そもそも、どう考えても信仰していない
前回は、信仰をしていない宗教に対して、本当に信仰しているのか?という疑問を書いたが、実際問題、信仰していないと言わざるを得ない。
実際、キリスト教に関する本は読んでも「???」というところはある。
イスラム教についても同様。
仏教に関しては、うちの先祖の代からの付き合いのある寺はあるけど、ほとんど、葬式かお盆の時にしか、接点はない。
だいたい、卒塔婆を小さい頃は、何かの「武器」の一種か、秘密基地の建築資材ぐらいにしか考えてなかったし。卒塔婆が何なのかは、よくわからなかった。
なお、サンスクリット語で「塔」のことを指すということを知ったのは最近の話。
まあ、それに、なんだか、寺にやたらとでかい墓があったけど、それについても、何だアレ?と極めて冷笑的にしか見ていないという。どうも、かつての地元の有力者の一族の墓らしいが、なんで、あんなにお金をかけて大きい墓を建てているのか?という疑問符しかない。
実際・・・ピラミッドを見ても、あんなでかいものを立てたのか疑問だし。
権力の象徴と言っても・・・金を使うところ、間違ってはいませんか?と皮肉を言いたくなるという状況。
どうみても、信仰対象には見えていない。なお、たまに、仏教関係の本を読むのは、思想と歴史の追及の一環に過ぎないというのが本当のところ。読むほど信仰から離れていくのだが・・・。
神道に関しては、あれは宗教なのか?という疑問しかない。
大体、正月も正直、一年に一度、親戚一同が集まる日という意味合いぐらいだし。門松といい、そのあたりは、正月の飾りという意味合い以外はほとんどない。初詣にしても、単に、知人との合流場所でしかないし、そこで行われるものは「形式的なものでしかない」。本当に宗教的な意味合いがあるのか?という疑念を持たざるを得ない。
なお、イスラム教のムハンマドによれば、
「形式だけの礼拝なら、しない方がまし」
と、ユダヤ教の形式主義者を批判しまくったということなので、この論をそのまま使うなら、神道の信者とはいえない。
そもそも、あれは、かつての為政者の争いを美化した物語と考えるべきか。但し、例えば、「庚申様」(なお、ハセカラとは関係はない)とか、地元の信仰に関しては、宗教なのかもしれんが。
しばしば、大国主命の子孫の話が出てくる。
実は、この話は、この本で最初に知った。
どうも、いくつかの文献から、国譲りの話は、あの当時の、豪族の抗争を美化というか、ある種の演劇にしたものを書いているのでは?という疑念が湧く。本当のところは、どういうことなのかが、かなり疑問だが、単なる宗教とは違うような体裁になっている。
といった感じで、神道は宗教?という疑問が出てくる。一部の人は宗教と認識しているのだろうけど、どうも、灰色なところが多くあり、単なる宗教と捉えていいのかと言われると、疑問の余地が残る・・・。
という疑問からも、神道を信仰を信仰しているか?と言われると、よくわからんというか、信仰していないように考えざるを得ない。
また、しばしば、我々の行事の中に、宗教が根付いているという意見があるが、すでに、クリスマスだろうが、お宮参りだろうが、宗教的な意義は失われているのでは?という疑問がある。無論、ガチのキリスト教信者や仏教徒には、当てはまらないとは思うが。
大体、
クリスマスと言えば、サンタクロースがプレゼントを持ってくる。
クリスマスと言えば、パーティーに参加する日
クリスマスを聖夜といったものだが、しばしば、性夜と揶揄されるような始末。
これの、どこに宗教的な意味合いがあるのか?
という感じに、どう見ても、信仰の対象とは見えないので、
「貴方の宗教は?」と言われて、
「特にない」と言わざるを得ないし、そして、そもそも、歴史的に争いを見て、宗教にげっそりしているので選ぶ気すら起きないという。
それにしても、実際は、あっちでも、イスラム教いい、キリスト教といい、抜ける人も出始めているらしいがね・・・。
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