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【イラストエッセイ】苦しみのほどきかた

このエッセイは、「創作大賞2023」の「オールカテゴリ部門」に応募しています。

はじめに

苦しかったことを、今までたくさんほどいてきました。あまりに自分が周りと違いすぎて、社会生活を海に例えるなら泳ぎ方を知らない魚のように毎日溺れていました。

息苦しい。生き方を知りたい。

本を読んで、知識系のYouTubeをたくさん観ました。なんで自分が生きづらいのか。
なんで私はこんな考え方をするのか。

「解き明かす」「執着を手放す」のほどく。そうして苦しみをほどくと、わかったことがありました。

考え方と知識を知るだけで楽に生きられる。

でも、そのこと自体を知らない人がたくさんいることも知りました。私が生きづらい性格になったエピソード、それを紐解いて修正できた方法。
この過程を伝えればもしかしたら救われる人がいるかもしれない。いつしか、イラストエッセイを創ることが夢になりました。

たくさんの人に読んでもらいたい。
このエッセイを通して、どんな人も幸せになれる力を持っているよと伝えたいです。

※2023年5月14日から、少しずつ書いています。創作大賞のしめきり日までの完成を目指して章を増やしていくので、ぜひ何度も遊びにきてほしいです。

※2023年7月17日追記
創作大賞2023の締切になっても、まだまだ書きたいことがたくさんある状態です。締切後も気が済むまで加筆して更新していきたいと思います。


「趣味:落ち込むこと」だった

イラスト:nui


私は落ち込んだらとことん落ち込むタイプだった。
今思えば、それが一旦気持ちをリセットする役割も果たしていたのかもしれない。落ちるところまで落ちればあとは上がるしかないからそうしたんだろう。
でも、落ち込んで泣いて、それが解決に繋がったことがあるだろうか?
落ち込むことを数えきれないくらい繰り返して、今度は自分に嫌気が差してきた。

もしかして落ち込んでる自分に酔っている?
落ち込んで苦しんで、でもそこに気持ちをもっていってるのは誰でもない自分。無意識に奈落の底へのレールを敷いている。そうして解決したことが今まであっただろうか。

ダンジョンで「落ち込む」選択肢ばかりを選んでいるなんて人生のRPG下手すぎやしないか。物語が進まないのも当然だ。ハッピーエンドルートじゃないなら、別の選択肢を選ぶ必要がある。
私は自分に聞いてみた。
「本気で自分を幸せにする努力、してる?」
…してない。そう思ってからは落ち込むのをやめた。

どうしたら元気になれるだろう?
手始めに元気で社交的で仕事もできる職場の人を観察しはじめた。(私の得意分野で、自分の行動に自信がないから新しいことを始めるときはいつも人の真似をしていた。行動観察と完璧な模倣だけは得意だった。)
観察して気づいたことは、「物事の捉え方が違う」こと。私が大袈裟に傷ついて捉えたことも、その人にはノーダメージ。私だったらこう言われたら「やっぱ私はダメだ…」と思うことも、その人はそこまで捉えない。
自分の考え方が極端だと気づいた。間違いを指摘されたら人格を否定されたと思う。少し失敗したら私はやっぱりダメだと思う。
傷つかないように自分発信で何かをすることもなく他力本願だった。人から声をかけてもらうのを待ち、「あの人がこう言ってて…」と人の発言を引用し、声が小さいから少し聞き返されただけで「間違ったこと言ったかな」と狼狽える。
聞き取ってほしい。こう捉えてほしい。こう言ってほしい。同情して慰めてほしい。そんな人任せで受身な自分に気づいて嫌悪した。

捉え方を改めて、自分で人生を選ぶ。
幸福になる努力を自分でしろ!

