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ツインレイ -唯一無二の人-

プロローグ

ずっと俺は何かを探し求めていた気がする
心の隙間を埋める一部
失った俺の一部

空虚感しかない
俺の日常に光を与えてくれたのは
愛おしい彼女の存在だった


本編


その日俺は新宿駅前にあるビルの一室に足を運んでいた。起業家ばかりが集まるとあるセミナー会場。色んな業種、年齢の人達が50人近くは集まっていただろうか。男性人が多い中で女性の数は圧倒的に少なかったからか、俺の目に1人の女性が飛び込んできた。


ファーのついたジャケットを羽織り、レザーのショーパンから覗くスレンダーな美脚。明るめのカラーをしたロングの巻き髪はいい匂いが漂ってきそうなツヤ髪。彼女は派手目な出で立ちだったから一際目立っていた。
周りにいた男性達もチラチラと彼女に視線を送っているのが分かる。
肝心の彼女の顔は俺のいる場所からだとギリギリ見えない。
けれど後ろ姿からして明らかに美人だろうと想像できる。

何であの後ろ姿から視線を外せないんだろう…。

何万円と払ってこのセミナーを申し込み、電車で1時間以上もかけてこの会場までやって来たのに講師の話しがまるで耳に入ってこない。俺はさっきから上の空で話を聞いていた。

彼女から目を逸らせない。
いや逸らしてはいけない気がした。

なんなんだ、この想いは…。

自分でもよく分からず困惑しながらも、俺の視線は彼女に釘付けになっていた。

途中休憩を挟みながら、あっという間に4時間の講義が終了した。この後希望者は懇親会に参加できるが、果たして彼女は行くんだろうか…。
周りが一斉に立ち上がり、彼女も席を立つ。そしてそのままドアがある出口へと向かった。相変わらず後ろ姿しか目にすることができず、結局顔は分からないまま。
俺は彼女の後を追いかけるようにして、出口へと足を急ぐ。けれど周りも一斉に動き出したから、狭い通路の中思うように行かせてくれない。焦ったくてたまらず、ちょっとイラつき気味になる。

ドアを抜けると一階へと続く階段を駆け下りていく。

姿が見えなくて焦る。
懇親会の店へと向かったんだろうか
それとも帰ってしまったんだろうか…

俺は立ち止まったまま何とも言えない喪失感に襲われそうになった瞬間、ふいに「きゃあ」というか弱い女性の声と共に俺の背中に何かが当たった。
思わず振り返る。

するとそこにいたのは俺が探し求めていた彼女の姿だった。
「すみません!躓いてよろけちゃって…」

ヒールの高いブーツを履いた彼女が申し訳なさそうに眉をしかめる。
何で俺の背後から現れたんだろうか、そう思って目をやった先にはエレベーターがあるのが見えた。勝手に早とちりしていたけれど、階段ではなくエレベーターで降りてきたんだと理解した。

それにしても何なんだ、この感情…。

それは遠い遠い過去の記憶が蘇ってくるような不思議な感覚だった。
俺はこの瞳を知っている気がする。今日初めて会ったばかりの彼女だけど、懐かしくてなんだか愛おしい気持ちが溢れてくる不思議な感情が込み上げた。

どこかで耳にしたことがあるような懐かしく感じる彼女の声。
上向きのパッチリなまつ毛に薄茶色の大きな瞳。俺を惹きつけて止まないその瞳に吸い込まれそうになる。

周りにはセミナーから出てきた人がたくさんいてざわめいていたはずなのに、一瞬時間が止まったように周りの騒音がピタリと止まった。それはまるで異次元にいるような感覚に近かった。

「セミナー会場にいらしてましたよね?この後懇親会出られますか」

彼女の声で現実に引き戻された俺は「あ、は、はい」としどろもどろに答えた。


「私も参加するんですけど、場所がいまいち分かりにくくて…」
「あ…良かったら一緒に行きましょう」
「わ、助かります。ありがとうございます」

思いがけない展開が訪れて、不意な流れで店までの道のりを一緒に歩いた。緊張しすぎて何を話したのか記憶にない。けれど店に入ると彼女の横をキープするかのように迷わず隣りを陣取った。

今日初めて会ったばかりの人。
まだ名前もどこに住んでいるのかも全く知らない。

けれど彼女の瞳だけは何故だか知ってる気がする。
彼女は何者?何でこんなに惹きつけられるんだ?俺は動揺していた。

「ゆいって言います。良かったら名刺交換しましょ♪」

明るくそう言って差し出された名刺にはお店の名前と所在地が記されていた。

「ネイリストさんなんですね」
「はい…リョウさんは輸入業ですか…凄いっ」
「いえいえ、まだ1年目で…」
「お若いですよね?」
「去年大学卒業しました」
「えー、それは若い!どおりでお肌が綺麗ですもんね」

羨ましいなぁ…とボソっと呟くゆいさんだけど、俺以上にきめ細く艶やかな肌をしている。

綺麗にネイルアートされた細い指。
そして左の薬指にはキラリと光る輪っかが見えた。

結婚してるのか…。


人脈を広げて色んな人と繋がりを深めようと思って申し込んでいた懇親会だったけれど、思いがけずゆいさんという女性に出会い俺はこの人から目が離せなくなっていた。

年齢は分からないけれど高校生の娘さんがいるみたいで恐らく俺より10歳くらい上だろう。とてもそんな大きな子供がいるなんて思えないけど。
お酒はレモンサワー一択らしく、そのチョイスは俺も一緒だったから思いがけない共通点だ。住まいは都内から電車で1時間の場所にある住宅街。でも俺とは正反対の地域。

ゆいさんは1杯飲み終わると頬をほんのり赤く染めて、声のトーンも緩やかになっている。

そして表情がコロコロ変わって無邪気な笑顔を見せるゆいさんは、ほかの参加者とも気軽に会話を楽しんでいた。とても人懐っこい性格で見た目の綺麗さとのギャップが垣間見れるくらい素直に感情を表し、子供ぽくもあり可愛らしかった。

「りょうくん、今日はありがとう」

懇親会を終える頃には、俺はいつしかりょうくんと呼ばれていてフランクに話せる仲にまでなっていた。


離れたくないー

そんな心の奥底からの声が沸々と湧き上がる。

俺は明らかにおかしいと思う。
今日出会ったばかりのゆいさんを愛おしく感じ、強烈に惹かれている。

これが一目惚れってやつなのか?
けれど彼女の見た目に惹かれているというよりは、存在そのものがなんだか愛おしい。
懐かしいと思える不思議な感覚。
今まで感じたことないこの想いは何で呼べばいいんだろうか。

彼女は既婚者なのに。

それでも理性より俺の中の本能のようなものが彼女を求めてしまっているようだった。


その晩不思議な夢を見た。

近代的な建物なんて何もなく、何世紀前なのか分からないくらいの昔の時代。

遠くには蒼い海が見渡せる綺麗な風景が広がっていた。日本ではないのは明らかだが、どこの国にいるのかは不明だ。

俺の隣りには足首くらいまでのドレスを見に纏った綺麗な女性が微笑んでいる。
聞き覚えのある柔らかな声。
笑顔で微笑む彼女を横目に、俺は絶対的な安心感に包まれていて幸せを感じていた。

何を話したのか全く記憶にない。
けれど心地良くて身体も心も言いようのない幸福感で満たされていて、それがこの隣りにいる女性のおかげだというのだけは確かに分かった。

でもそんな満たされたなかでもただ一つ気になったことがあった。
彼女の煌びやかなドレスとは似つかない、分布相応な身なりの俺がいたこと…


ゆいさんと出会ってから1週間が過ぎた。
俺は名刺に載ってたインスタをフォローし、そこからちょくちょくアクションを起こしてDMのやり取りをするようになった。

送るのはいつも俺から。なんとか関わりたくて相手にされたくて、他愛もないことを質問したりして会話を繋いでいる。

彼女がインスタにアップしているのはお客さんであろうネイルアートされた爪の写真。
正直ネイルなんてしたこともないしよく分からないけれど、ゆいさんが写真にアップしているデザインをしているのかって思ったらなんだか微笑ましく感じて眺めてしまう。

石みたいなのとかラメとか付いているのもあれば、思わず「おぉー、すげーなこれ」なんて声が出てしまう程繊細なタッチで描かれたキャラクターのネイルもあったりして。
こんな細かい作業なんて苦手でしかない俺からしたら、本当凄いなって尊敬の念も湧いてくる。

ゆいさんと出会ってから、俺のなんてことない日常が一気にカラフルに変化した。
部屋の風景も毎日の食事もこれと言って変わりはないのに、以前よりも目に映る景色が光を帯び、口にするものさえ美味しさが増す。
毎日のルーティンに変わりはないのに、気持ちが常に上向きで仕事も捗る。

【りょうくん、ちょっと聞きたいことあるんだけど…】

初めてゆいさんの方から届いたDMを目にして興奮気味になる。
思わず口の端が緩む。
こういう時ちょっと間を置いたほうがいいかもしれないとか思って、駆け引きみたいなことしていた時期もあるけど俺は速攻で返信した。

