勇者攫い

 何か、悪い夢を見ていた気がする。
 体の節々が痛い、と彼は思いながら、なんとか上体を起こす。見たことのない壁と天井。見覚えのない木のベット。はて、自分は今さっきまで何をしていただろう、と彼は考えたが、おかしいのである。何も思い出せないのだ。
 ふわり。どこからか甘い香りがして彼は目を上げた。嗅いだことのない匂いだが、美味しそうである。途端に、彼は空腹を感じた。
 カタン、という音。彼は目を上げると、そこには茶髪の少年が鍋を抱えてこちらをみつめていた。自分と同じくらいだろうか、と彼は思ったが、自分の歳がいくつだったか、すぐには思い出せなかった。
「おはようございます。起きてらしてたんですね」少年はそう言い、手身近なテーブルに鍋を置いた。「三日三晩寝込んでたので、心配したんですよ。怪我は大丈夫ですか?」
 少年がこちらに手を伸ばしてきた。彼は思わず身を引いてしまったが、なんてことはない。少年は、彼の腕に軽く触れただけだった。
「多分、崖から落ちたんだと思います。骨も折れてないなんてさすが……」
「なんだって?」彼は言葉を口にした。「俺が崖から落ちた?」
 彼の言葉に少し驚きながら、少年は頷いた。彼はため息をつきながら自分の頭を覆った。
「俺の名前はなんだ?」
 こんなこと言うのはおかしいと自分でも分かっていながら、彼は少年に問いただした。
「え……?」
 当然ながらの少年の反応。
「俺は、何をして、どうして崖から落ちたんだ……?」
 彼は、自分のことすら何も思い出せずにいた。

