こころの栄養。
家の近くに存在していることは知っていたものの、全く未知の喫茶店に入ってみた。
店主も分からない。
メニューも表からは分からない。
もちろん、常連客がどんな層かも分からない。
重いんだか軽いんだか分からないドアを開ける。
一歩店内に入ると、見知らぬ客に頭を下げる人たち。
店内にいる人みんな、頭を下げるものだから、店主が誰だか分からない。
(その後、水を持ってきてくれた人が店主だ。じたばたしなくとも、いずれ分かる)
店の内装も今ひとつ統一性がなく、店主の趣味が
分からない。
(多趣味な様子が垣間見える)
分からないだらけの店で、この店のコーヒーの濃さが分からないのに、アメリカンを頼む。
(初回はブレンドだろ!という、心の突っ込み)
分からないだらけの店の中で、常連たちが繰り広げる「わたしが分からない誰かさん」の話。
あっという間に、入れ替わるお客。
(こういう店って、長居が常じゃないのね。という発見)
「人間って、鼻水がないと死んじゃうんだって」
という、毒にも薬にもならない豆知識。
信ぴょう性も、定かではない。
「分からない」だらけのこの空間に、わたしという人間は、存在していてもいなくても変わらない。
(そう思っているのはわたしだけかもしれない)
みんなが「分かった」ような顔をして振る舞っている空間で、わたしだけが何も分かっていない。
そんな「分からなさ」の中でちびちびとコーヒーを飲み、物思いに耽るとき。
とても心地良い静けさを感じる。
周りの常連たちは絶えず、口を開いているのに。
放っておいてくれるからだ。と思う。
見知った人たちで創られた、当たり前の空間。
そこに突然入り込んだ、見知らぬ存在。
その存在も含めて創られる、空間。
自分ひとりが、「誰でもない誰かさん」になった感覚。
きっと誰しも、「誰でもない誰かさん」になる瞬間が必要だと思う。
人は誰でも、「役割」を生きているから。
しかも複数ある役割を、場面場面で瞬時に取り替えている。
取り替えなくてもいい。
ただの「誰でもない誰かさん」である時はきっと、大切なこころの栄養時間になると思う。
できれば、「わたしだけが誰かさん」になれる場所を見つけられたら、より愉しめるんじゃないかと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?