【聞きたいことって?】
【わ、返信早w】
【ちょうどインスタ見てたからw】

なんて言いつつインスタは見てない。けれどゆいさんのことを考えてたのは事実。いや…考えていたっていうよりいつもいる感じ。っていうのが正しいかもしれない。

俺の中に常にいる人。
心の中を埋め尽くして満たしてくれてる存在。

【ネイルパーツを海外から仕入れたいなぁって思ってるの。ちょっとでも安く仕入れたいし日本にないものあれば嬉しいなぁとか思って…輸入って難しい?】
【全然っ。代行使えば買付から発送までやってくれるし、難しくないよ】
【本当?りょうくんがそう言ってくれるならやってみよーありがとう♡】

初めて目にするゆいさんからの♡の絵文字に心臓が跳ねる。
こんなんでテンション上がっている俺って単純すぎと思いつつ、嬉しい気持ちは隠しきれない。
それよりもっともっとゆいさんに喜んでもらいたい。
俺にできることがあれば何だってやってあげたい。

【ゆいさん、明後日予定ある?】
【定休日だし特に予定はないよ】
【もし良かったらだけど、輸入のやり方レクチャーするよ。俺が知っているサイトとか登録の仕方とか…直接会って伝えたら分かりやすいかなぁと思って。ちょうど明後日そっち方面行くとこだったから】

ちょっと賭けてみた。
明後日が定休日だというのはインスタのプロフィール画面で把握済み。
同業者との飲み会で都内に出るのは事実だったし、何よりもう一度会いたい気持ちが強くてアクションを起こしてみた。

なんて返信がくるんだろう。

【本当?お願いしてもいいかな…ありがとう】

一歩進展できたことによっしゃあー!!と思わずガッツポーズ。
もう一度会える。ゆいさんに会える。
こんなワクワクと胸が高まる気持ちになるのはいつぶりだろう。

今まで何の変哲もなく日々を過ごしてきた俺にとって、こんなに気持ちが上がることはないに等しかったと言ってもいい。

付き合ってきた女性は何人かいる。
けれど心底惚れたって思える女性は1人もいない。高校1年の時に初めて自分から告って付き合い出した子がいたけど、あの時のよっしゃー!って思えた気持ちと比較にならない程、ゆいさんとただ会えるってことが堪らなく嬉しい。

誰かといても訳の分からない空虚感みたいなものがあって、それが当たり前の生活になっていたけど、ゆいさんと出会ったあの日から俺の中にぽっかりとあった空洞があったかい気持ちで満たされ続けている。


俺の心に棲みついていた空虚感が嘘みたいに感じられなくなって、俺はやっと自分を生きている。そんな気さえしていた。

駅前にある待ち合わせのこじゃれたカフェ。
俺は1時間以上早くこの場所に着いて仕事をしていた。

ネットで仕入れも発送も完結するし、外注もお願いしているから、このパソコンさえあればなんとか仕事はできる。場所問わず仕事ができるのは有り難い。
でも早く到着したのは待ちきれなかったっていうのが正直な気持ちだ。

「りょうくんお待たせっ」

再び出会ったゆいさんはこの前会った時とは印象が違ってみえた。

後れ毛を出して高い位置で纏めた髪。
細身のスタイルが際立つニットのワンピース。ふんわりとした女性らしさが溢れ出ていて、思いがけず俺の鼓動が早まった。

「ゆいさん、なんかこの前と雰囲気違う」
「そぉかなぁ?りょうくんは相変わらずイケメンだねっ」

俺は飲みかけたコーヒーを喉に詰まらせて思わず咽せる。顔が火照ったのがわかって余計小っ恥ずかしくなった。

「イケメンて」
「モテるでしょー?」
「んなことないしっ」
「ふふっ照れなくてもいいのにっ」

今日は俺がリードしてゆいさんにカッコいいところ見せるはずだったのに…嫌じゃないけどペースが狂う。

「飲み物買ってくるね」

俺の心情なんてお構いなしのようにカウンターへと向かうゆいさん。
その後ろ姿を目で追いながら、やっぱりゆいさんは俺の中で一際輝いて見えてるのが実感できた。

なんで出会った当初から、こんなに惹きつけられるのか俺も不思議でしょうがない。

特別な人…なのは間違いないけど。
ゆいさんの何が俺の心をこんなに揺さぶってるのか…


テーブルの真ん中に俺のパソコンを挟みながら向い合わせで座る。
この前は隣同士に座ってそれはそれで緊張したけど、今日は真正面にゆいさんがいて前より顔がはっきりとよく見える。

「え、私なんか変?なんでそんなにじっと見てるのー?」
「俺そんなに見てた?」
「うん見てた。ガン見って感じ」


ゆいさんは前髪をいじりながらクスクスっと照れ臭そうに話す。
その後マグカップを両手で支えながら、ゆっくりと口に近づけた。
この前会った時はベージュ系のネイルだったけれど、今日は淡いピンク系。キラっと光る薬指のリングが存在感を増しているような気がした。

「ほらー、また見てる」
「見てないって」


無自覚だからそんなつもりない。
けれどゆいさんの一つ一つの動きや表情の変化を全部見逃したくないなんて思ってる俺は、きっとゆいさんが言うように見てしまってるんだろう。

「りょうくん、あのね…ちょっと変なこと聞くんだけどさぁ…」
「ん?何?」
「私とりょうくんて、どこかで会ったことあったりする?」
「え、何で」
「最初に会った時にも思ったけど、初めて会った気がしなくて。でも思い当たる場所もないし…」


首を傾けながら考えこむような仕草をするゆいさん。
まさか俺と同じような想いを持っていてくれてた…?

変なこと言ってごめんねーと申し訳無さそうに謝るゆいさんに「実は俺も初めて会ったような気がしなかった」と打ち明ける。するとゆいさんは口に手を当て笑いながら、なんか変な感じだよねっと言った。

そこから自然に話が弾み、お互いのことを色々語った。この前は隣りに座っていたと言っても周りに色んな奴がいたし、そこまで深い話はしなかったけれど、何故かお互い心を開き合っていて家族のことや高校の頃の話、今ハマっているものなどなど話が尽きなかった。


そして話してみると意外な共通点が多いことに気付く。ゆいさんには3つ下に弟がいるようで、俺と同じ名前のりょう。ゆいさんの誕生日が3月8日、俺は8月3日。
高校時代サッカー部のマネージャーをしていた時があったらしいけど、俺の母校に来て試合をしたこともあったとか。俺は中高とサッカー部に所属していたけれど、もちろんその頃まだ小学生だから会ってるはずもない。
レモンサワーが好きなところや、つまみに軟骨が最高と言ってるところ。海を眺めるのが好きで癒しになっているところ。

シンクロする部分が多すぎて、流石にゆいさんも俺も驚きを隠せなかった。

「りょうくんといると妙に落ち着くのは似てる所が多すぎるからかな」ボソッと呟くゆいさんの声が耳に届いた。


確かにそうかもしれない。似ているもの同士だから俺がこんなに惹かれてしまうのは当然かもしれない。けれど、それ以上に俺はゆいさんという存在を手放したくないっていう感情が沸き出ている。
好きなんて言葉では表せないこの感情はなんて表現したらいいのか分からないのがもどかしい。

肝心の仕事の話ができたのはタイムリミットの1時間を切ったところでだった。

ゆいさんはこの後娘さんの送迎があるらしく、17時には家に帰らなきゃ行けなかったからだ。少し追い込むように説明している俺の言葉を真剣に聞き入りながら、時折メモを取りつつ仕事モードの顔つきをするゆいさん。さっきまで楽しそうに笑っていた表情とのギャップがありすぎて、俺はそんな眼差しを向けるゆいさんを愛おしく感じていた。


【りょうくん今日は色々と教えてくれてありがとう。今度ちゃんとお礼させてね】
夜の10時を回った頃、DMに届いたゆいさんからのメッセージ。

【お礼なんていいよ。また分からない所あったら何でも聞いて。】
俺が会いたかったし。ゆいさんの役にちょっとでも立ちたい。頼られたい。力になりたい。


その夜ーーー


夢の中でまたあの綺麗な蒼い海が遠くに広がっていた。

人気はなく僅かな光が差し込んでいる木々が覆い茂った森のような場所。肌寒さを感じるからきっと季節は冬だろう。

座り込む俺の隣りには以前の夢にも現れた、ストールを見に纏ったドレス姿の綺麗な女性がいる。この前とは違うカラーのドレスだが、それも華やかで眩しく感じた。そして俺が身につけているものは、こんな冷たい空気の中でもこの前と同じ薄汚れた薄っぺらい生地の服。

隣りにいる女性がすうっと左手を前に差し出しながら「本当に嬉しい。ありがとう」と微笑む。かざす左手の薬指には、細身のリング。小さな石がキラリと光って見えた。
俺があげたのか…?こんな薄汚れた服の俺が…

…そうか…もしかしたらこの指輪を女性にあげたいがために着る服も惜しんでお金を貯めていたのかもしれない。きっとそうだ…

俺の隣で顔をほころばせる女性を目にして、何とも言えない温かな気持ちが広がっていく。

ポツポツと雪が降り注ぎ始めていた。
けれど、そんな寒さも忘れるくらい心の中は満たされていた。

なんて幸せなんだろう…


翌朝目覚めたときにも夢の中で味わった至福感が残っていて、夢か現実か混乱するような狭間に俺はいた。きっと昨日ゆいさんと一緒に楽しい時間を過ごした余韻も大きいのかもしれない。

