自覚という言葉の二面性

しばしば、「自覚を持て」という言葉を耳にするが、ある種の気持ち悪さがあった。

確かに、例えば、ある種の仕事についたとする。この際、医者でも弁護士でもなんでもいいが。条件は整っているにも関わらず、この仕事を全うするための行動をとらなかったりするなら、それは行動をとらせるために「自覚を持て」というのはうなずけるが、

その一方で、その仕事を全うするために十分な対価がなかったり、もしくは、不必要どころか有害なもの、もしくはその恐れがあるものの使用を強要するようなことをするために、「自覚を持て」という言葉を言ったのであれば、それは違うだろと言わざるを得ない。

そもそも、人間は衣食住ならびに娯楽などがなければ生きていけないし、健康的でなければならない。生活にゆとりがあるからこそ、落ち着いて仕事をすることができる。そのゆとりを得られない状態で生じる「自覚」は存在するのだろうか?

また、有害の恐れのものを使えと言われて、自分の体を壊してまで必要な自覚は本当にあるのだろうか?

もし「自覚」があるのであれば、それは「仕事を全うすること」にはつながらず、「その職場から手を引く」ことが重要になると言わざるを得ないのではないかと考えられる。それを「最近の若い者は」とかいうのは、職場を破壊する行為であり、なぜ、辞めているのか実態調査を至急すべき内容だと思う。

「自覚を持て」というある種の精神論はよくも悪くも使われるため、非常に気をつけて用いなければならないと、最近、職場トラブルが耳に入ってきたので、考えざるを得なくなった。

結局、人からの押し付けなアドバイスではなく、自分の自発的な考えが必要になるのだろうね。本当の自覚というのは、自分の自発的な考えを持ち、職務を全うすることだと私は思う。

よろしければサポートをよろしくおねがいします。