攻略すべきダンジョンは人よりいっぱいあって、しかもだいぶ初歩的なところで止まっているのもわかっていたから、人と比べるのもやめた。同じエリアで出会ったキャラも、一緒に進んでるように見えて実は私が見たこともないようなエリアをすでに攻略している。私がまだ持っていないアイテムも揃えているからそもそもステータスが違う。レベルアップもしてないのに一緒にラスボスを倒しになんていけない。そんな土俵の違う他人と自分を比べるのはやめた。
昨日より今日、先週より今週。先月より今月、去年より今年。できたことを紙に書き出した。過去の自分と比べるとちょっと嬉しくなる。だって絶対何か一つ成長しているから。

「夜眠れるようになる。朝起きれるようになる」

「1日1回、職場の人に話しかけて談笑する」

「雑談感覚で仕事の相談ができるようになる」

「家事は導線を決めてルーティーン化する」

「仕事と家事をルーティーンでできるようにして、疲れにくくする」

「そうやってできた時間で趣味に没頭する」

「趣味を続けてマネタイズする」

「なりたい自分に近づくために、スキルアップする」

そうやって一つひとつダンジョンを進んできて今ここにいる。

「落ち込む」選択肢を選ばないようにしたら、RPGはサクサク進んだ。
今まで「落ち込む」ことだけをこねくり回していたんだ…!

気持ちが落ちることはあっても、もう落ちることだけに時間を使わない。「解決できること」「解決できないこと」を見極めて「解決できないこと」は早々に諦める。ゲーム世界の画面最果ての森だと気づいたら開拓を諦めて違うエリアに行くし、直面するモンスターが倒せるなら向かっていくし、倒せなさそうならレベルアップのアイテムを探しに引き返す。
「趣味:落ち込むこと」をやめたら、リアルなダンジョンも行けるところまで行ける可能性が大いにある。

▶︎落ち込む
▶︎挑戦する
▶︎一旦引き返してレベルアップする

一番上の選択肢だけは、もう選ばない。


もちろん、誰にでも断る権利がある

イラスト:nui

5歳くらいのとき、ばあちゃんと地域のフェスティバルにでかけた。
ばあちゃんは配られていた風船を受け取り、私に握らせてくれた。

実は当時、私が一番恐れていたものは風船だった。バーンと破裂する怖さ、ちりぢりになる切なさ。ほんとうは貰いたくなかった。

でもばあちゃんの懇意を踏みにじることのような気がして、口に出せない。
飛んでいかないようにと私の手に紐を結びつけるばあちゃん。バレないように手放そうと、するする紐を離す私。すぐに赤い風船が高く飛んでいった。

私はホッとしたのも束の間、残念そうに空を見上げるばあちゃんを見てすぐに切なくなってしまう。
(しまった。せっかく喜ばせようとしてくれたのに…)
胸にじわ〜っと広がる苦い感じ。
これを20年以上経った今でも覚えている。


家族はこの世に生まれて最初に属する集団。
子は大人がいないと、例えば野原に一人ほっぽり出されてしまったら生きていけない。
生存するためには大人の機嫌をとらなきゃと本能的に思うときがある。
だから大人をがっかりさせてしまったら、「まずい」と咄嗟に感じることが多かった。
風船の一件も、見捨てられないか不安だったのかな。

そんなことを過剰に気にするようになったのには理由があった。
うちの親は、違う意見を全く受けつけないのだ。反発した結果状況が悪くなると、「ほら、言うこと聞かないから」と吐き捨てられた。


私に選択する余地はない。
あれしなさい、こうしときなさい、それはやめなさい。
どうしても嫌で突っぱねることがあれば、
「んもう!言うこと聞かない子ね!」
「わがまま娘!」
と地団駄を踏むように言われ、「私はわがままなんだ」と罪悪感に蝕まれた。

そんなふうに受け身で育った結果、大人になってこんなことがあった。
同年代の男子たちが私について話しているのだが、

「あの子とは、サシで話したくないな〜」
「わかる(笑)」

と超コミュ障の私とはサシで話したくないと言っているのを聞いてしまった。
悲しいながらも、「そうだよね、わかる」とどことなく納得したのだが、これを友だちに話すと意外な言葉が返ってきた。