その日を境に俺とゆいさんの関係がちょっと進展し始めた。大きく変わったのが「おはよー」とか「おやすみ」って言葉をDMを通じて毎日交わすようになったこと。ゆいさんの生活リズムに合わせるかのように俺も起床時間が早くなった。そのせいか昼間に眠気が襲ってきて、パソコンに向かいながら居眠りしている数も増えたんだけど。

一日の始まりがゆいさんで始まり、ゆいさんのおやすみで眠りにつく日々。離れているのにいつもそばにいるような感覚だった。

【仕事終わったー。今から夜ご飯作らなきゃ】
【お疲れ。何作るの?】
【まだ決めてないよー】
【俺ハンバーグが食べたい】
【あ、いいねー。でもりょうくんの分なーいw】

俺は泣き顔の絵文字で返信する。

その後ゆいさんからの言葉はなかった。きっと買い物に出かけたか夕飯づくりを始めたんだろう。

毎日やり取りをするようになってゆいさんの大体のルーティンが分かるようになった。

俺は携帯を閉じると、久しぶりに行くフットサルのため身支度を始めた。社会人になってから参加し始めたチームの中には同級生のマナトがいる。小学校からの腐れ縁でずっと一緒にサッカーで闘ってきた仲間。

「よ、りょう。1カ月ぶり」
「なんかマナト…また筋肉つけた?」

鈍った身体を軽くほぐしながら、マナトの身体をマジマジと見た。ジャージの上からでも分かる程盛り上がった腕の筋肉。俺が確かめるように腕を触ると、マナトはさも自慢げにまあねーとにやつきながら答えた。

きっと彼女の影響だろう。先輩に誘われてなんとなく通いだしたと言っていたジムに行ってから、腕だけじゃなく身体中に筋肉が付き始めたマナト。それを彼女に褒められた途端ますますジム通いに精を出し、プロテインも飲み始めてすっかり筋肉馬鹿になっている。

「俺引っ越しするから来月のフットサルは来れないと思うわ」
「引っ越しすんの?」
「彼女と同棲することにしたから今のアパートじゃ手狭でさ」
「おー、そか。いいねぇ同棲」
「リョウこそ優雅な一人暮らし満喫してんじゃん」
「どこがだよ」

そんな会話を交わしていたら、集合合図のホイッスルが響いた。

2手に分かれて試合を開始した。久々に芝生でボールを蹴る感覚は気持ちが良くて走り回るスピードに熱がこもる。積極的に攻撃を仕掛けていく。

「りょう感覚鈍ってないな。さすが!」
俺の勢いよく蹴り上げたボールがゴールネットを揺らしたとき、マナトが感心するように言った。俺は返事をする代わりに親指を立てて見せた。


ここに来る前は空気がひんやり冷たくて震えるくらいだった身体も、今はその冷たさが心地良いと思えるくらい暖まっていた。マナト達に「またなっ」と言って背を向けると、家路に向かいながら携帯を取り出した。

この時間帯だとゆいさんのインスタに新しい投稿がされている頃だろう。大体夜の9時頃には更新されているなんて把握している俺は、すっかりゆいさんのインスタにアクセスする時間帯もルーティン化しつつあった。

けれどその日は何故かまだ更新されずに最新の写真は昨日のまま。定休日の日さえ決まった時間に投稿し続けていたのに…。
少なくても俺の知る限りではこんなことは一度もなかったから、何かあったんじゃないかと不安が過ぎった。いや、考え過ぎだろう。もしかしたらただ忙しいだけなのかもしれない。


そんなふうにあれこれ頭の中で1人会議していたら、あっという間にマンションの前に着いていた。

エントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。最上階の角部屋にある俺の住処は1LDKの間取り。このマンションは祖父が所有している建物。俺の祖父は土地持ちで他にも何軒か所有している。家賃はかからないから有り難い。優雅なんてものじゃないけれど、一人暮らしは気楽だった。

テレビがなくこれといった家具も置いていない殺風景な部屋に入ると、汗をかいて冷えた身体を潤そうとそのまま浴室へと向かった。久々に全力疾走したり、普段使わない筋肉を動かしたら身体のあちこちが悲鳴をあげているようだ。

軽くシャワーを済ませた後、冷蔵庫に常備してあるレモンサワーの缶を手にすると携帯画面を確認した。

ゆいさんからのDMは届いていない。けれどさすがに更新はされているだろうと思って確認したけれど、更新は止まったまま。

もうすぐ日付が変わる。

ゆいさんが大体寝る時間帯だ。俺は試しにおやすみと送ってみたけれど、5分経っても10分経ってもいつものようにおやすみの返信がない。嫌われてないよな…って一瞬不安に駆られる。内心焦った。

気に触ることを言っただろうか。でもさっきのやり取りを見返しても怒ってる様子はなさそうだ。俺はやり場のない気持ちを紛らわすかのように、手に持った缶を一気に飲み干した。

リビングで寝落ちしていたと気付いたのは翌朝になってから。左手には握りしめたままの携帯。フローリングに転がる空き缶。どうやらあのまま眠ってしまったようだと自覚する。

昨夜久々に身体を動かしたせいか、ベッドで寝なかったせいなのか身体の端々に鈍い痛みを感じる。画面を確認してもDMが届いている気配は全くない。

おはよって入れてみようか…
でももし迷惑だったら…

いつもならとっくに交わし合っている朝のメッセージ。

葛藤しながら、顔を洗い身支度を整える。今日はランチを兼ねた同業者との交流会があるからそろそろ家を出ないと間に合わない。

DMにおはよの文字を打っては消すを繰り返した数分後、思い切って送ってみた。そしてそのまま画面オフにすると俺は部屋を後にした。

ちょっと早い時間帯からのランチ会はいつものメンバーでちょうど6人。俺が1番年下で30代の人もいれば40代の人もいる。みんな輸入メインに仕事をしていて、情報交換したり近況報告したりする仲間でもある。普段在宅でほぼ1人でやっているから、こういう時間は本当に貴重だ。

本業が低収入だったから副業で始めて今は本業になったり、リストラされて輸入で起業し今では年商億超えの人もいる。皆挫折だったり壁を乗り越えて今の生活を手にするまで努力し続けてきた人ばかりだからその分メンタルが強い人ばかりだし、俺にはないハングリーさがあって話をする度刺激を受けた。

開業資金を親に出してもらい、家賃もタダで住んでいる俺とは大違いだ。

飲んで食べて雑談交わしながら、お互い夢の話に飛んだ。お決まりのパターンだが楽しい時間だった。

いい感じに酔いが回ってきた頃、店を後にし解散した。

制服姿の学生達が行き交う駅前。もうそんな時間帯かと思いながら、改札を抜ける。電車待ちのホームに立つと、数時間ぶりにインスタを開いてみた。メッセージもなければ更新された様子もない。今頃はまだ仕事中のはず…。

何の音沙汰もないゆいさんのDMを何気なく開いてみた。とちょうどその時

【ごめんねー!なんかバタバタしちゃってた】

思わず目を見開く。

まさか開いたと同時に連絡来るなんて…タイミングの良さに驚愕しながらも、俺は1秒たりとも間を開けない速さで返信した。

【大丈夫!お疲れ様!】
【ちょっとw相変わらず返信スピード早いから】
【そかなw】

視界が急に開けたように明るくなる。一瞬で俺の気持ちを爆上げするゆいさんの存在感はやっぱり大きい。

軽くなる足取りで夕方の帰宅ラッシュの電車に乗り込む。人混みに揉まれながらもそんな状況とは裏腹に、顔が緩んでいるのが自分でも分かった。返信の一文字一文字を噛みしめながら何度も読み返してしまう。

自宅マンションにたどり着くと、途中コンビニで買った弁当でお腹を満たし冷蔵庫にあるレモンサワーでのどを潤した。ゆいさんからその後の返信がなかったけれど、きっと忙しくしているんだろう。

そろそろ落ち着いた頃だろうとインスタが更新される時間にアクセスすると、予想外にも代り映えがないまま。こんな夜まで慌ただしく過ごしているのかと思ったらメッセージを送るのは気が引ける。気を紛らわせようとYouTubeやネットフリックスにアクセスしてみたものの、BGMのように頭の片隅で流れているだけ。全く頭に入ってこないのはゆいさんの存在に俺の気持ちが全部持っていかれてしまってるからだろう。

日付が変わって少し経った頃、俺は微かな不安を抱きつつもおやすみのDMをしてベッドに横たわった。

夜中に何度か目が覚めたせいで、携帯のアラーム音が響いても微睡んでいた。携帯を取り出し画面を開く。俺からのおやすみの後に続くメッセージは何もない。ひょっとしたらインスタの不具合とか…なんて考えてみる自分もいたけど、そんな都合のいいことなんて起きていなかった。

