天使の涙

 まるで針のようにそびえ立つ山脈がぐるりと町の周りを囲っていて、あまり外部からの人が寄り付かないそこには、いつしか、天使が棲みつくようになった。
 天使といっても、よく見る上半身裸の男の子の姿をしている訳でもなくて、かわいらしい小さな女の子の姿をしている訳ではなった。
 まるで、くじらを十倍にしたくらい大きく、その白い翼を広げれば町をあっという間に覆ってしまう程で、見た目は人の姿とほとんど変わらないのに、地面に降り立てば地震が起きて各地で陥没、ひとたび泣けば洪水になる程の大雨が降り出し、人々はその天使の存在を畏れていた。
 そんな天使がこの町に来てからもう数百年が経つらしく、いつしかその町は、天使の住む町、と呼ばれるようになっていた。その前までなんと呼ばれていたか、知る人はいない。
「ほら、テル! 早く起きなさい!」
 テルは母親に叩き起された。目は開けていたが、テルはしぶしぶと身支度を済ませる。
「今日はあなたの十五歳のお祝いの儀式よ? みんな待ってるわ」
「はいはい」
 テルは飽き飽きと外に出た。朝ごはんを食べていきなさいと後ろから母親が叫んだが、構うものか。テルは儀式の場所へと向かった。
 天使は昔、こんなことを言い出したそうだ。
「十五歳になった若者は、成人の儀式をしなさい」
 と。
 その為の練習は何日も前から何度もやらされていて、当日になった今、またかよ、という気持ちでテルは町を抜けた。
 町の外には、見晴らしのいい丘が広がっていた。テルは目を上げた。丘のずっと先に、大きくて高い世界樹が立っている。今からテルは、あの世界樹に向かわねばならないのだ。
 ここ最近、町の人たちは天使の姿を見てはいなかった。テルが天使を見たのも、うんと幼かった頃。星が瞬く夜空に、昼間のような輝きを持った翼が、上空をかっ切って行く様を見ただけ。大人はみんな、あれが天使だと言っていたが、テルは半信半疑だった。
 長ったらしい儀式の文をおおよそ聞き流した後、テルは世界樹へと出発した。世界樹の前に広がる少し暗い森は、テルが昔から遊び場にしていた場所だ。テルは、儀式に必要な器を頭に乗せながら、軽やかに森を歩いた。
 世界樹に近付くにつれ、何やら歌声が聞こえてきた。水を思わせるほどきれいな声だ。
 世界樹の根元。他の木と違って、ぼんやりと青い皮を持つ世界樹は、生命の象徴かのようにこもれびに揺れた。どこかの歌声が響き渡ってよく聴こえてくる。
 天使は、この世界樹の頂上にいるという話だが、ここからでは姿が見えなかった。だが、世界樹の皮はつるつるとしていて登ることがかなわない。
 テルは儀式通り、世界樹の根元に器を置いた。
「天使様! 今日で十五になったテルです! 成人の証を下さい!」
 世界樹の頂上に向かってテルは叫んだ。
 しばらくの沈黙。
 やはり、天使なんかいないのではないだろうか。テルがそう思った矢先。
 今まで静かだった周りの木々がざわざわと騒ぎ始めた。なんだろう、とテルが振り向くと、強い風。
 帽子が吹き飛ばされないようにテルが頭を抑えていると、目の前に気配を感じて素早く前方を見やった。
 巨人の顔!
「うわぁ!?」
 テルは悲鳴を上げて後ろへ飛び退くと、巨人の顔は目を閉じたまま、くすくすと笑った。
 テルは落ち着いて、巨人のような顔をみつめた。白い肌、長いウェーブのかかった髪の毛が、地面に滝のように垂れ下がっている。
「もしかして……天使……様……?」
 テルは思わず訊ねた。すると、巨人顔は目を閉じたままくすくすと笑った。
「そうよ? 驚いた?」
 それからふわりと、巨人顔をした彼女は世界樹から下りて来た。さっきまで逆さまでテルを見ていたらしい。白い服と長い足が見える。そして、あの幼少期に見た時と変わらない、輝かしい白い翼が、彼女の体を宙に浮かせているようだった。
「あの……成人の証を……」
 こんなに間近で天使を見るのは初めてだったテルは、見取れてるばかりではいかない、と彼女に器を差し出した。
 気付けば、先程まで聴こえていた歌声はもう聴こえてこなかった。いや、あの声は明らかに、天使の声である……。
「はい。これが、成人の証よ?」
 相変わらず目を閉じたままの天使が、天使にとっては小さ過ぎる器をテルに返しながら言った。
 いつの間に、と思いながらテルが器を受け取ると、中に水のようなものが入っていることが分かった。
 テルは天使を見上げた。
「私の涙よ? 万病に効く、ありがたーい涙なんだから」
 と天使は言った。
 そう、成人の儀式は、この器の中に天使の涙を持ち帰ってくることだった。だが、テルはその場から動けずにいた。
「どうしたの? 用事は済んだでしょ?」
 そう言って、天使は世界樹の周りをぐるりと飛び回った。その度、強い風が発生し、テルの帽子を吹き飛ばそうとした。
「あの……天使様のお名前はなんですか?」
