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日記 6/22

高校の頃の同級生から、数年ぶりに連絡がきた。「元気? よかったら今度会わない?」定型文が過ぎるので一抹の不安がよぎったがまあまさかそんなこともあるまい。わたしたちは当時かなり仲がよかったのだ。わたしたちを疎遠にしたのは互いの信じうるものだったが、もはやそんなものは関係ない。わたしたちは、そんなものは関係ないと言いきれるほどの歳を重ねていた。
でもやはりテキストだけで約束できるほど器用ではなかったので、わたしは起き抜けに電話をかけた。いちばんはじめに聞こえたのは、戸惑いに親しみが入り混じったような上擦った声で、わたしはすぐに安心した。わたしたちはおよそ十年前のできごとを、一度ことばを交わしただけで、取り戻すことができた。会う約束もした。母校を訪問する予定も立てた。高校時代。遠い昔の出来事であり、振り返ればすぐそこにある出来事のようでもある。
過去を懐かしむことをわたしはあまり好まない。もともと過ぎ去ったものへの執着心が尋常でないくらい強く、時が経つことに感傷的になりすぎる人間なので、思い出すという行為にためらいを感じる。でも今日の緩やかな記憶の再現は、なぜだかわたしに悲しみをもたらさなかった。むしろ、そのときにあったこと、もの、そしてその地続きの” 今 ”の肯定、賛美。いや、きっとそんな大層なものではなくて、ただ、諦め、許容、甘受。それらに似た空気が心の底から香って、わたしはなんだか、少し安心した。あきらめは成長の証だ、と思う。それが良いことか悪いことかは、まだ分からないけれど。
おばあと食事に出かけた。うちのおばあは本当によく食べる。そしてよく遊ぶ。欲望が彼女を若くする。生命力がある。わたしはおばあを尊敬している。こんな風に歳を重ねたい、と思う。独り(文字通り、singleという意味)だけれど、ひとりじゃない。というか、ひとりであることを知った上で、人と向き合う。一種の境地だと思う。わたしはそんなおばあを、ある意味で慕っている。家族だから、というより、人としての奔放さに憧れる。
喫茶店に移った。目の前の灰皿を片付けられた。いつも十代にみられる(今回は別の理由かもしれない)。下手したら、高校生に間違われる。今朝、電話口で「変わってないね」といった友人の言葉が思い出された。いつだって年少に見られるのは、結局、年相応にみせようとしない私なのだ。
八十一になった、おばあに歌をおくった。自分の部屋からウクレレを取り出してきて、弾き語りしてみた。おばあがマスクのしたで微笑しているのがわかった。でもたぶん、おばあは早く帰りたかった(おばあは一人暮らしをしている)。彼女はもう家で寝転ぶ時間だ。おばあの重たい荷物を届けるついでに、「ちょっと寄ってきなよ」と言われて、おばあの部屋で寛いだ。
時はいつだって止まらずに流れだしている。わたしたちは常に何かを消耗しながら、終わりに向かって進んでいる。かぎりある世界で、何をしようというのか。
背中を押してくれる人がいる。ことばをくれるひとがいる。わたしたち生きている、と思う。わたしは何かを返していきたい、愛に向かってひたすらに走っていきたい。
今すぐに駆け出していきたいくらい、会いたいひとがいる。それって命だ。命を燃やしてもらっているんだ。年相応には、いつまで経ってもなれやしない。わたしはいつだってひたむきに人を愛している。それでいい、と思っている。少なくとも、今のうちは。
明日は自分の映画の打ち合わせだ。でもたぶんべつの話ばかりする。そういう時間がわたしを豊かにする。ちゃんと向き合わなければ、とも思う。今回撮る映画は、今まで向き合ってこなかった気持ちの風葬のようなものなのだ。
本が読みたくなった。でも今日は衣替えをしなくてはならない。計画を遂行するか、衝動に任せるか。そういうときは、どちらもやろう。欲張ろう。これはわたしの人生だから。
おばあが隣で微睡んでいるので、そろそろ帰らなくてはいけない。わたしはまた、わたしの生活にもどるのだ。
とにかく、今日は朝いちばんの友人からの久々の連絡が、わたしの一日を清くした。正直、もうこの先会うことはないのかもしれない、と思う時もあった。それだけ気にかけていた、ということでもある。高校時代の恩師に電車のなかで会ったことが、わたしに連絡するきっかけになったそうだ。ひとは出会うべくして出逢うのだ、と思う。縁は不思議なところでつづいている。だからもう、会うことはないと思っている人と、ひょっこり出会すことだってあるかもしれない。

いま生きているすべてのひとびとが、この世界に生きていることを祝福して。

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