夢見病


 そう遠くない未来。
 世界は、原因不明な病に蝕まれていた。
 子どもに多くかかる病気で、自力で意識を取り戻した数少ない患者の証言から、その病は『夢見病』と名付けられた。
 その名の通り、ずっと、夢の中から目が覚まさなくなる病気であり、息はしているのに意識不明の重体といったところだった。
 夢の中では、自分が望んでいる幸せな夢をいつまでも見ることが出来るそうで、一見すると幸せな病のように見えた。
 でも、私は知っている。朝起きると、我が子が目を覚まさなくなってショックを受ける数々の親の顔を……。
「渚 香織さん?」
 急に自分のフルネームを呼ばれて、私ははっと顔を上げた。目の前には、少し疲れたような、それでいてすごい剣幕を浮かべる女性が立っていた。
「何をボーッとしているのです? 新しい患者ですよ」
「はい、看護師長」
 私は彼女にそう返事をし、素早く受け入れ準備をした。
 そう。ここは、街の中心に建てられた大きな病院。私は、その病院の看護師を務めていた。
 急に患者が運び込まれることなんて日常茶飯事だった。私は、病状や患者の詳細を確認し、急いで部屋の準備をする。
 私は、神経外科や整形外科に所属している看護師で、今日運ばれてきた患者は、事故で怪我をし、一命を取りとめた人だった。救急外来から運ばれた彼が横たわっているベットを押し、空いている部屋へ。
 その時、ふっと隣の部屋が目についた。何か違和感。
 だが、まずは今来たばかりの患者の身の回りなどを整えなくてはいけなく、すぐに作業に取り掛かる。
 一通り終えたところで、もう一度、隣の部屋を見上げた。
 『天笠』
 私は首を傾げた。
 私は、今さっき運ばれた患者の部屋を振り向いた。その部屋の前には、フルネームで患者の名前が記されている。
 詰所に戻り、私は看護師長に苗字しかない部屋のことについて訊ねると、ああ、と言いながらこう答えた。
「あそこは、名前が分からないの」
「え……?」
 私は驚いた。どういうことなのだろうか、と看護師長の次の言葉を待った。
「父親は自殺、母親は精神疾患でまともな会話が出来ない状態」と看護師長は言った。「……例の病気の子どもよ」
 『例の病気』は、私たちの中では『夢見病』のことを指した。あまりにも増え続ける夢見病の患者の部屋が足りない、と小児科から移動してきたのだった。
 私は短くため息をつき、苗字しかない子どものカルテに目を通した。
 見る限り、夢見病にかかったのは一年前らしい。兄弟は五人と大家族のようだが、その兄弟全員が夢見病にかかり、全員亡くなっていた。
 しかし、その兄弟全員の名前も不明だった。母親が精神疾患の中答えたらしい名前の候補がちらほらと書いてはあるが、恐らく、兄弟の名前の一致が難しくなっているほど、心が思い詰められている。
 私は、胸が痛む思いをしながらカルテを閉じた。夢見病は残酷な病気である。ある日、我が子が目を覚まさなくなった時に残された親のことを想うと……。
「渚さん、これ、交換してきて」
 と看護師長が渡してきたのは、痛みを和らげる薬が入っている点滴袋だった。この時間、このタイミングでこれを渡されるということは、例の病気にかかっているその子どもの点滴袋だということだった。
「……分かりました」
 私は頷いて点滴袋を受け取り、道具が乗っている手押し車を押す。静かな廊下に、カラカラと乾いたタイヤの音が妙に響いた。
 看護師長は、私が例の病気でいつもより心を痛めていることに気付いているのだろうか、と考えた。今日はその子どもの担当ではなかったのに、と。
「失礼します……」
 部屋のノックをし、例の病気にかかっている子どもの部屋に入る。案の定、返事はない。
 外しては行けない人工呼吸器、常に心拍を測り続けている心電図、そして、薬が入っている点滴袋が、小さな子どもの体に全て繋げられていて、見ていて痛々しい光景だった。
 夢見病は、いまだに治療薬がない。昔は、新型コロナウイルスというもので世界は大騒ぎしたらしいが、今の時代から見れば大したことのない風邪の一種だった。
 私は黙々と、与えられた仕事をする。夢見病に痛みがあるのかすら分かっていないので、私が彼に今つけた点滴だって、役に立つのかはっきりとは分からなかった。
「ふふふふふ……」
 子どもが、急に笑った。これを聞く度、もしや蘇生したのではないか、と私はいつも思ってしまうが、子どもはすぐに無表情となり、息をするだけの体となってしまった。
 私は、その子どもをよく見てみた。確か、小学二年生になったばかりだったはずだ。今時の髪型をしていて、サッカーか何かをしていたかのように体つきが良い。顔も整っていて、やや肌が赤っぽく、きっとモテたに違いないという小さなイケメンだった。
 生還例がなかった少し前まで、この病気は『くすくす病』と呼ばれていた。意識が戻らないのに、時々子どもがくすくすと笑うからだった。
 ……どんな夢を見ているのだろうか。
 私は、帰ってこない問いかけを喉元で留めながら、彼の顔を覗き込んだ。汗をかいているので拭ったが、それに対する反応は一切ない。
 私は彼の顔をみつめた。彼は、安らかに眠っているかのように穏やかに息をしていた。
 どうして、こんな小さな子どもが、と私は思った。手の施しようが何もなく、死を迎えるだけとなった人の世話をするだけの看護なんて、本当はしたくない。院長はこの病気の研究に必死に貢献しているが、少なくとも、今ここに運ばれた夢見病患者は助からないと思うと、私はとても悲しかった。