 なんてことを聞くのだろう。テルは自分の発言に驚きながら、天使のことを目で追った。
 天使は飛び回ることをやめ、テルの顔に自分の顔を寄せてきた。
「なんてことを聞くの。天使は天使よ?」
 返ってくる天使の言葉。ちょっとしたテルの好奇心だった。
「僕は、人間です。天使様は天使様なのでしょう?」
「だからそうだって言ってるじゃない」
 目を閉じたまま、天使はこどもっぽく頬を膨らませる。テルは言葉を続けた。
「僕の名前は、テルといいます。天使様にも名前がないと変ですよ」
 こんなことを言ったら、天使様に向かってなんて無礼なことを、と長老に怒られるだろうが、ここには、テルと天使しかいない。テルは今、自由だった。
「それもそうね」天使は考えを改めたように言った。「でも、私には名前なんて必要ないわ。だって、天使は私だけだもの」
「そうなんですか? それは寂しかったですね」
 とテルが言うと、天使は目を閉じたままくすくすと笑った。
「寂しい? どうして? 寂しくなんかないわよ」
「それは、僕たちが成人の儀にここに来るからですか?」
 テルがさらに質問をすると、天使はそうね、と頷き、強い風を巻き起こしながら、町の向こうを見やった。
「私、ここの町、好きよ? みんな穏やかで優しいし、ずっと昔に言った私の言葉、ずっと続けてるし」
「僕も好き」
 色々あるけど、それは本当のことだった。
「あら、気が合うのね」
 天使はテルの顔を見るなりまたくすくすと笑った。
「また、ここに来てもいいですか?」
 とテルが訊くと、天使は不思議そうな顔をした。
「涙を取りに来るの? それは一年分になるのよ?」
「いえ、違います」テルはにこりと笑った。「天使様の名前を、考えてきますから」
 すると、天使は驚いた顔をした。
 だが、テルは本気だった。
 それを察したか知らずか、天使はいつものようにくすくすと笑う。
「そんなことして、貴方になんの得があるのよ」
 天使はいつだって一人だった。天使だけだったら、名前に意味なんて持たないのかもしれない。
 テルはそう思ったが、言葉を続けた。
「もし、僕が考えた名前が気に入ったら、その瞳を、見てみたいです」
 自分でもびっくりだったが、テルは、天使に一目惚れをしていた。だから、閉じたままの天使の瞳の色を、見てみたいと思ったのだ。
「それはだめよ」天使は、しかし首を振った。「私の瞳は、見た人を石にしてしまうわ。だから……」
「それは、誰から聞いたんですか?」
「それは……」
 テルの問いに、天使は言葉を詰まらせた。天使は一人しかいないと言っていたことを、テルは忘れていなかったのである。
「でも、だめったらだめ!」
 天使は、まるで子どもがだだをこねるように言い放つと、あっという間に空へと飛び立ち、その姿を消した。
 テルは呆然とその場に立ち尽くしてから、用事を思い出して涙の入った器を抱えた。
 その後、テルは何度も森を抜け、世界樹のもとに通った。天使はその度にからかうようにテルと話に来たが、テルの提案する名前をことごとく断った。
 そうして、テルと天使のやり取りは何年も何年も続いた。
「随分歳を取ったわね」
 相変わらず幼顔をしている天使が、テルの横で言った。目を閉じたままなのに、なぜ見えるのだろう、とテルはぼんやりと考えた。
「私はもう長くはない……だから、最後に、君といようと思って」
 テルは昔とは全く違うしわがれた声で言った。その時、何か液体が顔に降り注ぎ、テルはゆっくりと目を上げた。
 まるで満点の夜空だった。
 天使の瞳は、深海のようにきらきらと輝く美しい色をしていた。テルは力なく笑った。
「ああ、やっぱり。石になるなんて嘘だったんだ」
 もう、天使は笑ったりはしなかった。何度も首を振り、その美しい瞳から大粒の涙をこぼしながら言った。
「だめったらだめ……死んだらいやよ?」
 そんな彼女に、テルはそっと手を差し伸ばした。
「泣かないで、天使様」テルは天使の瞳をみつめた。「ああ、そうだ。貴方の瞳は夜空のように美しいから……ヨゾラという名前はどうでしょうか?」
「もう……なんでもいいよ……だから……」
 天使がとうとう折れた瞬間だった。
 天使からの涙は、いつまでもテルの体に落ちては地面へと流れ、それはいくつにも分かれる川の源へと変わっていった。

 その後、森へと踏み込んだテルが帰ってきたと知る人はいなかった。昔から変わったじいさんだった、とだけあって、いつまでも町に帰らないのは不思議に思われたが、いつしか、それすら忘れ去られてしまった。
 やがて、天使の住む町には、つがいがいるという話が広まった。針のようにそびえ立つ山脈に囲まれた町外れの世界樹に、天使の歌声が二つ……。

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