「逆になんで、その子たちはあなたが会話してくれると思ってるの?こっちがそいつらと話したいと思ってるとは限らないじゃん!あなたにも、『こちらこそ願い下げです』って、断る権利はあるんだよ!」

その言葉で、ようやく私は大前提が違っていたことに気づく。

なんと、私にも断る権利があるのだ。
ずっと、自分の権利を無視していたんだ。
人の顔色ばかり伺って、自分の気持ちを殺していた。

風船を離して後悔した幼い私に伝えたい。
それでいいんだよ。
誰にだってNOと言う権利はあるんだよ。非力だからって、嫌なことまで飲み込む必要はない。期待に添えなかったからって落ち込む必要はない。

あなたも、生きてる一人の人間なんだ。

思うままに、ありたい自分でいるために、取捨選択していいんだ。


嫌いな風船を渡されそうになったら、断ろう。
それが善意だったとしても。

誰にだって、断る権利はある。


大事なのは、失敗のその先

イラスト:nui

実家では一度の失敗でよく怒られた。

4、5歳くらいのとき、おねしょで目が覚めたときのエピソードがわかりやすい。
夜中の2時だった。おねしょをしてしまった私は寒い廊下をトイレへ連れてかれ、そこで突然、パンッとお尻を叩かれた。
びっくりして子どもながらに「なんで叩いたん?」と聞くと、母にこう言われた。

「おねしょしたから」。

たった一言で、理解するのに時間がかかった。
どうやら「おねしょをしたこと」=「失敗したこと」自体が悪かったらしい。
防ぎようがないと思っていたから、どうしたらいいかわからなかった。

この先もまたうっかりおねしょをしてしまうかもしれないのに…その度に「悪い子ね!」ってお尻を叩かれるのか。
ここまで言語化していたわけではないけど、私は呆然とした。
失敗したら、後がない。終わりだ。

そんなこんなで失敗を恐れる大人になった。
親は失敗するとすぐに「もうやめなさい!貸しなさい!」と一喝するから、必然的に挑戦するチャンスは一度きり。
「失敗しちゃダメなんだ」
「失敗の先に成功はない。終わりだ」
「失敗は悪いことなんだ」
と思うようになった。失敗したあとの対処法を教わったことはない。
仕事でも生活の中での小さな判断でも、取りかかる前に失敗する可能性を吟味し、事前に失敗の芽を摘む立ち回りを考える。
それでも回避できなさそうだと思ったら実行をやめてしまうか、あれこれ考えている間にめんどくさくなってやめてしまう。0か100かだった。
上司にはこう評価された。
「フットワーク重いよね」
「0か100をやめろ。ためらわずに、まずやれ。出る杭は打たれるものだ。失敗を恐れるな」

自責や不全感、社会不適応感で仕事を辞めたあと、メンタルについていろいろ調べた中でようやく家庭内での経験が原因だと気づいた。
私は失敗を恐れている。失敗は悪だと勘違いしている。
1年に一回の帰省で母と映画を観に行ったときのエピソードから、私はそれをようやく言語化できるようになる。

ネット購入したチケットを映画館で発券しようとしたとき。まだ発券機が導入され始めた時期だったから、母と二人でタッチパネルに手こずった。
どこをタッチするんだろうと二人で迷っているとき、私はトライアンドエラーの気持ちで目ぼしいボタンをタッチ。すると母は非常に大きな声で、
あーっ!違うって!貸しなさい!
と腕で私を押し退けた。まるで二度と取り返しのつかないことをしてしまったかのように。

ああ、これか。これが私が失敗を恐れる根源だったんだ。ここにあったんだ。少しのショックと、気づいた驚きがあった。
何せ母とともに過ごした19年間、これが当たり前だと思っていたから、ここが根っこだとは思いもしなかった。

