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トゥルース言葉

 八木(やつき)レンは、昔から正直な男だった。
 体が大きな人には平気で「太ってる」と言い、声の小さい人には「聞こえない」と大きな声で言ってしまうものだから、学校でも度々先生に指摘されていた。
 しかし、レンには悪気はなかった。なぜ、嘘をついてはいけないと言われるのに、人の見た目や性格をはっきりと言ってはいけないのか。分からないととある先生に問いただすと、レンはこう言われたのだ。
「本当のことを言う必要がないからです」
 それは、その時はそう言うべきではなかった、と先生は言いたかったのだろうが、レンはまだ、当時は子どもだった。
 レンは先生の言葉を丸呑みにし、中学に上がる頃には「嘘」が得意になっていた。
 顔を泥で汚しても「美しい」と言い、長ったらしい校長の話を「面白い」と言っていたレンは、それはそれは彼を「イケメン」「優等生」へと導き、やがて嘘がなんなのか分からなくなっていた。
 その内、レンは大学生へと上がっていた。持ち前の嘘が彼を優秀にしたのも一因なのかもしれないが、そんな日々に、ある日展開が訪れたのだ。
 それは、レンがふらふらと大学内を歩いている時だった。一つの旋律が、レンの心を一気に奪ったのである。
 この旋律はなんなのか。
 辿ってみると、それは講義以外は自由に使用していいと解放されていた、音楽室からだった。
 レンはいてもたってもいられずにすぐに扉を開けた。大きなグランドピアノが、レンを出迎えた。
「誰……?」
 演奏は止まっていた。と直後には、ピアノの奏者だろう人が立ち上がった。見たこともない女子だった。
「俺は八木レン」レンはすかさず答えた。「あなたの演奏はとても素晴らしい!」
 レンはまた嘘を吐いた。彼女の演奏はどこか拙く物足りなさはあるものの、切なく儚い音色に、レンは一目惚れ、否、一聞惚れしたのだ。
 レンは、彼女の返答を待った。彼女は真っ直ぐとしたショートの髪型で、大学生にしては少々幼い顔のように見えた。
「嘘つき」
「え」
 彼女からの返事は、ありがとうでも、謙遜でもなく、まるで自分を見抜かれたような言葉でレンは驚いた。
 まさか、自分が今まで嘘をついていたのがバレたのだろうか、とレンは彼女をよく見たが、やはり知らない顔でますます混乱した。そして絞り出した答えは、彼女はもしかして、褒め言葉に慣れていないだけなのではないか、と。
 そう解釈したレンは、くる日もくる日も音楽室へ向かい、彼女に嘘の褒め言葉を捧げた。何より、彼女のその拙さから奏でる音が好きだったから。
 しかし、彼女は全くの無表情で、そんな嘘を言わないでと何度も言った。それはただの謙遜や照れ隠しで、本当は嬉しいのだと、レンは思い込んでいた。
 ある日、レンは再び音楽室へ向かった。彼女は、もう演奏はしてはおらず、来るのを待っていたかのように扉の前に立っていた。
「本当は、私の演奏が下手だと思っているんでしょ」
 彼女はそう訊ねた。
「本当は」
 レンは言おうか言うまいか最後まで悩んだ。だが、レンは彼女の演奏が本当に好きだったので、嘘ではない言葉を伝えることにした。
「あなたの演奏はどこか物足りない。それは俺には分からないけれど、それがあなたの音楽の良さを引き出していて……」
 我ながら上手く言えた口説き文句だとレンは思ったが、言葉は続けられなかった。彼女は、泣き出したからだ。
 レンの目の前で初めてあらわにした彼女の感情に、立ち尽くすことしか出来なくて。
「本当は分かってる……私の演奏はどこか物足りなくて子どもっぽい」彼女は泣きながら話を続けた。「だって私、小学生の時にしかピアノ習ってないもの……」
「ごめん、そんなつもりは……」
「出てって!」
 彼女に叫ばれて、レンはしぶしぶ音楽室を後にした。そしてレンは、ようやく気づいた。自分はフラれたのだと。
 それ以降、レンは音楽室には行かなくなった。名前も聞けなかった彼女の演奏すら聴かなくなった。レンがその後どうなったのか、知る由もない……。

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