毎日投稿していたネイルの写真が2日も投稿されていないのは、きっと何か事情があるんだろう。バタバタしてたって言っていたし、家庭で何かあったのかもしれない。

俺でできることなら力になりたい。けれど実際は相談されることもなければ何もゆいさんのことが分からず身動きできずにいて、そんな自分がちっぽけで無力に思えた。

俺はおもむろに立ち上がってパソコンをケースにしまいこんだ。自宅にいるより外で仕事したほうが気分的にも良さそうだと思い立ち、愛車が置いてある駐車場へと足を運んだ。普段電車移動が多いし基本自宅にいる時間が長いから、車に乗るのは月に数回。久しぶりにエンジンを回しハンドルを握りながら向かった先は、この前ゆいさんと待ち合わせたカフェのチェーン店。そのカフェのなんとかラテがお気に入りって話していたのをふいに思い出し、なんとなく行きたくなったからだ。

近場のカフェだと車を停める場所がなかったため、少し離れた店へと車を走らせた。隣には大きな総合病院があるためか、ここの店舗は規模も大きく駐車スペースも広かった。


店内に入るとそこまで混んでいなくてちょうど良い。カウンターにあるメニューを見ながら、ゆいさんが好きなの何ラテだっけ…と考えこんだ時「りょうくん!?」と言う柔らかな聞き覚えのある声が耳に届いた。

「え!ゆいさん!?なんでここに?」

俺は目を白黒させながら、目の前にいるゆいさんがいるという状況を飲み込めずにいた。何でこんなところにいるんだ?今日は仕事じゃないのか?


「お客様メニューはいかがいたしましょう…」
店員さんがカウンター越しに申し訳なさそうに尋ねてきたため、俺は慌ていつものコーヒーを注文した。


窓際にある2席分のテーブルに腰をおろしていたら、ゆいさんが小走りに駆け寄ってきた。「ここ座ってもいいかな」と遠慮がちに聞いてきたから、俺は「もちろん」と言いながら笑顔で答えた。
まさかこんな場所で偶然会えるなんて…。でもゆいさんの家の方角からこの場所は結構な距離のはず…困惑顔の俺を見透かしてかゆいさんが指を差しながら「あそこに用事があって来たの」と教えてくれた。指の差すほうこうには総合病院。


「え、どしたの?ゆいさんが通ってるとか?」
「母が入院することになって…今色々検査中で時間がかかりそうだから、このカフェで時間潰そうと思ってきたところなの」
「そうだったんだ…」

そういうことだったのか。インスタの更新が途絶えていた理由を知り納得した。
「ごめんね、返信できなくって」
「全然気にしないで!俺の方こそ大変なの気付かなくてごめん」
「何でりょうくんが謝るの〜」

クスクス笑うゆいさんはそんな大変な状況にいることを感じさせない程明るいいつものゆいさんだった。けれどその明るさがかえって無理をしているような気がしてなんだかいたたまれない。大丈夫?って思わず聞いたら、「大丈夫だよ。サロンの方もお休みしてたけど、明日には再開できそうだから」と答えた。

気丈に振る舞おうとするゆいさんを見て強い人だなぁと感心する。この前会って身の上話をした時に"お父さんは幼い頃に事故で失くしてあまり記憶がないんだ"ってサラっと話していたけど、お母さんが入院して本当はかなり心細いんじゃないだろうか。弟さんは九州に住んでいるとか言っていたから簡単に頼ることも難しそうだし。
…って旦那さんがいるか…


「りょうくん、またガン見してるっ」

ゆいさんに言われてハッとしつつも、視線を逸らすことはしたくなかった。せっかく会えたんだから、少しでもこの時間を無駄にしたくない。ゆいさんはこんな俺の想い、気付いているんだろうか。


お昼前頃、ゆいさんはそろそろ病院戻るねと言って鞄を手にした。
「ゆいさん」
「ん?」

咄嗟に名前を呼んだけれど、何を話したいのか自分でも分からない。ただゆいさんの力になることができない自分が歯痒くて虚しくて…

「無理しないようにね」
「うん、ありがとう」
ありきたりな言葉しか出てこない自分がなんだか情けなく思えた。

ゆいさんが去った後、持ってきたパソコンを起動し作業を始めようと思ったけれどなかなか思うように進まない。せっかくゆいさんに会えたけれど、心の中は何か悶々とするものがあった。その原因はゆいさんの役に立てれない自分自身にもあったけれど、もっと別の何かが俺の感情を暗く重たくしている。


ふぅと軽くため息を吐きながら店内を見渡すと、いつのまにかお客の人数もまばらになってランチタイムの騒めきが薄れる時間帯になっていた。
俺はおもむろにパソコン横に置いてある携帯を手にすると、ちょうどゆいさんからDMが届いた。


【今から帰るよ。さっきはビックリしたねー!りょうくんはまだカフェかな】

そのメッセージを見た瞬間何故だか咄嗟に俺も今出る所と送った。
目と鼻の先にいる距離。もう一度顔を見たい。会いたい。


【ゆいさんこの後時間ある?】
【今日娘はバイトだし、旦那は夕食いらないから特に何もないよー】
【じゃあ海行こ、俺見たいから付き合ってほしい】

テンポ良くやり取りしていたメッセージの返信が途切れる。急な誘いは無理だったかもしれない…そう諦めかけた瞬間【うん、行こう♪】というオッケーの言葉が届いた。

俺は脇目も振らず店のドアを抜けると、駆け寄って来るゆいさんを見つけた。どうぞ、と言って助手席のドアを開けるとありがとうと言いながらゆいさんが乗り込んだ。キーを回してナビを設定する。ここから車を飛ばして近くの海まで1時間半くらい。

「冬の海って久々だぁ」と微笑むゆいさんの横顔に俺も、と相槌を打ちながらハンドルを握った。本当に海を見たかったわけじゃない。ただ以前ゆいさんが俺と同じで海を眺めるのが好きで癒されると話していたことを思い出し、少しでもそれで心が軽くできるなら…と思ったのだ。ちょっとでも笑顔が増えたら。少しでも気が紛れたら…。


気持ちが先走るように加速するスピード。車の渋滞もなかったせいか予定よりだいぶ早く目的地に辿り着いた。
人気のない海岸の向こうではちょうど夕陽が水平線の向こうに沈みかけ、水面をキラキラ反射させていた。


「わぁ…すっごい綺麗なんだけど」

ゆいさんが窓から身を乗り出しながら、顔を綻ばせる。それを目にした俺も顔が緩んでいく。ちょっと近くまで行きたいな、とゆいさんが言ったのでエンジンを切って車を停めると砂浜へと続く階段を降りて行った。

ザザァンと寄せては返す波音だけが静かに響く。沈みかけの夕陽が輝かす水面は眩しくて、目を細めながら見つめた。お互い言葉を交わすことなく、ただ水面を見つめながらゆっくり過ぎていく時間。

現実の世界を忘れさせてくれるようなそんな2人だけの時間に感じて、このまま時が止まってくれたら…なんて考えたとき、俺は何故だかデジャヴを覚えた。ドレス姿の女性と寄り添いながら、至福で満たされていた夢。あの時感じた想いと何故かリンクして、一瞬変な感覚になる。


「くしゅん」

隣りに目をやると、ゆいさんが両手を摩りながら頬を真っ赤に染めていた。
「ごめん、寒いよね」
「大丈夫!私が近くで見たいって言ったん…」


ゆいさんは言い終わらないうちに2回目のくしゃみを発した。俺がゆいさんの手に触れると、氷のように冷え切っている。

「え、めっちゃ冷たいじゃん」
「冷え性だから、いつもこんな感じだよ。それより何でりょうくんはこんなにあったかいの」


ゆいさんは驚きつつも俺の手の温かさを確かめるかのように触れ返す。俺は思わずその手を握り締めた。そして「カイロ代わりと思って」と言いながらゆいさんの冷え切った手を俺の体温で覆った。初めて触れるゆいさんの手は、華奢で小さくてこのまま離したくないって思うほど愛おしく感じる。


もっと早く出会えていたら…
俺がゆいさんと同じくらいに産まれていたら…
もっと違う形で出会えていて、一緒の人生を歩んでいけたかもしれないのに…


「ゆいさん…」
感情を抑えきれなくなった俺は握り締めたゆいさんの手を引き寄せる。きゃっという声が聞こえたと共に俺はもう片方の手で華奢な身体を抱き寄せた。
「この方があったまるから」
「え、りょうくん…!?」
「ちょっとだけ…こうしてよ?」


ゆいさんは何も言わなかったけれど、俺が抱き締めた手を振り払うこともなくそのまま身体を離さないでいてくれた。

ゆいさんの髪から微かにいい香りが鼻をくすぐる。抱き合っているだけで、全身がとろけていくような感覚。身体中が心の奥の熱いものが…俺の全てが彼女を欲してる。


けれど 彼女には家庭がある。


そのどうしようもない現実と今この瞬間との大きな隔たりに押し潰されそうになって、思わずゆいさんの身体を力強く抱き締めた。
するとほんの少しの間を置いて、ゆいさんもそれに応えてくれるかのように俺の背中に手を回してくれた。

帰り道はデッキから流れる音楽だけが車内に響いていた。俺もゆいさんも特別言葉を交わすことはなく、どちらとも特に言葉を発することもしなかったけれど、それがとても心地良く感じていた。

