サングリア

「ただいまぁ」
とっ、ととと、と不規則な足音とともにどさっとビニールが机の上に置かれた音がした。
ごりごりに凝った肩を回しながら数時間ぶりにパソコンから離れる。
「おかえり、なんか作るの?」
同居人は気まぐれに料理を作る。朝はコーヒーとバナナやビスケットをかじるだけ、夜は外で食べたり食べなかったりと適当な食生活をしている反動なのか、思い出したようにキッチンへ立つ。
「うん、久しぶりにサングリアを作ろうかなって」
ビニール袋を覗き込むと林檎にグレープフルーツ、レモンがごろごろと入っていた。
「見切り品好きだねえ」
「だってほら、今そういうテンションだから絶対に今日中に使うし」廃棄も免れてよかったね君たち、と果物を取り出しながら笑う。

シナモンスティック2本にカルダモンを数粒。赤玉で作るようになってからは蜂蜜を入れるのをやめたらしい。量のわりにスパイスが多いけれど、それに慣れてしまってからは既製品のサングリアに物足りなさを感じるようにになってしまった。
「久しぶりじゃない?料理するの」
恒例になったグレープフルーツの皮むきを手伝う。いつもおすそ分けをもらっているから、せめてものの協力だ。
「やっと一段落ついたの、仕事」
「終わったの?」
「いやまだまだだけど、でも一旦山場は越えたかなって感じ。あーつかれたーー」
お疲れさま、と労いながら次々と薄皮をむいた実を瓶に落としていく。実家ではグレープフルーツは皮ごと二等分にして食べていたから、一緒に住むようになって初めて薄皮をむくことを覚えた。手慣れたものだ。
ちょっと失礼、と瓶の側面に貼り付けるようにして輪切りにしたレモンを並べていく。うん、ジェニックジェニックと満足げに頷きながら同居人は話し出した。

「わたし、お父さんとずっと上手く折り合いがつけられなくてね、」
実家を出る前も、今も、家にいたって会話なんかなくて、マンションだから廊下も狭いのに、すれ違いそうなときも絶対に目を合わせないでどっちかが通りすぎてからしか通らなくて。お母さんに聞いたら、もうあいつとは話さないって言ってたんだって。

時折、同居人はこうやってためらいもなく傷を差し出してくる。それは慰めを求めているわけじゃなく、ただ自分のバグを処理するための必要な作業のように、淡々としている。

「それで、わたしずっと、得られなかったものは得られなかったものとして、代わりのもので埋めて、他の人たちと同じところまでいかなくちゃと思ってて、だけどね」
ワインのコルクに栓抜きを差し込む手を止めながら、伏せていた瞳をあげた、その瞳と視線がぶつかる。まるで正面衝突したように、それはそれは揺れた色を湛えていた。
「あなたのことを、お父さんの代わりにしていたら、あなたはわたしのこと、まるごと置いていっていいからね」
わたしはファザコンなのかもしれない、といつだったか言っていたから家族仲がいいんだなあと感じていたけれど、よく考えたらいつも彼女の口から出るのは母親の話で、父親の話はほとんど聞いたことがなかった。
なんと返事をしようか俊巡した沈黙をどう取ったのか、ぱっと顔をあげた同居人は「ワイン、開かない!開けて」とワインを突き出すと化粧落としてくるわと洗面所に消えた。

サングリアがいい感じに漬かってきたから、今夜は肉を食べよう。
珍しく夕食の誘いのメールが来たのはその3日後だった。ちょうど金曜日で気兼ねなく飲めると思ったのだろう。サラダを買って帰るけど、何か欲しいものはある?
この前もらった美味しいチーズがあるから、生ハムとかクラッカーとかあるといいかもね、ご飯は炊いておく?と返しながら、いつになったらこの距離は同居人より縮まるのだろうかとため息をつく。
縮めようとすると遠ざかり、遠ざかったと思えば子猫のように甘えてくる。
まあそれも、あの子の整理がついてからか。
肩甲骨を寄せるように伸びをして、パソコンへ向かい直した。

「ただいまぁ」
「おかえり」
がさっと紙袋の置かれる音。ローストビーフをね、買ってきたよ。あとジャガイモのやつとサラダ。美味しそう、今日昼に出たときにザクロが売ってたから、ザクロあるよ。うそほんと?高いよねザクロって。いいよ、いつもサングリアご馳走になってるお礼に。ありがとう、好きなんだよねザクロ、あんまり食べたことないけど。
一通りの会話と食事を終えて、汚れた皿を片付けてグラスを出そうと立ち上がった同居人に声をかける。
「俺はね、君のことを今さら捨てたりしないよ」
ゆっくりと振り向いた彼女は、どんな表情を作ったらいいのか困ったような顔をしていた。
「ああ、この前のこと...だよね?ごめん、別に困らせたかったわけじゃないの」
「困ってないよ。ねえ君はさ、たまにああいうこと言って俺を試そうとしてるけど、そろそろ信じてくれてもいいんじゃない?こんだけ試されてること以上に、一緒に暮らしてる時間のこと」
ばつが悪そうな顔に表情が変化していく。
「...でも」
「俺たちの距離、ただのシェアメイトじゃないよね。親友でもないでしょう、この年にもなってさ」
また困った顔をして、彼女は曖昧に頷く。全く、自分のことはどこまでも鋭利に探るくせに、他人からどう思われているのかははっきり言葉にしないと信じないところは昔から変わってない。
「信じなよ。俺は君のことが好きだよ」

「ただいまぁ」
「おかえり」
ねえ、変じゃないかな、お父さんに少しはちゃんとしたなって思ってもらえるかなあ
コットンパールのピアスをいじりながら心配そうに鏡をのぞきこむ彼女の背中から抱きすくめながら笑った。
「大丈夫、こんな男を選んだならちゃんとやっていけるって思ってもらえるって」
その自信はどっから来んのよもう、と苦笑いしながらその肩から力が抜けたのがわかった。
「大丈夫、任せておいて」
彼女のことは僕が幸せにします、だからお嬢さんを僕に預けてください、数時間後に宣言することになる台詞を胸の中で繰り返した。

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