ケンチク学生としての理想のアリカタ

1. はじめに 


 SNS という実際にあったことのない人とでもインターネット上で情報のやり取り・共有が容易に可能である現代では、自分のこと、自分のやっていることを他人に認めてもらうというシステムがリアルな人脈・コミュニケーションネットワークの有無関係なしに広がっている。例えば、「Instagram」や「Twitter」、「YouTube」などである。これらの媒体を使用することによって、我々現代の人々は不特定多数の人々に自らを発信し、「いいね」や「高評価」をもらうことで尊厳欲求を満たしているのである。

2.「尊厳欲求」と「自己実現欲求」 


 ここで、「尊厳欲求」と「自己実現欲求」の定義を確認する。マズローの欲求 5 段階説では、人間の欲求は 5 段階に分かれていて一つ下の欲求を満たすと次の欲求を満たしたくなると提唱されている。1 段階目に基本的・本能的な「食欲」・「排泄欲」・「睡眠欲」などの生理的欲求、2 段階目に安心・安全な暮らしを求める安全欲求、3 段階目に友人や家族、会社から受け入れられたいという社会的欲求と続く。そしてその次に 4 段階目の「尊厳欲求」、5 段階目の「自己実現欲求」と続くのである。1~3 段階では実状として目に見えて達成度が確認できるが、4,5 段階は心の満たされ具合であるため、より高次的な欲求と位置付けられる。

3.「尊厳欲求」の変化 


 上記で述べたように、尊厳欲求を満たす方法は時代の流れとともに変化し、現代では SNS というものを活用してその欲求を満たそうとする若者が増えてきた。その変化とともに、本来可視化されにくかった尊厳欲求の達成度というものは「いいね」や「高評価」、「リツイート」などという数値化により可視化されてきた。そんな時代を生きている若者たちはその他人からの不安定な評価(数値)に左右され、一喜一憂するのである。また、SNS というリアルとは分離させることも可能な媒体により、尊厳欲求を偽りで満たそうとする者も増えてきている。例えば現代の進んだ加工技術でリアルとはかけ離れた顔やスタイルをネット上にアップしたり、普段とは全く異なる性格・キャラクターでネット配信をしたりなど、リアルとはギャップのある理想をネッ
ト上に掲げて満足するというのだ。

4.「尊厳欲求」と「自己実現欲求」のハザマにいるわたし 


 わたしは比較的に周りより早くに物心が付き始めた方だ。というより、おませちゃんだったとでもいうべきであろうか。「ませていた」のは言動や考え方というよりは、自分の容姿つまりは髪形や服装などというファッションにおいてである。もちろんはじめは自分が好きな色、自分の好きな形が先行してあらゆるものを身に着け始めたのだと思うが、すでに幼いころから周りからどう見られているかを強く意識しながら生きてきた方だと思っている。そんなわたしは、平凡な親の深い愛情を受けながら平凡な日々を暮らしながらも、学業面・運動・容姿においてもそれなりの周りからの評価を獲得しそれなりに「尊厳欲求」というものを満たしながら成長してきたのである。それが、大学入学後どのように変化しただろうか。恐らく、私のように幼少期を過ごしてきたであろう人が蠢くように存在していたのだ。そこでわたしは一度立ち止まるのである。今までのようには簡単に人からの賛同を得ることができないような状況に陥り、まるで世の中にわたしの居場所がないと言われているような気分になるのである。ここで初めて「尊厳欲求」という存在を認識し、その恐ろしさに気付くのである。ここで冒頭の SNS の話に戻るが、Instagram や Twitter という媒体は、このようなリアルでは満たすことが難儀な「尊厳欲求」というものを満たすためのはけ口として利用されているともいえるのである。だが、このような欲求の満たし方は、いずれリアルとのギャップに悩まされ最悪うつを発症したり、自暴自棄になってしまったりするであろう。そんな危機感に気付き、恐れているわたしのような若者はおそらくたくさんいるだろう。 ここでひとつ確認したいのが「尊厳欲求」には他人視点と自分視点の二つがあることである。前者はこれまで述べてきたものであるが、後者は人の評価よりも自身の評価を大事にするもので、主観的な要素が含まれる。つまり、自己を尊重し信頼するという絶対的ではない可視化されない指標でもって「尊厳欲求」を満たすことができる唯一の方法なのである。これは次の「自己実現欲求」につなげられる大きなヒントともいえる。

 
5.短編映画「Validation」 


 他人を認めることが得意なニューマンという男が他人を承認することで世界がみるみる変化していくという短編映画「Validation」がある。どんな人でも承認して笑顔にすることができるニューマンだったが、ある日一目ぼれしたビクトリアという女性をどんなに承認しても彼女は笑顔にならなかった。そしてニューマンはスランプに陥ってしまう。ここから読み取れるのは、ニューマン自体も人を承認することによって自分の役割を果たせているような気がしていたということである。つまり、ニューマンも他人の承認に依存していたのである。物語が進み、やがてニューマンは自分自身が本当にやりたいことに気付く。そして物語は好転していくのである。すなわち、自分
の役割や、やりたいことを他人に依存した考えから導き出すようであれば本当の豊かさ、幸せは得ることができないということを示唆しているのではないかと思う。 

5.「自己実現欲求」へのアコガレ 


 「自己実現欲求」は自己を尊重し自分の可能性を信じ、自分のなりたい姿を追求するというもので、「尊厳欲求」を満たした者が欲する欲求とされている。その次元に達することでより豊かな思想、人生を獲得できるのではないかとわたしは確信している。そんな高次元を目指し、日々の設計課題や座学・趣味に打ち込む学生として一番必要とされているのは、自己を尊重・信頼する力、つまり自己承認力なのである。

6.ケンチクの天才の挑戦 


 従来の常識にとらわれずに自由気ままに自らの新しいアイデアを追求し設計をしてきた建築家というのは、今日まで忘れ去られることなく広く語り継がれてきた。その中には、実現されず模型や設計図、スケッチにとどまった「幻」の建築でさえも語り継がれている。なぜ「幻」に終わった建築までもがこんなにも長い間遺り、語り継がれてきたのか。それは、わたしたちを深く魅了する卓越した美しさや、その時代の社会に対する反動や投げかけた理想が見え隠れするという魅力がある故である。目の前の常識に疑問を持ち、理想を追求し未来の実現に尽力するということは、昔も今も変わらない。適応性や、環境への配慮を求められるようになってきた現代では、磯崎新の「空中都市」やヴィンセント・カレボーの「アジアの石塚」のような大胆な設計の提案が挙げられる。これらは費用や規模的な点で実現はしていないが、新たな可能性への挑戦ということで大きく評価されている。

7.理想のケンチク学生としてのアリカタ 


 これまで時代を超えて「幻」と呼ばれる建築を遺してきた建築家や芸術家、思想家たち。彼らは、きっと人間の「自己実現欲求」というレベルに達していたごくわずかな人材だったのだと思う。周りに支配されすぎず、しかし今ある常識というものを理解した上でその常識を卓越するような思想で建築に向き合う。これからの建築業界を担っていくであろう建築学生として、これらをモットーに自信をもって突き進んでいきたいものである。

【参考文献】
・まぼろしの奇想建築 天才が夢見た不可能な挑戦(フィリップ・ウィルキンソン 関
谷冬華 訳)日経ナショナル ジオグラフィック社 2018 年
・承認欲求の呪縛(太田肇)新潮新書 2019 年
・映画「Validation」脚本、監督、編集:Kurt Kuenne2007 年

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