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箸が正しく持てない。

最近、箸の持ち方を矯正しようとしている。恥ずかしい話、28年間、正しい箸の持ち方ができないまま生きてきた。今回は結構本気だから、数年前に挑戦した時よりは持続出来ている。いままでは「食べれればいいや」と思っていたし、数年前に初めて叔母に指摘された以外、誰にも何も言われなかったような気がする。多分、母親も正しい持ち方ができていなかったんじゃないかな。

そこからいろいろ考える。
私って、圧倒的に常識がたりていないんじゃないかって。思い当たる節は多数ある。

例えば、小学生の頃、自由課題として料理の課題が出たことがあった。私は、プリンを作ることに決めたのだが、その作り方というのも一般的な作り方ではない。通常、プリンは卵液を濾して蒸すのが一般的な手順だが、当時の私はスーパーで買ったプリン用のゼラチンを利用して作った。なんの違和感も持っていなかったけど、高校生の頃の友人との会話の中で初めて、それが通常の作り方とは異なることを知った。そのほかにも、キッチンにおける皿洗い用のスポンジとシンク用のスポンジを分けることとか、風呂場の掃除において水捌けをした方がいいこととか。恥ずかしながら社会人になってから知った。

ポジティブに考えてみる。昔から、両親に常識について教わった記憶はあまりない。だから、必要だと思うことは自ら学んで覚えるようにしてきたつもりだ。仕事においても、そうした姿勢は身についていたように思える。良し悪しは別にして、前職の教育体制が整っていないことに対する不満を漏らす人が多くいた。私個人としては、教育云々というより現場で覚えたほうが確実だしな…とか思って自らどんどん動いていたけど、これって「教育を受けてきた人」と、「自ら学んできた人」の差なんじゃないかと。仕事の場においては、受け身なままより、積極的に動いたほうが評価してもらえる機会が多かった気がする。そういう姿勢は、無意識に自ら学んできたからこそ身についたものだと前向きに考えていきたい。

そうした背景を考えると、非常識だとしても、私それなりにうまくやれてるじゃん?いくつになっても、学ぼうと思えるだけマシじゃない?本当は普通の人になれるように必死になってるだけなんだけど、私の基準では結構頑張ってきたと思うんだ。誰がどのように評価しようが、私は私を認めてあげよう。


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