ちょうど、昨日が3月11日だったか。あの時から10年がたつのか。あの時は、急に地震が来て、夜中はあちらこちらを歩き回ったなあ。

ちょうど、休みで東京で、買い物しに来ていた日だった。書籍を何冊かとついでに、秋葉原でゲームをやっていこうと思った。その時にいたのは私一人。これは、秋葉原のゲーセンの大型ゲーム機の上での出来事だった。最初、ゲームの機体の振動が止まらなくてゲーム機体がぶっ壊れたのでないかと考えた。ちょうど、ゲーム機を降りた時、揺れていることに気が付いた。その後、数秒後に、強い揺れが来たので、とっさに、ゲーム機や両替機から離れた。実際、両替機は倒れたものもあったので、危なかったと思う。その後、秋葉原のゲーセンから出た。その後も、何回か揺れたので、怖かった。特に上からものが降ってこないかとかね。山手線は止まってしまって使えないから、仕方なく、歩いて、北千住まで歩くことにした。北千住につく頃には、電車が復旧していると思ったからだ。

上野から西日暮里まで歩き、その後、西日暮里から、町屋まで歩いた。考えてみると、かなりの距離を歩いたと思う。秋葉原を出たのが3時くらいで、ついたのが、6時か7時くらいだったと思う。途中で道に迷ったのもあったので、結構かかったと思う。その後、北千住にたどり着いたけど、電車は運行をしていなかった。

1時間ほど待ってみたけど、全く動く気配がなさそうだった。駅では、駅の職員にクレームを入れている奴らがいて、殺気立っていた。いずれにせよ、北千住から実家に帰るのは無理だと思ったので、両親に連絡をしたら、親戚の家に連絡を入れてもらえたので、そこで、泊まろうとしたけど、問題は、その家に着くまでだった。

まず、タクシーは長蛇の列で、結局、夜の12時を過ぎても、全くタクシーが来ることはなかった。また、その年は昼間はかなり温かく、外套を着ると熱くなるくらいだったので、外套を家に置いてきてしまった。夜は非常に冷え、該当なしでは、長時間じっとしているのもきつかった。そのため、仕方なく、近くの店の入り口付近にいた。確か、デパートやお店の入り口だけを避難所として開放していたため。でも、避難所は人が多く、かなり殺気立っており、正直、喧嘩が始まるような状況にもなっていたので、休むのは難しかった。仕方なく、夜、あちらこちらを歩き回るという感じになった。とりあえず、避難所をあちらこちらと点々と。でも、人が多くて、休むのはほぼ無理だった。正直、混乱に乗じた犯罪に巻き込まれなくなかったのが救いだったと思う。

4時ちょっと前ぐらいだったか、北千住の駅からさほど離れていないところにある高校で、有志が避難所を開設しているのを見つけたので、そこに入ることにした。正直、体力の限界だったので、非常に助かった。かなり暖かく、周りは殺気立っていなかったので、ゆったりと休むことができた。さすがに、熟睡とはいかないまでも少しうとうとするような感じだった。

7時ごろになって、その高校のテレビで、事の重大さが分かった。ちょうど、その前日に、福島で、津波により家が流されていた映像が映っていたからだ。その後、高校のボランティアにお礼を言って、親戚の家に向かうことにした。実際、北千住の電車はまだ動いていなかったから。ただ、北千住から少し歩いたところに京成電鉄の千住大橋駅があって、そこの電車が動いていたので、その電車で、JRの山手線まで移動したけど、山手線は外回りしか動いておらず、しかも、数が少なかったので、電車では無理だと思って駅の改札を出たら、バスが運行しているのを見つけたので、それで、親戚の家の近くの駅まで移動することにした。それにしても、ほとんど気にしなかったけど、巣鴨にとげぬき地蔵があったのを知った時は、なぜか感慨深かった。巣鴨は通るけど、あくまで電車で通るから、バスで通ると、いろいろと電車では見られないようなことが見えてくることがある。

結局、親戚の家に着いたのは昼頃だったと思うけど、その後、ずっと、熟睡して、気がついたら、夕方になっていたという状況だった。その後、電車が動き出したので、その次の日に実家に帰ったということだった。

後日、レールが曲がるとか、非常に驚くくらいのことが実は起きていたことを知った。そりゃ運休するしかないわな。

それにしても、本当にあの時は大変だった。とりあえず、無事だったからよかったけどね。ただ、その後、計画停電などのものが始まったしたけど、一番、驚いたのは、自宅についた日の次の日に、原発が爆発したという知らせを聞いた時だった・・・。まあ、それは別の機会に話すとしよう。

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