俺は右手でハンドルを握りながら、左手はゆいさんの右手を強く握り締めたまま。重ね合わせた手から伝わるゆいさんの体温はさっきとは打って変わって温かさを帯びている。

「手あったまったね」
「りょうくんのおかげだね」


すっかり太陽が沈んだ景色には、街明かりが灯っている。気付くとあっという間に昼間のカフェまで来ていた。 
俺はこの2人だけの時間を惜しむかのようにゆっくりと、駐車スペースに車を停めた。


この手を離したくないのに…もっと同じ時間を過ごしていたいのに…
けれどゆいさんには帰らなきゃ行けない家がある。


「りょうくん、今日はありがとうね。本当楽しかった」
「こちらこそ。急な誘いに付き合ってくれてありがとう」
「私、色々してもらってばかりだね。まだこの前のお礼もできてないし」「俺が行きたかったんだから気にしないでよ。ありがとね」


俺の左手はゆいさんの手に重ね合わせたまま離せなくなっていた。この体温ずっと感じられたらいいのに…。


出会った時から特別な想いが何故かあって。会う度それが強くなって。けれど俺がどんなにゆいさんを求めたところで、それはきっと叶わないこと。

「りょうくんて本当じっと見る癖があるよね」
恥ずかしいなぁとでも言いたげにゆいさんは顔を横に向ける。
俺はたまらずその横顔に顔を近づけるとゆいさんの頬にそっと唇を寄せた。

えっ?て目を丸くして正面を向いたゆいさん。俺はその瞳をじっと見つめた後、そっと唇を重ねた。

衝動的だった。けれど俺はゆいさんと離れることが強烈に嫌で自分だけのものにしたくて抑えられなくなっていた。

ゆいさんの反応は少し気まずそうな、けれど俺の想いはちゃんと分かってくれたかのようなそんな表情だった。困らせたくない。けれどゆいさんへの想いを断ち切るなんて考えられない。


マンションに着いてから、【家着いた?】とだけメッセージを送った。
どんな反応が返ってくるかちょっと不安になったけれど、数分後に【うん、着いたよ。今日はありがとう】という言葉を目にしてホッと胸を撫で下ろす。


今日一日はあっという間に過ぎたけれど、朝から本当濃い時間だった気がする。ゆいさんと偶然再会したこと。2人で綺麗な海を眺めたこと。ゆいさんの手に触れ抱き締めたこと。柔らかな唇の感触は今も微かに残っている。

ゆいさんとの関係性が進んだことに喜びを感じる一方、自分の感情に抑制できなくなりそうで怖くなる自分がいて、葛藤する想いに心がかき乱される。

その夜はいつもより早めに眠りにつくことにした。


俺はまたあの奇妙な夢を見させられていた。けれど俺の視界に見えたのは薄汚れた衣服を身に纏い、2人の兵士らしき人らに腕を掴まれている夢の中の『俺』兵士達は鎧を身に纏い、片方の手には鋭角に尖った剣を握り締めて殺気立っている。これは一体どんな状況なんだろう。いつもならあの身体に意識だけが入って、あの身体からの目線で情景を見渡していたのに。
何故今日は違うんだ?俺はどこから見ているんだ…?

そう想いながら意識を下に向けると艶のある黄色い布地のドレスが目に入った。まさか…これはあの女性の身体から見ている光景なんじゃないだろうか。


目の前の俺は膝まずきながら、「どうかお許しください」と言って泣き叫ぶ。ドレスの女性である俺は声にならない声を上げ泣き崩れている。一体何があったのか。
「お前は盗人で重罪だ。罪を犯した自分を反省し、悔い改めよ」
兵士の1人がそう叫んだ後、握り締めていた剣を大きく振りかざし俺の首を切り刻んだ。


「いやぁぁぁぁぁ」

女性の泣き叫ぶ声が響き渡る。女性の中に意識がある俺は、その女性のとてつもない悲しみややりきれなさ、愛する人を目の前で殺されるという耐え難い想いを一緒に味わった。苦しくて苦しくて、窒息するかと思うくらいに呼吸が乱れる。
俺はこの女性と一心同体になっている感覚だった。


サァァと霧のような白いモヤが視界を流れていった後、目の前の惨劇だった場所が変わり、高く壮大な天井のある風景を映し出した。

目の前には十字架。神聖な空気感が漂うこの場所は、どうやら教会らしき雰囲気だった。俺はまださっきのいたたまれない感情をひきずりながらも、目の前の状況を理解しようと必死になる。


「こんなのあんまりよ…。あの人は上手い話に騙されただけなのに。家族もなくして可哀想な人なのに…何であんな死に方をしなくちゃいけないの…」


女性は左右の手を胸の前で固く握り締めている。

「主なる神様…どうか来世であの人が生まれ変わったら裕福で家族のいる家庭に生まれ変わらせてあげてください…お願いします…。私はどんな境遇でも構わないから…その代わりもう一度彼に会わせて下さい」


彼女が言い終わると同時に、またさっきのように霧のようなものが目の前を流れていく。

けれど、場所は変わらず同じ教会だった。少し年月が経っているのか建物が色褪せて見える気がする。

「主なる神様…どうか来世であの人が生まれ変わったら裕福で家族のいる家庭に生まれ変わらせてあげてください…お願いします…。私はどんな境遇でも構わないから…その代わりもう一度彼に会わせて下さい」

女性が胸の前で握りしめている両手はさっきとは違ってたくさんのシワが刻まれていて、年老いた手に見えた。



ゆっくりと視界が開けていく。ここはどこなんだろうか。完全に瞼を開けても、ここが現実の俺の世界だと理解するまでに少し時間がかかった。何故ならまだ夢の延長線上にいるような重苦しさが胸の奥に残っていたから。
頬に違和感を感じて触ってみるとベタッとした濡れた感触が残っている。俺は泣いていたのか…。


再び目を閉じる。薄らぎそうになる夢の記憶をもう一度辿っていく。
夢の中の俺は罪を犯し殺されて…無残な死を遂げていた。しかも愛する人の目の前でという最悪な展開で。そんな残酷な場面を見せつけられた女性の中に俺はいて。とてつもない苦しみや悲しみに心が張り裂けていた。愛する人を目の前で殺された辛さ、絶望感。そしてそれでも俺に対する愛情は変わらず一途に思い続けてくれていた。俺の来世の幸せまで願ってくれて、こんな俺と再び出会いたいと祈ってくれて…きっと毎日のように祈り続けてくれたんだろう。そして苦しみを背負いながらもちゃんと生き抜いてくれた。
女性の中にある愛の大きさに胸が詰まる想いがした。

決まってゆいさんと会った後に見るようになった奇妙な夢。時間の経過と共に僅かな記憶も薄れていったけれど、最初に見た時から今までの夢がストーリーみたいに繋がっているような気がした。そしてそれは決まって現実世界の俺の心情とリンクするかのようだった。


もしかしたら…
あの女性はゆいさんなんじゃ…。直感的にそう感じた。俺が出会った時から何故か惹かれていたのも愛おしくて仕方ない気持ちが湧き出てくるのも。きっとあの夢と繋がりがあるんじゃないだろうか。お互い海を眺めるのが好きで癒しになっているという事実。夢の中には決まって蒼く透き通った綺麗な海が見渡せていた。


夢と思っていたそれは、俺とゆいさんの前世だったのかもしれない。

今の俺の境遇は両親もいてお金に困ることもなく裕福に暮らせている。それに今まで大した苦労もなく人生を送ってきている。一方のゆいさんは、父親を早くに失くし病気がちな母親を支えながらそれでもそんな素振りを見せないで懸命に家族を支えている。

俺の鼓動が早くなる。ただの夢なのかもしれない。けれど俺の予感めいたものは、きっとそうに違いないという確信に変わりつつあった。

ゆいさんとは変わらずメッセージのやり取りが続いた。けれど次第にルーティン化していたゆいさんの更新を心待ちにする日が減り、俺がインスタ画面を開くことが減り、そしてついに俺はインスタのアプリを削除した。


ゆいさんに対しての気持ちがなくなったわけじゃない。いや、寧ろ想いはどんどん膨らむばかり。

その一方で俺は自分に自信が持てなくなっていた。今の俺にはゆいさんを幸せになんてできないし、相応しくない。今の俺じゃ釣り合わない。恵まれた環境にいながらその有り難さも分からずに育ってきて、これといった目標も持てずただ生きてきた俺には、逆境の中でも逞しく強く光に満ち溢れているゆいさんの存在感の大きさに恐れのようなものを抱くようになってしまっていた。
それにあの夢の中で感じ取った女性の愛の大きさに釣り合う男である自信が今の俺には持てないでいたのだ。

失うことへの恐怖もあった。けれどそれと同じくらいゆいさんという存在感の大きさに恐怖めいたものを感じてしまっていた。

今の俺じゃダメなんだ…。


俺はゆいさんとの連絡を遮断した後、現実逃避をするかのように仕事にのめり込んだ。今まで野心のようなものを持ち合わせていなかったけれど、結果を出して自信が持てる男になりたい。そう強く願うようになった。