 どうやら、自分は記憶喪失というものらしい。
 彼は、混乱する頭の中でそれだけが判明していた。記憶喪失なのに、記憶喪失だということを自覚出来るなんて、と彼は思ったが、どう足掻いても、その事実を受け入れる他なかった。
「貴方が望むなら、いつでもここに居ていいですからね」
 と柔らかく笑う茶髪の少年は、ハルというらしかった。どういう訳か崖から落ちた自分を助けてくれたらしい。気のいい少年だ。
 もう一晩ベットで過ごした後、彼はだいぶ体が動かせるようになり、ベットから離れることが出来た。怪我の手当てやら食事やらを用意してくれたハルだ。彼は何かお礼をしたいと申し出ると、そんな大したことじゃないので、とハルは謙遜した。
「僕が、助けたくて助けたので」
 世話焼きなんです、とハルはにこりと笑った。
 しかし、このままではただの居候である。彼はふと、家中を見て回った。
 二階建ての古い木で出来た小屋のような家で、何か仕事のような道具がよく散らばっていた。自分が寝ていた部屋とは別の寝室がもう一つあるが、他の住民を見たことがない。
「ハルは、一人暮らしなのか?」
「はい」
 彼の質問に素直に答えたハル。だからハルは、この見ず知らずの男を助けたのだろうか、と彼は思った。
「あの……貴方のこと、なんてお呼びしましょう?」
 ハルが質問をしてきた。確かに、呼び名がないのは困るだろう。彼はこう答えた。
「好きに呼んでもらって構わない」
 なにぶん彼には記憶がない。自分に名前をつけるにしても、あまりにも覚えていないことが多過ぎた。
 ハルは困ったように驚いた表情を浮かべた。それもそのはずだ。あまりよく知らない男に名前をつけるのだから。
 少しの沈黙、ハルが戸惑いながら口を開いた。
「えっと……ハチ、というのはどうでしょう……?」
「ハチ?」
「あ、いえ、別に変な意味じゃないんですけど……」ハルは慌てながらボソボソと言った。「ハチをみつけて、追い掛けていたら、貴方がいたので」
 なるほど、そういうことだったのか。彼はそう思いながら、自分の呼び方がどうなろうと特に気にもしなかった。
「なら俺は、今日からハチだな」
「はい!」
 ハルは嬉しそうに笑った。
 ハルは本当に、優しい笑顔をしている。俺にも……と思った矢先、彼の頭に痛みが走った。足もとがふらつく。
「大丈夫ですか、ハチさん!」
 ハルは心配そうにハチと名付けられた彼を支えようとしたが、大丈夫、と自分でなんとか体勢を持ち直した。
 何か、思い出せそうだった、とハチは思った。女の人? 大切な人? 痛みの端々で見えた残像を見ようとしたが、どうもはっきりしない。ハチは自分の手の平をみつめた。自分は崖から落ちる前、何をしていたのだろうか。
 そうして、ハチはハチという名前のまま、数日が経った。
 あれ以来、頭の痛みもなく、ハルと平穏に暮らしていた。
 この数日で分かったことは、ハルは、この森の中で養蜂場を営んでいていて、ハチに何度も、魔法を見せてくれていた。
「ほら、蜂に魔法を掛けると、思い通りに動いてくれるんです」
 ハルはそう言って、蜂の群れに指を振ると、まるで一匹一匹に糸がくっついているみたいに、右へ左へと乱れることなく操ったのだ。
 それだけではなく、蜂の群れで絵や文字も書けると見せてくれたが、残念ながら、ハチは文字を読むことが出来なかった。読めなくなっただけかもしれないが。
「だからハルは、蜂を追いかけてたんだな」
 とハチが言うと、はい! と言ってハルは頷いた。
 素直で控えめなハルは仕事熱心で、朝から晩まで蜂と共に過ごしていた。何か手伝いたいと、ただ近くでウロウロするだけだったハチも段々と要領を覚え、少しずつ、ハルの仕事を手伝うようになった。
 そんなある日、森に雷雨が降った。
「僕、養蜂場を見てきます!」
 急な雨だったのでなんの対策もしていない養蜂場。蜂は雨に弱いらしい。
「ああ、気を付けて」
 ハチは家の留守を頼まれ、雨の中走って行くハルを見送った。養蜂場は家からさほど遠くはなかったが、火にかけたままの鍋があった。ハチはその火の番ということである。
 蜂蜜を入れたクリームスープ。ことことと煮込まれていく様をみつめながら、ハチはおたまを手に取った。
 ガタガタと震える家の窓。風が出てきたようである。ハル、大丈夫かな、とハチは思った。
 ガタン!
 大きな音がした。これはもしかして、とハチが台所の窓から外を覗き込むと、地下に繋がる物置の扉が風で煽られ、今にも吹き飛ばされそうだった。
 どうしたものか、とハチは考えた。あの地下物置は、養蜂場の道具が色々と置いてあるらしく、危ないから入ったらダメ、とハルに言われているところだった。ハルはまだ帰ってくる様子はない。ハチは、部屋の中に立て掛けられている木の板を見やった。……あれを使って、物置の扉を抑え込もうか。
 ハチは、鍋を火から離し、かまどの火を消した。火を起こすのは一苦労だが、念の為である。恩人の家を火事にする訳にはいかない。
 そしてハチは、木の板を持って外に出た。手頃な石を引き寄せ、物置の扉を抑え込もうとした。
「自らの使命を……」
 誰かの、声……? ハチは首を傾げた。声は、地下倉庫から聞こえたのだ。
 ハルからは入っては行けないと言われてはいたが、不審者かもしれないという思いと好奇心に負け、ハチは地下物置へと歩を運んでしまった。声はより強くなって聞こえてきた。
「自らの使命を思い出して下さい、勇者様!」
 勇者……?
 ハチは息を飲んだ。これは、自分に語りかけているのだろうか……?
 何がなんだか分からないまま物置の奥へと進んでいくと、古い道具の間に挟まれるように、声の主が棚に置かれてあった。
「ハチ……?」
 背後から声。ハチは素早く振り向いた。
 ハルが立っていた。ずぶ濡れの服のまま、薄暗いランタンを片手に、悲しげに、ハチをみつめていた。
「すまない、俺……」
 なんと弁解しようか、とハチが思案していると、ハルは諦めたようにため息をついた。
「勇者攫い、失敗しちゃったな」とハルは言った。「隠すつもりはなかったんだ。でも、ずっとうなされてたから。勇者ってつらいんだろうなって」
 ハチだった彼は、今さっきまで声を発していたそれを振り向いた。白漆の鞘と黄金の装飾が施された黒い柄が見える剣。それは、彼のものだった。
「行きなよ。勇者なんでしょ、君」ハルは言葉を続けた。「ああ、その前に、僕を罰するなら、好きにどうぞ。君になら、何をされても恨まないから」
 白漆の鞘に収まっている剣とハルの言葉で、彼は急速に全てのことを思い出していた。そうか、自分は……自分は……。
 彼は悲しい気持ちになりながら、その剣を手に取り、背中に身に付けた。それが驚く程自分にしっくりきて、彼自身、信じられない気持ちでいっぱいだった。
「ありがとう、ハル。色々、助かった」
 彼は言い、ハルの肩に手を置いて横を通り過ぎた。
「待ってよ!」ハルが呼び止めた。「せめて、僕に罰を与えてよ……! じゃないと僕……」
 必死なハルの顔。彼は少し悩み、それからそちらへ手を差し伸ばした。
「だったら……俺と来ませんか? 養蜂場のハルさん」
 ここ数日、ハルにはとてもお世話になったが、ハルがとても優しくいい人だということはよく分かっていた。それに、蜂を自由に操る魔法。あれは、これからの戦いにきっと役に立つに違いなかった。
 ハルは崩れるようにその場で膝をついた。次には頭を垂れた。
「……仰せのままに……勇者様」
 その後、一人の勇敢な若者と養蜂場の少年が世界を救ったというのは、語るまででもない。

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