ばれるのか、どのように話せば人を楽し くできるのかを考えなければいけません。いつも心に喜びのある人が、世界で一番幸せ で裕福な人なのです。

喜ぶか喜ばないかは、只その人の心の持ち方だけです。人はこの世に生まれたからに は、人々に喜びを与えなければいけません。 自分の悲しみを人に移してはいけません。人にも自分にも喜びを作るのです。今ビジネスをしている人は顧客を引きつけるために、 喜ぶようなことをいろいろしています。目覚まし時計をいろいろな音で鳴るようにしたり、携帯電話で様々 なメロディーが聞けるようにしたり、パソコンのスクリーンでも奇麗な画像がいろいろ見えるようにしたりと、人々に受け入 れられ、喜んでもらえるようにしています。

犬がしっぽを振るのは主人を喜ばすためです。仔猫がニャーニャーと鳴きながら擦り寄ってくるのも飼い主を喜ばせるため 花の香りも人に喜びを与えます。いい鳩を飼えば羽を広げ、美しい姿であなたを喜ばせます。海にいる熱帯魚の鮮やかな色彩を人々は喜んで観賞します。人に喜びを与えるものを傷 つけることはできないはずです。

世の中で「歓喜」が最も素晴らしいものです。人は皆歓喜のために生まれてきます。歓喜は人々が追い求める目 標です。歓喜は人生の意義をわからせてくれますし、 生命に価値のあることを認めさせてくれます。ですから、人は「歓喜」を作り、人に与えなければいけな いのです。人と自分の「開心果」に成れれば、この世を無駄に送ることはありません。

「人間福報」二〇〇二年

「歓喜」は私たちの人生を希望で満たします。
台湾最大の臨済宗【佛光山】星雲大師の本からの引用です。


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