親の脛をかじっていた生活もやめ、住んでいたマンションを引き払うと、ワンルームマンションがある都内に移り住んだ。今の俺の稼ぎだけだとまあまあ厳しい家賃。けれど敢えてプレッシャーをかけるためにそこを選んだのだ。気分一新で歩みだしたかった。だから前の部屋から運んだ荷物はスーツケース一つ分だけ。以前より殺風景な部屋だったが、真新しく感じるこの空間は俺のやる気を漲らせてくれるようにも思えた。


俺は輸入業を拡大していくことを決意した。今までは中国オンリーだったけれど、韓国やヨーロッパと仕入れ先を増やすことにした。

人手が必要だと考えて求人サイトで募集をかけてみた。何人かzoomで面接したのち、採用したのは3人。その中でも特に希望を持てたのが中国籍のチェンだ。滞在歴5年で俺の2歳上にあたる。中国、韓国、日本語が流暢に話せて語学力堪能。仕入れ代行の経験もあって頼もしい存在になっていきそうだった。外注しかお願いしていなかった俺は今まで事務所も構えていなかったが、スタッフ採用を機に会社の事務所としてアパートの一室を借りた。

販路先も拡大し、事業として規模をデカくしていこうと考えた。とにかくどこまで自分ができるのか試したかった。誰かを支えて守れるくらいの経済力と器も持ち合わせたいと思った。


とにかく必死だった。まるで何かに取り憑かれたかのように仕事にのめり込んだ。趣味で行っていたフットサルにも自然と足が向かなくなっていた。以前なら休みたい時に休んで、たまにカフェで仕事したりして自由な暮らしぶりをしていた。けれど今は休みらしい休みもなく、自宅と事務所を往復するだけの日々。たまに事務所でそのまま朝を迎えることもあって、仕事漬けの毎日だった。


忘れようと思っても忘れられない存在、ゆいさんが常に俺の心にいることで急きたてるような想いが俺のエネルギーになっていた。

もうすぐゆいさんと初めて出会ってから1年になる。
一方的に関係を断ち切った俺を恨んでるかもしれない。裏切るような形で突然去ってしまって泣かせてしまったかもしれない。それを想うと胸を鷲掴みされるような苦しい気持ちが溢れ出したけれど、そう思えば思うほど仕事に集中できる自分もいた。

そして心の片隅で、僅かな希望があったのも事実だった。
本当に俺とゆいさんが過去に出会っていた2人なら。あの女性がゆいさんだったなら。きっといつか2人が結ばれる日がくるはずだろう。気持ちが分かり合える瞬間があるはずだろうと。
何の根拠もなく、見に目えて確信できるものなんて何もない。けれどそれでも俺の心の深いところでは、その想いを拭えないでいた。


「りょうさん、商談上手くいきました!予定よりコストカットできそうです」

俺はよしっ!と握り締めた拳を掲げた。
俺が期待していたチェンは、メーカーとの商談を重ねるごとにどんどん交渉術が上手くなっていき、最近では俺が一緒に商談に入らなくても余裕で取引成立まで持っていってくれた。代行を使わなくても済むようになったおかげで、利益がだいぶ上乗せされる。

売上がアップし、少しずつ会社が軌道に乗り出したことで、アパートの一室から始まった事務所も50坪程の店舗を借りるまでに拡大した。気がつけばスタッフの人数も3倍以上に増えている。

この調子でいけば今期の売り上げ2億超えは間違いない。俺はチャンをはじめ、今ある仕事をどんどん社員達に任せるようにし、自分は新規開拓に力を入れていくことにした。


そんなある日取引先と打ち合わせた後会社に戻ると、

「纐纈社長!」とチャンが青ざめた顔をしながら駆け寄ってきた。
「どうした?」
「中国からの荷物が税関で止まっているようで…これ」


茶封筒から取り出した用紙を広げた。
税関からのお知らせ、と書かれた手紙には『知的財産を侵害する物品が見つかりました』と記されている。

「以前メーカーからサンプル商品を送ってもらった時は大丈夫だったので、普通に発注かけてしまったんですけど…本当申し訳ありません!」
チャンが深々と頭を下げる。
商品は有名ブランドと少し似たような柄のものだった。もちろんロゴなんて入ってないし、偽造品ではない。
不服がある場合は申し立てもできるが、それに費やす時間も労力ももったいない。原価は安いがロット買いの大量発注、横展開して何種類かを仕入れていたため損失額は500万近くに及ぶ。


迂闊だった。輸入仲間が最近は税関が厳しくなっていると言っていたし、俺が仕入れ商品を確認できていたらこの事態は免れていたはず。俺はやり場のない気持ちをグッと飲み込むと俯き申し訳無さそうな表情のチャンの肩をポンポンと叩いた。
「俺がちゃんと伝えてなかったからだ。挽回していこう!」
チャンは再び頭を深々と下げた。

俺は会社の業績を上げて大きくしていきたいと奮闘していたけれど、この一件で自分の気持ちばかりが先走っていたことに気付いた。最近皆とのコミュニケーションも疎かになっていた気がする。俺1人で成り立っているわけじゃないんだから…。突っ走るように動いてきた俺は一度立ち止まり、もっと社員やバイト達との距離感を大事にしていこうと考え始めた。


特別なことはしていないけれど、前より一人一人の働いている表情をよく見るようになった。声をかける回数も増えた。少しずつだがどんな想いで仕事をしているのかとか、どんな夢を持っているのかとかが分かるようになってきて、その想いに触れる度もっと皆の夢を後押しできるような会社にしていきたい、そう思えた。


「いつも頑張ってくれてありがとう」

今までなら振り込みにしていたボーナスだけど、今回から手渡しで渡すことにした。封筒と一緒に日頃の感謝を込めた手紙も添えた。
1人1人にお礼を言いながら手渡していく。


「えー社長、そんなとこまで見ててくれたんですか」
社員のななみさんが早速手紙を開けて読んでいるようだった。
「手紙は自宅で読んで!」
小っ恥ずかしさを感じて語尾を強めたら、周りがクスクス笑顔になった。

会社の雰囲気が明らかに変わってきたのが分かる。社員同士信頼関係を築けているのがわかるし、プライベートでも付き合いがあることを知って良い環境になっているのを感じた。それもこれもあのマイナスと思えた一件があったおかげだ。

そんなふうに会社の居心地の良さが増した頃、俺は新たに目指したいものが見つかった。自分で何か商品を生み出したい。
形になるものを残していきたい。

そんな想いを強く抱くようになった。

けれど残すといっても何が良いのか分からない。自分が残していきたいもの。心を込めて作りたいもの…

その時ふとあるものが脳裏に浮かんできた。もうとっくに記憶からなくなっていたけれど、何故か今夢の中で見たあの時の指輪が鮮明に目の前に映し出された。お金がなくて自分では買うことさえ出来ずにいて。けれど愛する人をなんとか喜ばせようと必死になって掴み取った指輪。

会社のデスクに座り込んで考えていた俺は真っ白なコピー用紙を1枚取り出すと、思いつくままにデザインを書き記す。正直デザインの知識なんて全くない。でも俺は自分の想いをこのリングにこめて何とか形にしたかった。

「社長何書いてるんですか」
「んーちょっとデザイン…」 
「おぉ、これとかお洒落ですね」

チェンはコピー用紙に描かれた何枚もの図案を見ている。
どれも素敵ですね、と言ってくれたが俺が納得できるものは何も出来上がっていない。

日々業務をこなしながらも俺の頭の中は指輪のデザインのことでいっぱいになった。凝り固まっているのかなかなかコレ、と思えるアイデアが思い浮かばない。

週末の昼過ぎ。俺は久しぶりに車に乗り高速を飛ばした。その場所に向かうのは1年半ぶりだろうか。思い出の場所でもあり、封印していた場所。
高速を降りて下道に入る。目的地に近づくにつれ、段々と建物の数が減っていく。運転席の窓を開けると、微かに塩の香りがした。視界には徐々に水面が見え始めている。


俺は目的地に辿り着くとエンジンを切り、あの日降り立った浜辺へと進む。

「気持ちいいなぁ…」

俺は大きく両腕を伸ばした。
あの時は波音だけが静かに響いていて人気は全くなかったけれど、今は海水浴シーズンとあってかなかなかの人出だ。けれどすでに日が傾きかける時間帯だったから、帰宅間際の客が圧倒的に多かった。

水平線を眺めていたら、あの日の光景が蘇ってくるようだった。懐かしいなぁとまで思えるようになった俺はあの頃より少しは成長できたかもしれない。

あの時の俺は気持ちだけが溢れていて、なんとか関係を深めたくて余裕なんてものはこれっぽっちもなかった。自分の生き方や考え方が180度変わって今の俺があるのは、間違いなくゆいさんのおかげだろう。

そしてゆいさんと会わなくなってから一切見なくなったあの奇妙な夢も、俺に大切なメッセージを与えてくれた気がする。


もうほとんど記憶に残っていない中で、最後女性の中で感じた愛する人への想いともう2度と失いたくないという切望感だけは俺の心の奥底にしっかり切り刻まれているから。

俺はあの夢の中の女性も俺の一部のような気がした。



夢の感触を思い返していた瞬間、俺の中にピンとインスピレーションが湧いてきた。俺は瞬く間に車へ戻ると、助手席に置いてあったスケッチブックを取り出した。直感的にひらめいたそれは、本当に突然降りてきた。かき消されないうちに急いでペンを走らせる。
思い浮かんだアイデアを一通り紙にしたためられたとき、出来上がりの満足度は最高のものになった。