気づいたことで、おねしょをした幼い私が救われる。

「大丈夫だよ。次からは寝る前にもう一回トイレに行っておこうね」という言葉をかけてあげる。

失敗したって、死ぬわけじゃないのだ。
映画の発券機が爆発して死ぬわけじゃない。大抵のことはリカバーできる。
大事なのは失敗のその先なんだ。失敗の原因に気づいて対処すれば、成功に近づくし自信になる。その「対処」の段階をすっ飛ばしていたから、失敗したとたん「終わり」になってしまう。

それを私は教わらなかったから、挑戦を求められる社会生活で必要以上にビクビクしていた。

失敗を恐れる人にはきっと「失敗は悪」という刷り込みがある。失敗は出来が悪い証拠、ダメなやつ。
じゃ、偉人たちは一回も失敗しなかったのか?違うはず。ハードル走で手前のハードルを倒してしまったらもう進めず立ち尽くすしかないのか?それも違う。

命に関わること以外は大したことないから、たくさん失敗すればいいと思う。小さいハードルを越えられるようになるから、次に大きいハードル、その次に大きいハードルが越えられるようになる。

たくさん失敗していこう。
その度に攻略方法を身につけよう。
そうやってたくさん失敗して学ぶ自分を、思いっきり褒めよう。


あなたを苦しめるのは育った家庭の価値観かも

イラスト:nui

YouTubeで若い夫婦と小さな息子さんのチャンネルを見つけた。息子さんは「坊や」と呼ばれている。
おとぎの世界が気になるような感覚で、「家族」という集団がどんな形であれば健全なのか知りたくて見ている。

ある回で、坊やくんが朝ごはんを作るシーンがあった。
「ぼくやる!」
と率先してホットケーキをつくる。小麦粉や混ぜたタネをこぼし私はひやひやした。無意識に「これは怒られる」と思ったから。
『こんなに汚して〜!』
『あー違う違う!もう貸しなさい!』
という親の声がフラッシュバックする。
私がこのチャンネルのご両親だったら、挑戦する坊やくんにむかって「タネをこぼさないようにね!気をつけて!」と心配して声をかけるだろう。

予測とは裏腹に、若いご両親は坊やくんのことを注意するどころかむしろたくさん褒めた。多少こぼしても、「上手〜!」「いいじゃん!」「すごいね!」と褒めまくっている。
衝撃だった。
このご両親は、きっと息子さんが何をしてもまず褒めるんだろう。完璧な結果を求めないんだろう。

私の中の完璧主義はまだ根をたやしていなかった。
多少材料をこぼすのすら気になる。これが私の「ふつう」。部屋に新聞紙を敷いてその上で髪を切ったって「こんなに髪の毛落として!」と怒られる。落ちた髪の毛をきれいに捨てるために新聞紙を敷いているのに。砂糖を入れすぎて失敗した手作りりんごジャムが硬化して木ベラに張り付いたら「これもう捨てるしかないよ!こんなにダメにして!」と怒られる。温めて溶かせばいいじゃん、とその後きれいにこそげ落とした木ベラを見せると親はだんまりを決めた。どんなに修復可能なことでも怒られる。これが私の日常だった。

暴力もない、ネグレクトもない、いたって普通の家庭なのに何か苦しい。居づらい。親を好きになれない。
そんな人がいたら、この「当たり前の罠」にはまっているかもしれない。
顕在化しにくい問題があるから、「普通の家庭なのに…育ててもらったのに…なんで苦しいんだろう、私は親不孝なのかな」と苦しんでしまう。当たり前の罠は気づきにくい。空気のようにわざわざ気にも留めないからだ。

どんなに一生懸命な親でも、過干渉・否定・子を信用しない・羞恥心を煽る・感情的で論理が破綻している親は毒親なので、今すぐ離れた方がいい。

厄介なのは親にとってもそれが当たり前で自覚がないことだ。だから離れていく子に対して「寂しい」と言って罪悪感を抱かせてくるだろう。気にしなくていい。きっと祖父母も毒親だったのだ。
でもその負の連鎖はあなたの代で断ち切ろう

