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【ピリカ文庫】海

「さあ行くよ。」そう言われるままに助手席に乗ると、母の運転する真っ赤な車は、長く続くダケカンバの林を抜け、あやめヶ原へと向かっていた。「せっかく帰って来たんだから、いっぱい綺麗な景色を見ておかないとね。」確かに、ヒオウギアヤメが咲き誇る、あの一面むらさき色の光景は、昨日まで居た都会の街のどこを探しても、ほぼ目には掛かれない。

あやめヶ原の牧草地には、10頭ばかりの道産馬(どさんこ)が放牧されている。あやめ以外の雑草を食べてくれる馬達のお陰で、一面むらさき色の美しい景色が保たれているという。そしてこの草原の先には『チンベノ鼻』と呼ばれる、台地状の岬がある。展望台からは断崖絶壁に打ち寄せる大きな波と、青い空、そして遠くの太平洋を望むことが出来る。光を浴びてキラキラ光る海が、遥か彼方まで広がっていた。

 

故郷を離れて東京の大学を選んだのは、主に奨学金の都合だった。高校卒業後は独り立ちを決めていたので、新聞配達をしながら学校に通う新聞奨学制度を選んだものの、地元の北海道での制度では学費の全額を賄うことが難しいため、仕事は厳しいが経済的な恩恵を受けられる東京の奨学制度を利用することに決めた。

慣れない土地での新生活は、苦難の連続だった。早朝からの朝刊配達が終わり、電車3本を乗り継いで学校へ。3限の授業を終えて帰れば夕刊配達、のちに集金と営業、帳簿処理。そして少しの睡眠を挟んで早朝からの朝刊配達。仕事だけは迷惑を掛けたくないので全力を尽くすものの、だんだんと学校の授業の出席が疎かになっていった。

決して遊んでいる訳ではないが、周りから見れば、典型的な落第生だ。授業後も熱心に教授と議論を交わしたり、自由にサークル活動を謳歌する同学年の学生たちが羨ましかった。あんなに憧れたキャンパスライフは、既にこの場所には無かった。

 

睡眠不足とストレスは身体への影響だけでなく、次第に情緒不安定の日が増えていった。もし実家がもっと近ければ、いやせめて陸続きであったならば、全てを捨ててでも逃げ出していたかも知れない。すぐには帰れない遠い海の向こうの故郷が、ただただ恋しかった。

そしてある日、意を決して「もう仕事を辞めて、大学も辞めようと思う。今すぐに帰りたい」と母に告げた。帰ってきた言葉は「うん、帰っておいで。人生なんて、何度でもやり直せる。」ずっと言えなかった弱音を吐くことが出来たからか、張り詰めていた気持ちが少しだけ楽になった。

思い返せば、もしもあの時「甘ったれるな」などと突き放されていたら、完全に気持ちが折れていたと思う。帰る場所がある、それだけが心を支えてくれた。学校の授業は当面の間、無理をしないことにした。先の事は考えずに、今日だけ頑張ろう、今日だけ頑張ろう、その積み重ねで少しずつ、身体も心も調子を取り戻すことが出来た。

 

大学の夏休み中、仕事も連休をもらうことが出来たので、上京以来初めて里帰りをした。わずか4ヶ月しか経っていないのに、もう何年も帰っていないような感覚。目の前には太平洋が広がり、背中には綺麗な花畑と、道産馬たちがのんびりと牧草を食べている。昨日の今頃は海の向こうで無心になって働いていた事を思うと、時間の流れ方がまるで昨日までと全く違う世界のように感じてしまう。

都会での日常と、故郷での非日常。今、その二つの間にある大きな海を見つめながら、かつて好きだった歌を思い出した。

 

自分の限界がどこまでかを知るために
僕は生きてる訳じゃない
 
だけど新しい扉を開け 海に出れば
波の彼方にちゃんと「果て」を感じられる
 
僕はこの手伸ばして 空に進み
風を受けて 生きてゆこう
どこかでまた巡るよ 遠い昔からある場所


初めての挫折を越えて、これから生きてゆくための大切なものを見つけられた気がした。今では、心が折れかけていた日々さえ懐かしい。そして明日には、あの水平線の向こう側で、また忙しい日常が始まる。きっとしばらくは海を眺める余裕もないかも知れない。

「そろそろ、帰るかい?」母の声がして、急に訪れた名残り惜しさに、胸が押しつぶされそうになる。「もう少しだけ、居てもいいかな。」そして何も聞かずに久しぶりの我がままを受け止めてくれた優しさもまた、胸の中に眩しく輝き続ける大きな海のようだった。



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