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心としての人間、体としての人間

最近自分の中で納得いかないという感覚があった。人間を見た時、それがリアルであろうと写真上であろうと、納得いかない、説明できない、腑におちない、矛盾した二面性みたいなものを人間に感じていた。それは時に人間に対する嫌悪感として現れることもあった。これが何から来るものなのか見当もつかない。

そのような感覚を覚えるたび、これはつまり何なのか、教えて欲しいと宇宙に願った。私は知っていた、答えがいずれ自分の元へ来るべき時に来るということを。

そして、昨日、私は風邪をひいた。乾燥による喉の乾燥から始まり、体の節々が痛いしだるい。そして何故だかわからないけど、アマゾンプライムで現代のヨガの系譜についてのドキュメンタリー番組というのを見た。心と体の連動、集中、呼吸。

これを見て私は、自分が恍惚と抱いていた人間に対するやりきれない、整理しきれない感覚が何であったのか悟った。

私は、心としての人間を認めることができているが、体として、オーガニズムとしての人間をいまだに自分の中に認めることができていなかったのだ。

人間の心は好きだ。人の感情の移ろいは至極美しいと感じる。人間の書く物語、人間の創造する絵、人間の書く文字、人間による哲学や思想、人間により突き詰められた学問。個々に見た時にそれらに好き嫌いがあったとしても、包括的に見れば、私はそれらが美しいものに感じられるし、関心もあり、自分の中に大いに受け入れられるものであった。

オーガニズム、有機体、体としての人間。これは自分の中で受け入れられるものではなかった。呼吸器官、消化器官、生殖器官。人間の排泄、出血、汗。体の形や各部位の位置関係。汚いもののように感じられて、体に関わる人間の全てが私は受け入れられなかった。
体としての人間が受け入れられないというのは、体としての自分が受け入れられないことを意味する。私が同年代の他の子と比べ、運動感覚が鈍かったり、体が硬いなど体を使うことに関して不得意なことが多いのも根源的には、私が体としての人間を受け入れられていないからなのだろうと感じる。


人間という一個体の持つ、心と体という二面性。片方しか受け入れられていなかったから、自分の中でおかしな感覚に陥ったのだろう。

日本史を知るだけでは愛国心は湧かなかった。世界史を学んで初めて、格別な愛国心が私の中で芽生えたのだ。

よって、このような観点から見ても、人間の心を探究していきたいのなら、フィジカルな面での人間をも深く観察し、受け入れた方が良いと思う。

人間の体を見た時に感じる、抵抗感、心の収縮というのは、オーガニズムとしての人間を自分の中に認めて初めて解決される問題なのは自明である。しかし、私はそれを受け入れるやり方を知らない。

それもまた、宇宙に投げかけておけば知るべき時に知ることができるだろう。また、私は人間の体というものを授かってから17年。これからこの時間が伸びていけば、自然と変わる感覚というのがあることだろう。


これは二元論的に考えた話であって、心を体の機能の一つであると一元的に捉えるのであれば、私が受け入れられるのは非物質的側面での人間、受け入れられないのは物質的側面での人間ということができる。

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