そして、この事実に気づいて「自分の子どもに同じことを繰り返さないようにしよう」と思うなら、そんなあなたに育てた親の教育はある意味成功したのかもしれない。私はその点で親を赦した。
数年前までは「家族のあの言葉がなかったら」「優しさのある家族だったら」と泣いて憎んでいた。でも憎しみは憎しみしか生まない。どうしても赦しが必要なんだ。憎む時間があったら、自分を大切にしてくれるパートナーや友だちに時間を割こう。

そうやって新しい家族を作ることを夢見て、今日も若い夫婦と坊やくんのチャンネルで答え合わせをしている。

自分軸で生きるってどういうこと

イラスト:nui

とある動画配信サービスのオリジナル番組で、一人の男性が多くの女性の中から運命の相手を見つけるという恋愛リアリティ番組がある。あるシーズンで、選ぶ側の男性が常にこんなことを言っていた。

「家族を大事にしている人がいい」。その方自身が家族を大事に想っているからで、同じ価値観の人がいいという意味だったと今ならわかる。

でも当時の私はショックを受けた。
「家族を大事にできないと結婚しちゃいけないの?」
家族に傷つけられてどうしても大事にできない私は、これから自分の家族を作るという選択肢まで奪われてしまうのかと思った。


家族に関しては今までもいろんなことを言われてきた。
「たまには連絡したら?」
「きっと寂しがってるよ」
「仲良くしたらいいじゃん」
「家を出るまでは大切に育ててくれたんでしょ?」
「お金は工面してくれてるんでしょ?」
「大人になったら仲良くなるよ。そういうものだから」


全部文字通り一蹴したくなる。彼らはどうにかして彼らの「型」に嵌めようとしてくる。

彼らの納得する返事をするまで問い詰めてくるし、理想の形から外れるそんな恐ろしいものの存在は認めないぞという勢いさえ感じた。

一生懸命説明して、それでもわかってくれなかったとき、初めて私は思った。

「誰かを納得させるために生きてるんじゃない」

今までは他人を納得させて自分を認めていた。

褒められたか、役に立ったか、受け入れてもらえたか。それは他人軸で生きていることになる。
他人軸で生きているからこういう悲しい気持ちになる。
自分がこれでいい、と思ったらそれでいいのに。それが自分軸というものだと気づいた。

モーパッサンの「紐」というお話を知っているだろうか。
道端の紐を拾った農夫が、その姿を見ていた町の人から「財布を拾って懐に入れていた」と濡れ衣を着せられる話。

のちに無実だったとわかりほとぼりは冷めるけど、農夫は濡れ衣を着せられひどい仕打ちに遭ったと町の人たちに話して周り年月が流れる。

農場は荒れ、床に臥した農夫は最期の時まで紐を握りしめ、紐のために人生を無駄にしたことに嘆きながら息を引き取ったという。
弁明し、他人を納得させる時間がいかにもったいないか気づかせてくれる話。


「家族を大事にしてる人と結婚したい」も、「家族を大事にできない理由をわかってくれる人と結婚したい」も、どちらも尊重されるべき価値観。

棲み分けをして、ただその事実を受容すればいい。お互いを納得させる必要はない。

誰かが納得しなくても、自分がいいと思えばいいのだ。分かり合えない者同士弁明する時間は勿体ないしする必要はない。

納得できなくても「あなたはそういう価値観なのね」と認め合えばいい。

だから誰かの価値観に振り回される必要もない。

もっと主体的になっていい。
自分の信念、心地よいもの、こうありたいと思う生き方に沿って選択・判断すること。それが自分軸で生きるということなんだ。


※このエッセイは、「創作大賞2023」に参加しています。いいねでの応援、とっても嬉しいです。

※2023年5月14日から7月まで、少しずつ章を増やしていくので、ぜひ何度も遊びにきてほしいです。

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