 せめて、彼の名前を呼ぶことが出来たら、と思ったが、 あいにく名前が分からない。そんなことがあるのか、と私は思ったが、そういえばいつだったか、虐待されていた子どもを保護されてここに来た患者も、しばらく名前が不明だった時もあった。
 嫌な世の中になったものだ、と私は彼を振り向いた。役所かどこかに問い合わせているはずだから、いつかは彼の名前も判明するだろうと思われたが、カルテには、一年前から夢見病にかかっているらしいので、名前が分かるのが早いか、亡くなってしまうのが先か、といったところだった。
 夢見病にかかると、一、二年しか持たないのは分かっていて、持ったとしても五年。
 生きるために小さな体に空けられた喉の穴、口径から食べ物を摂取するのは難しくなると胃にも穴が空けられている彼の寿命は、そう長くはないだろう、と私は推測した。
 それだけではなく、人間、一年も寝たきりになれば、いくら優秀なマッサージを受けていたとしても、地球の重力に沿って爪先は内側に反り、体位交換に気をつけていたとしても、体は奇妙に曲がったまま固まってしまうこともあり、その患者も、もし意識を取り戻しても歩行は難しくなるだろうと思われた。
 ……そもそも、生還した数少ない子どもの多くも、成人したのが珍しい程で、車椅子のまま亡くなってしまうことが多かった。
 私は詰所に戻った。いつまでも同じ患者の部屋に留まっている訳にも行かず、中途半端だった別の仕事に取り掛かる。夜は患者が寝静まっているので、パソコンに向かう仕事が多かった。
 看護って、本当に、やるせないな、と私は瞼をこすった。明るい光を見ての仕事なのに、やはり夜勤は眠くなる。紛らわしのカフェインを片手にごくりと飲み、仕事を続ける。時々、同じく夜勤の看護師長と何気ない会話をするのだって、眠気を誤魔化す為でもあった。
 無情なキーボードの音を響かせながら、私、なんで看護師になったんだっけ、とぼんやりと考えた。
 子どもの頃の夢は、沢山あった気がしたが、私はなんだって続かなかった。小さい頃やってたバレエも、ピアノも、色々な理由をつけてやめてしまった。
 私は思わずため息を漏らした。
 ……骨折をして入院をしたある日、優しくしてくれた看護師に憧れて、この仕事を選んだはずだった。うんと小さかった時、それこそ、あの夢見病患者と同じくらいの頃に……。
 当時は、看護師がこんなに大変とは思いもしなかった。ただ、笑顔で話したり優しくしてくれるあの看護師に憧れて。
 夜はだんだんと明けてきて、早起きの清掃員が静かに廊下を歩いてきた。そろそろ引き継ぎの準備をしなきゃ。あ、その前に、やるべき仕事があったはず……。
 そうして私は、なんだかんだとしていて、やはり定時に帰ることはなく、家に着いた時にはどっと疲れてベットに飛び込んでいた。
 女の一人暮らし。部屋はそれなりに散らかっていたが片付ける余力もない。近場のスーパーで買ってきた適当な物をその辺に置き、パソコンの代用にもしているタブレットを開いた。日常生活に必須となるWiFiをそのタブレットに繋ぎ、なんとなくテレビをつけた。
「続いてのニュースです……」
 ニュースキャスターが、よく通るきれいな声で話し出した。私は見るともなく音量を上げ、とりあえず朝ごはん食べなきゃ、と立ち上がる。
 今日もあまりいいニュースはないな、と思いながら、スーパーのサンドイッチを頬張る。これくらいなら自分でも作れる、と思いながらも、作る元気はないとタブレットを見やった。
 画面越しのニュースキャスターは、相変わらず真面目そうな顔をして、次のニュースを告げた。
「ついに、夢見病の完治方法を発見したとの報告を……」
 私はどきりとした。サンドイッチを食べている手を止めて、食い入るようにニュースの詳細に聞き入る。
 どうやらそれは、私が働いている病院の院長が支援していた研究チームからの発表らしかった。治療方法は、健康的な大人が同じく夢見病にわざとかかり、子どもが見ている夢の中に入って、現実世界に連れ出してくる、という最新技術なのに原始的なような治療方法だった。
 私はサンドイッチを食べながら、安堵とは違う何かの感情に、気付かないように息をついた。
 それから落ち着いて考えてみる。
 さっきの話から分かったように、夢見病患者自身が自力で夢から覚めることはないということだった。
 私の考え方だってそうである。夢見病に突然かかった我が子をみつめる悲しげな親の顔を私は知っている。痛ましい光景だ。
 だけど、と考えて私は首を振る。いや、夢見病が治ることは嬉しいことなのだ。夢をいつまでも見続けることが幸せかもしれない、なんて。

 数日後。
 夢見病の完治方法が分かったところで、まだまだ普及には時間が必要で、外科病棟に運び込まれたあの苗字だけの夢見病患者は、静かに、息を引き取った。
 親にすら見守られず、名前を呼ばれることもなく。
 噂では、その後、母親は持病が悪化して亡くなってしまい、他に引き取り手のいない彼は、無縁仏に葬られた、と囁かれていた。
 私は看護師だ。一人一人に情をかけている場合じゃないことは分かっている。彼のいなくなった空き部屋には、また新たな患者が運び込まれて行った。
 それでも、私は、気付いたら、花束を片手に近場の墓地に立っていた。本当に無縁仏に葬られたか、そもそもここの墓地で眠っているかどうかは分からないが、私は、その墓の前でしゃがんだ。
 それから私は墓の前に花束をたむけ、後に呼ぶはずだった彼の名前を呟いた。
「どうか、安らかに」

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