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《本》 やわらかなレタス

江國香織さんのエッセイを読んで。

最近、途中読みの本の続きを読むブームが来ている。特に意識的にそうしているわけではないのだけれど、とりあえず今は家にある本を読もう、という気持ちになっている。

そして家にある本というのは大体において好きな人が書いている本なので、作家さんごとに数冊の本がある、ということになる。エッセイでも小説でも、何か一つを読み終わるとその作家さんの他の作品が読みたくなり、それがずっと続いていくイメージ。


そもそも好きになる理由も、好きな作家さんと共作をしていたとか、本の中で話に出てきたとか、仲がいいとか、解説を書いていたとか、そういう感じで繋がっていくことがほとんどなので、私が持っている本たちはうっすらと大きな縁で繋がっているような感じなのかもしれない。現実世界ではどうなのかは知らないけれど、私の部屋の中では。

みんなの本棚もそんな感じなのだろうか。そういえばオードリーの若林が、本棚を見られることは自分自身を見せることだから恥ずかしい、というようなことを書いていたな、と思い出す。そうかもしれないね。


この本でいちばん印象的なのは、江國さんが主食を果物にしているという話で、スーパーで買ったたくさんの果物は、熟すタイミングを見計らい、いちばんいい状態で食べることができる、ということ。

私も果物は大好きなんだけれど、やっぱりお値段がするものだし、気軽には買えない。いいなあ、たっくさんの様々な果物を食べるの、憧れるなあ。その特技もなんだかかっこいい。そんな人聞いたことない、と思うから、印象に残っているのかもしれない。


そして、おいしそうな食事 というタイトルのお話。

“ここですべてをおいしそうにしているのは、部屋であり友人たちであり、ラムの提案および却下であり、ジム用ショーツであり、ストーブであり氷箱のてっぺんに置かれた塩であり、空気の入れ替えである。
人が満ち足りた食事をするときに、必要なのはそういうものだ、とわかってびっくりした。おもしろい、でも言われてみれば大変納得のいくことだ。”

食事に関していえば、楽しい、嬉しい、美味しいなどの感情は一人でも得ることができる。しかし、“満ち足りた”食事をするときには、周りの人やその状況が重要で、心が満ち足りるという経験は人と人の間で行われるということが、大きな部分を占めているのではないかな、と思う。なんだか感動する話。


江國さんと妹さんで、買ったパンはその日のうちに食べなくてはいけない不文律を作っているがために、夜中に台所に立って家族でフランスパンを食べる、という話も、なんだか微笑ましくて暖かな気持ちになる。

そういう記憶も心が満ち足りるものとして、残っていくんだろうな。ふと思い出したときに、何やってたんだろう、ってふふっと笑える話でも。


そして最後の“やわらかなレタス”のお話。この本はよく見かけることがあって、印象的な題名だから覚えていたのだけれど、まさかピーターラビットのお話から来ているとは思いもよらなくて驚いた。

人間からすれば瑞々しく、ぱりっとしたイメージのあるレタスも、固い野草を食べる野うさぎからすれば、やわらかいものになる。その発想にはっとさせられる。

さらにこのフレーズはお話の中に出てくるわけではなく、江國さんの心の中で、いつの間にか作られていたものだった、というびっくりな発表で終わる。二重で驚いた。


江國香織さんのエッセイを読むのはこれが初めてだったのだけれど、なんとも可愛らしくてお茶目なところがある人なのかな、と思い、嬉しくなったな。

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