インフィニティ♾の形をした細身のリング。中央には小さめのダイヤ。永遠の愛という想いを込めて出来上がったデザインは自分の想いを全て形にできた。

俺は週明けの社内ミーティングでジュエリーブランドの企画を提案した。「おぉ」と歓声のような声が漏れる。そのため良いブランド名がないか各自アイデアを出しておいてほしいと伝えた。デザイナーさんには俺が書いた図案を基に製図作成を依頼した。

作る以上は最高のものに仕上げたい。このインフィニティ型のリングは他でも見かける型だ。だからマーケティングが必要だし、何かインパクトがあるものが欲しい。


けれど本当に満足のいくものを完成させようと思ったら、全く妥協ができなくて何度も試作品を作ることになった。俺が望むようなクオリティーの高い職人さんにもなかなか出会えず、アポを取って何軒か回った。
早く決まるだろうと思っていたブランド名もなかなか閃くものが見つからない。社内ミーティング時に毎回アイデアを出してもらうけれど、俺の中でオッケーサインが出るものには未だ出会えずにいる。

「社長凄く魂入ってますよね」
チャンがマグカップに入れたコーヒーを差し出してくれた。俺はサンキューと言って口をつける。
いつのまにかホットが美味しく感じる季節になろうとしていた。

「ブランド名はやっぱり社長の想いが詰まっているものじゃないと…」
俺の想いが詰まったネーミングかぁ…。そう呟きながら、思いっきり身体をのけぞらせて天井を見つめた。ありきたりな言葉や耳にした言葉だとインパクトがない。耳に残るような気になってしょうがないような、それでいて俺の想いが詰まる言葉があれば…。

一旦外の空気にでも触れに行こうと椅子から立ち上がると、出入り口のドアへと向かった。
ちょうど俺が女性社員の背後を通ろうとすると、小声でキャーキャー何やら騒いでいた。


「何そんなに楽しそうにしてるの?」
背後からひょいと顔を覗かせる。
「あ、社長!」声を合わせて慌てる2人。
「ん?YouTube観てたの?」
「や、これも仕事ですよー、ブランド名を考えてて…最近聞いたんですけどツインレイって知ってます?これなんですけど…」

ななみさんがパソコン画面上を差しながら得意げに教えてくれる。YouTube見ながら考えるとは俺にはなかった考えだなぁと思いながら、初めて聞く言葉に首を横に振る。

「魂の片割れらしいですよ」
「片割れ?」
「前世で1つの魂だったものが2つに分かれたらしく運命の恋人のこと言うみたいですよ。出会うと強烈に惹かれ合うとか…」

その言葉を聞いた途端、心臓が止まるかのような衝撃が走る。前世?運命の恋人?それに強烈に惹かれ合うってまさに俺が体験していることそのものじゃないか…?一瞬時が止まったかのようだった。言葉が出てこない。
けれどそれを知った途端、俺の中で何の迷いも持たずに決めたことがあった。
『ツインレイ』それをブランド名にしようと。

ななみさんがYouTubeにいっぱい情報ありますよーと教えてくれたけど、俺には特に必要性を感じなかった。もう充分だろう。何より俺自身が確信しているのだから。ゆいさんは俺にとって唯一無二の存在だって。


名前が決まった後からの流れは面白いほどのスピードで進んで行った。チャンが必死で探し出してくれたおかげで信頼できる職人さんとも出会うことができた。有難いことに細かい所までこだわってついに完成した思入れの深いリングは、俺が予想していた以上のクオリティーに出来上がった。このリングはペアずつで3種類を用意していた。

「この指輪、本当素敵ですよねー。彼氏におねだりしようかな」
「石の配置もいい感じですよね。絶対人気出ますよー!」

女性社員達の反応も良く、期待に胸が膨らんで気持ちが昂ってきた。

タイミング良く来月のクリスマス前に販売できれば、なかなかの売上が見込めるんじゃないだろうか。社員に任せていたサイトの出来映えも上出来で、女性達の目を引くことができそうだ。


俺は販売の2週間前からSNSを使って大々的に広告を打ち、商品をアピールしていくことにした。そしてクライアントの繋がりで編集者さんを紹介してもらうと、なんと運良く雑誌に掲載してもらえることになった。担当してもらった女性編集者さんが「面白いですね」と俺が名付けたブランド名に興味深く反応してくれたからだ。俺の想いやこの名前の意味を伝えると、ますます目を輝かせてくれて「私も初めて聞いた言葉ですしまだまだ認知されていない言葉だと思うので、特集で組んだら良い反応もらえるかもしれませんね!」とさらに意欲的な言葉をかけてもらえたのだ。


オリジナルジュエリー Twin Rayリングの発売日。
初めてデザインから考えたオリジナル商品。俺の想いが詰まったリングがついに発売された。


「社長アクセス繋がりにくくなってます!」
「わ…どんどん注文数上がってきてます!」

ペアリングの数は生産数限定での販売だった。広告掲載からの流動も多かったし、何より雑誌での反響が大きかったのがアクセスアップに繋がっただろう。
発売前から商品への問い合わせが殺到していたからだ。

「社長!予定の販売数完売しました!」
チャンの威勢のいい声が響くと社内から瞬く間に拍手が沸き起こった。俺は高く挙げた両手の拳にギュッと力を籠める。
ここまでやり切れたのは周りの社員や取引先、編集者、俺と関わってくれた人全てのおかげだった。皆に助けられて達成できたと思ったら熱いものが込み上げてきた。


その日の業務は早めに終わらせると、デリバリーしたピザやオードブルなどをデスクに並べて打ち上げをした。近くのコンビニで買い出ししてもらったお酒で乾杯すると、ひとときの時間酔いしれた。
社員の皆が和気藹々としながら飲んだり食べたりしているのを眺めていたら、ふと自分1人でアパートの一室から始めた日のことが浮かんできた。あれが俺の出発点。焦りや苛立ち色んな感情が渦巻いてもがいてもがいて毎日を過ごしていたあの頃を思い返すと、自分がここまでやれる男になったことを褒めてやりたくなった。

自信なんてこれっぽっちもなかったけれど、色々挑戦し、葛藤し、乗り越えていく中で自然と身に付いてきた気がする。

「纐纈社長!本当良かったですね」
「チャンのおかげだよ。本当感謝してる」
会社の立ち上げ当初からずっとついてきてくれたチャン。今じゃ俺の右腕となって率先して動いてくれている。
「いや、僕の方が社長に助けられてますから。以前損失出した時責めないでくれたこと、今でも感謝してます」
チャンが照れ臭そうに話す。俺はそんなこともあったか…と懐かしさが込み上げた。


「纐纈社長はあのペアリング、付けないんですか」チャンは俺が大事に想っている人がいることを知っている。

「…実は渡したいと思ってる」
「え、そうなんですか」

俺は缶チューハイをグイっと一口飲んだ後、「作っている時は全くそんなこと考えなかったんだけど」と答えた。

もう2年近く会ってもなければ近況さえ分からない。けれどずっと俺の心の中にいたゆいさん。離れた当初はどんなに気持ちがあってももう俺から会いにいくことはないかもしれないなんて思っていた。けれど自分自身の中身も変わって1つの達成感を味わって成長できたせいだろうか。今はゆいさんに連絡したい気持ちが強まってきている。


「クリスマス近いし、一緒に過ごせるといいですね」
そうだった…ちょうど週末はクリスマスか…
ひと段落ついて会社も休みだし、ちょうど時間もある。


夜の9時を回る頃に打ち上げは終了した。

「社長お先に失礼しまーす!」そう言って次々に人の気配がなくなり、さっきまでの賑やかさとは対照的に社内は静まり返っていた。椅子に腰掛けながらポケットにしまい込んであった携帯を取り出す。
今頃ゆいさんは何をしているだろう。俺のことを思い出してくれたりするんだろうか。


怖いと言えば嘘になる。けれどそれ以上に会いたい気持ち、そして俺の気持ちをゆいさんに伝えたくなった。思い返せば俺は一度だってゆいさんに素直な自分の想いを打ち明けていない。

携帯を開くと何年かぶりにインスタアプリをダウンロードした。あの頃なかった機能が色々追加されててビックリすると共に月日の流れを感じさせた。久々に見るインスタ画面はあの頃の俺とリンクするようで切なさやゆいさんへ感じていた想いが蘇る。


恐る恐る開くDM。
アイコンが変化していて一瞬困惑したけれど、YUIという文字が目に入ってすぐに分かった。未読したままのメッセージは全部で6通届いていた。


【おはよー】
【今日忙しいのかなぁ】
【そろそろ寝るよ、おやすみ】
【おーい!】
【りょうくんのばーか】


そして最後のメッセージには

【会いたい】


「ごめん、ゆいさん…」
俺は携帯越しにゆいさんの顔を浮かべた。
どんな気持ちでこれを送ったんだろう。
俺からの連絡が途絶えて何を思っていたんだろう…。

アイコンをクリックする。プロフィール画面も更新されていて、今は駅前に店舗を構えているようだった。姉妹店のリンク先も載っているから、きっと人を雇って店を回してるんだろう。
「凄い…ゆいさん、めちゃくちゃ頑張ってる」

