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おしゃべりコラム01「インタビューの冒頭を制することの重要性」

プロインタビュアー伊藤秋廣が“おしゃべり”の如く一気に書き上げるコラム、乱筆乱文、ご容赦ください。

年間300~500人ぐらいの方々にインタビューをしていると、けっこうな割合で、こういう人に出会う。恐らく、事前に回答を用意してきたのであろう。ひとつめの質問を投げかけるやいなや勢いよくしゃべりはじめ、ひとつめの質問についての回答を話しおえても止まらず、下手をすればそのままQ2、Q3、Q4で用意していた質問まで一気に、もちろんこちらに質問の機会も与えてくださることなくご自身のペースで話し続ける。

まあ、事前に共有した質問票をきちんと目を通して準備をしてくださったのだろう。それはそれで非常にありがたいことだが、このままずっと最後までしゃべり続けられてしまってはインタビュアーとしての立場がない。駆け出しのころは本当に困ってしまって参ったな~と冷や汗をかいていたけれども、さすがに15年もインタビューをやっているとさすがの私も学習してきた。

このように冒頭しゃべりまくる方をいかに制御してトークの主導権を握り、“伊藤劇場”に巻き込めるかどうかがプロとしての技術力の見せ所になる。僕はこの“冒頭しゃべりまくられ時間”に、何をしているか。一切、相手の話を遮ることなく、うんうんと楽しそうに相づちを打ちながら熱心に耳を傾け、メモを取っている。話の要点をメモっているわけではない。論理の欠落を拾っている、あるいはなぜ?どうして?ツッコミポイントを探してメモをしている。要するに相手の話の粗探しをしている。我ながらまったくもってイヤなヤツだと思う。でも仕方がない、それが仕事だし。粗を探して指摘して相手を嫌な気持ちにさせるわけでなく、むしろその逆。気持ちよくしゃべってもらい続けるために粗をさがしているのだ。

ほとんどの人は、よどみなく理路整然としゃべり続けるのは難しい。流ちょうに話している人=必ずしも論理的ではない。流れるようにしゃべる人の多くは、表面的にきれいにしゃべっているだけであって、しゃべりなれている人は訓練によっていつもしゃべっていることを淀みなく話している。粗は目立たないけれど、非常に浅く、よく聞いてみればツッコミどころ満載だ。要するに原稿を丸暗記したり、相当、舞台稽古をしているのか。あるいは、どこかで聞いたことのあるようなエピソードや他人の哲学を持ってきて切り貼りしているだけ。でも僕らインタビュアーが相手に求めるのは、本質的な話であって、それは心の奥底に眠っている。

ここまで書いたら勘の良い読者はもうおわかりだと思うが、ここでいう粗とは、論理の欠陥を指す。ごく普通の会話では差支えのない程度の粗。聞き流してもいいような穴。でも僕らは、話の全てを正しく理解しなくてはいけないし、原稿化するためには論理を明確にする必要がある。実はそういった粗や穴を埋めることで、その人の話が論理的に整ったりする。論理が整うと聞いている方もわかりやすいし、実は話している方にもメリットが生ずる。自分の思惑を話というカタチに乗せて論理的に再構成されたら再発見があるし、何よりも達成感が生まれる。論理的に話せたら人は間違いなく気持ちよくなる。だから僕は相手の論理を正しながらインタビューをすることで評価されている。

論理的な聞き方とは、それほど難しいことではない。またの機会にしっかり書くけれども、簡単に言えば時系列に並べてみれば欠落部分はわかりやすい。あるいは聞きながらフローチャート化していけば、必ずどこかに穴が見つかる。冒頭、一気にしゃべり続ける人もどこかで必ず一息つく。その瞬間を見逃さずに「ちょっと詳しくお聞きして良いですか?」「正しく理解したいのですが」と前置きを差し込んで、メモしておいたツッコミポイントをひとつひとつ確認していく。ここで鋭い質問ができると相手に聞き手として一目置かれる。あとはこちらのペースで対話に持ち込んでいく。注意すべきは強引にリードするのではなく、相手が話しやすいようにリードをすること。こっちがリードしているけれども、それを悟られないような流れを作ることだ。論理を整理しながらストーリーラインを引いて、的確な質問を投げかけながらそこに誘導してあげる。そのストーリーラインは僕が作って誘導するのではない。あくまでストーリーを紡ぐのはインタビューイーであり、僕らはあくまで黒子というか、気持ちよく話をさせる装置でしかないことを自覚しなくてはならない。

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