誇らしい気持ちと尊敬する気持ちが入り混じる。家庭がある中で看病したり家事したり仕事だけに没頭できる俺とは違うから、経営していくことは大変だったんじゃないかと想像する。

俺は再びDM画面に戻る。
動かす指先が僅かに震えているのが分かる。そして【ゆいさん、久しぶり。連絡できなくてごめん】とメッセージを送った。

数分待ってみたけれど、返信はない。

このまま携帯を見ながら待つのは気が休まらないように思えて、一旦マンションに帰ろうと立ち上がった時。

【え、りょうくん?生きてる!久しぶり】

待ち焦がれたメッセージが届いた。
意外にも前と同じようなテンポの返しが来て、内心ほっとする。でもそれがゆいさんの優しさのような気もして、温かい気持ちに包まれた。おかげでさっきまでの緊張感が和らいできた。

【お店2店舗も持ったの?】
【そぉ、一応経営者w】

変わらないやり取りは月日の流れを一切感じさせないようだった。

リアルタイムのやり取りの中でお互いの近況報告をしていると、ゆいさんは1年ほど前に離婚したことを教えてくれた。仕事一筋の旦那さんですれ違いだったけれど結婚生活ってこんなものだろうと思っていたらしい。けれどゆいさんのお母さんが危篤になったときでさえ仕事を優先していた旦那さんを見て吹っ切れるものがあったと言った。その翌朝お母さんは息を引き取ったらしい。

【おかげで仕事に没頭して頑張れたよ】

本当にゆいさんて…強くて憧れる。その強さはきっと色んな悲しみを乗り越えてきたからだろう。早くゆいさんに会いたい。その想いが強くなる。

【ゆいさん、今度の土曜日ちょっとでいいから空いてる時間ある?】
【サロンが19時までだから、それ以降なら時間あるよ】
【じゃあ時間空けておいてほしい】
【うん、分かった】

やり取りを終えて携帯を閉じた後は色んな思いが湧き上がってきた。

俺も色々とあったけれど、ゆいさんにもたくさんの変化があってそれが想像以上だったから驚きを隠せなかった。あの笑顔の裏で色んな壁を乗り越えてきたんだと思ったら、ますます恋しくなった。


待ち詫びた土曜日はいつもよりも肌寒さが増していた。都心でも雪がちらつくようなことを言っていたから、ひょっとしたら初雪になるかもしれない。
俺はクローゼットにあるケースの中から小さな箱を取り出す。箱を開けるとリングが煌めいていた。
そのリングをそっと持ち上げて目の前に翳す。内側に記されたされたR to Y。職人さんに作ってもらう時、この指輪だけ刻印してもらったのだ。これを受け取ってもらえるかは分からない。けれど俺の精一杯の想いを伝えたい。
再びリングをゆっくり箱の中へとおさめると、着替えを済ませて早目にマンションを出ることにした。


昼下がりのこの日は行き交う人も多く、交通量も増えていた。土曜日であることとクリスマスというイベントも重なってることが理由だろう。軽くランチを済ませようと思ったけれどどのお店も入り口前に行列ができていて、結局昼飯にありつけたのは15時を回った頃だった。朝から何も口にしていなかったお腹には、サンドイッチだけでも充分な量だった。緊張のせいもあるかもしれない。


ゆいさんは今頃仕事を頑張ってるんだろう。久しぶりに会うゆいさんはどんな姿なんだろう…髪型は変わったりしてるんだろうか。
頭の中で色々想像してみたけれど、浮かんでくるのは俺が出会っていた頃のゆいさんだけ。

1つ言えるのは今がどんなゆいさんでも俺の心を持っていかれてしまうんだろうということ。会えない間もずっと心の中にいて、愛おしいと思えた存在だから。


この2年間の間に全く女性と出会わなかったわけじゃない。
取引先と接待でキャバクラに行ったり、女性社員に懇願されてコンパに参加したこともある。「付き合ってほしい」と言われたこともあるけれど、まるでその気がない俺はあっさり断った。綺麗な女性はいっぱいいたけれど、俺の心の中には常にゆいさんがいたから。


そんな思いを巡らせていたら、いつの間にか陽が落ちて街灯が灯る時間帯になっていた。
今から向かえばお店が終わる30分前には着くだろう。俺はお店を出るとエンジンを回し、ゆいさんが経営するネイルサロンへと車を走らせた。途中渋滞に巻き込まれたため、到着した時間は閉店時間の10分程前だった。駅前とあってか人だかりも多いが、何やらツリーらしきライトアップされたものに人が集まっているようだった。そのほとんどが恋人だろうカップルで、今日がクリスマスイヴだったと改めて気付かされる。


「へぇ…イルミネーションてこんなに綺麗なんだ」

少し離れた場所でハザードを点滅させていたら、ゆいさんのお店のビルから3人の女性が出てきたのが目に入った。そのうちの1人が立ち止まり2人の女性に手を振った後、キョロキョロと辺りを見回し始めた。


「ゆいさん!」
俺は窓を開け声高く呼んだ。俺に気付いたゆいさんは小走りにこっちへ駆け寄ってくる。
「お待たせ」
「お疲れ様。どうぞ、乗って」

約2年ぶりに顔を合わせたゆいさんは、あの頃と変わらない笑顔で「久しぶりだね」と言った。俺は相槌を打ちながら、目の前にいるゆいさんの顔をマジマジと見た。前よりほっそりしたように感じる顔つき。吸い込まれるような大きな瞳を見てると、言葉を交わさなくても通じ合うような気がした。


ああ、やっぱり俺にはこの人しかいない…。

「ゆいさん」
「ん?」
「俺、ゆいさんがいなきゃ今の俺はなかったよ」

そう言って後部座席に手を伸ばすと小さな紙袋を手に取った。

「これ、開けてみて」

ゆいさんは何だろう…って言いながら中から箱を取り出した。


「え…この名前知ってる!少し前に発売された指輪だよね」
「ゆいさん何で知ってるの!?」
「雑誌で見てていいなぁって思ってたから…でもすぐ完売しちゃったんだよね?お店の子が欲しがってたけど買えなかったって言ってたから…」

ゆいさんが知っててくれたことは意外だったけれど嬉しく感じた。ということは雑誌にも掲載していたから、名前の由来も知っているはずだろう。

「これさ、俺がデザインしたんだ」
「え!りょうくんが!?本当に!?凄い!!」

ゆいさんは箱を開けて指輪を見つめている。「こんな素敵な指輪作れるなんて、本当凄いね」とゆいさんは声を弾ませながら言った。


「ゆいさんを想って作った」


一瞬目を丸くさせて俺を見たゆいさんは
「え、私を!?」と上擦った声を出した。

「指輪の中見て」
「え、中?」

ゆいさんは驚いたように言うとそっと指輪を取り出し中を除きこむ。

「これは…」

R to Y 


「出会った時からゆいさんは特別な人で愛おしい存在だった。今もその気持ちは変わらない」

ゆいさんは潤むような瞳で俺を見つめる。その後じっとその指輪を見つめたまま何も声を発さない。


もしかして受け取ってもらえないんだろうか…と一瞬不安が過ぎる。


ゆいさんは大きく息を吸って吐いた後
「りょうくんは私にとっても特別だったよ」と言った。そして


「出会ってから不思議な感覚がいっぱいあって…ツインレイってりょうくんのことだって確信してた。だからきっといつか再会するだろうなって思ってた」

ゆいさんは俺の目を見ながらニコっと微笑んだ。


俺はたまらずゆいさんを引き寄せて、力いっぱい抱き締めた。久しぶりに触れる感触やゆいさんから漂う良い香りが、俺の心を温かくしてくれて何とも言えない幸福感で満たされる。


ずっとこうしたかった。
抱き締めたかった。
離れたくなかった。
そばにいたかった。
この日を待ち望んでいた。


俺の魂からの声のようなものがたくさん溢れ出てきた。

もう絶対離さないーー

俺の背中に回ったゆいさんの手に力がこもったのが分かって、俺も抱きしめる両腕に力をこめた。きっとゆいさんも俺と同じ気持ちを持ってくれているのかもしれない…。


どれだけ抱き合っていたのか分からない。とろけそうになるくらいの心地良さの中、フロントガラスにしんしんと雪が舞い降りてくるのが見えた。

その瞬間何故だかふいにあの奇妙な夢で見た2人が浮かんできて、俺は直感的にあの2人からも祝福されているような気がしてならなかった。



エピローグ


それは魂の片割れ

けれど運命の恋人と言われる
甘ったるい関係性だけではなく
時に残酷で痛みを伴って

それでもお互いが
強烈に惹かれるほど
その光は力強く愛が深くて

もう決して失いたくない
唯一無二の絶対的な存在
ツインレイゆいさん


#創作大賞2022    #小説     #ツインレイ




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