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恋は終わりがなければならない

恋は愛なのか。恋は無条件でもないし愛じゃないよな、でも愛じゃないとは言いたくないよな。とずっと考えていました。

恋は、「汝1人を知る」の過程なのではないか

人間は基本1人だ。他に誰かを所持することはできない。誰をコントロールすることもできない。パートナーが他の人を好きになっちゃっても、そこで自分がそれを止めるなんてことはできないのだ。相手の自由だから。そういう意味で人は誰もが他人を真にコントロールすることはできないのだ。

だけど人は、誰かを自分のものにしたくなってしまう。自分1人だと不安だから。自分1人だと、精神的に、経済面的に心配だから。だから誰かとくっつきたくなってしまう。自分1人には自信がないから、私はこの人と付き合っている(所持している)のよ!っと世界に対してちょっとした自慢をして安心したくなる。

この時の、誰も所持することなどできないのに、自分が誰か他人を含んでいるような気持ちになる。この恍惚感が恋するという感覚なのではないかと思う。

でも、先に述べた通り、それはうまくいきっこない。だって、相手を思い通りにすることはできないし、自分がコントロールされるというのも嫌だなと思う時が来るから。それはさまざまな形でやってくるだろうけど。つまり、恋には必ず終わりがあるのである。

そして、恋が終わって、魔法から冷めて、結局私は自分の足で立ってまっすぐ前を見て歩くしかないんだと気づく。

この恋の始まりから終わりまでが一つのサイクルとして1人の人間に自立という成長を促すのではないか。この1サイクル自体はとても有意義なものである。自分は誰をも操作できないと気がつくことは、自分自身も誰かに操作されることは(自分がそれを望まない限り)無い、自分は自由だと気がつくことにもつながる。スピリチュアル的に言えば、自分軸で生きる、目覚めを促すのだと思う。

でも、恋自体を見れば、それは醜いものだ。恋がクライマックスに来ると、相手に惚れ込み、自分と相手の境界線をあやふやにし、お互いを自身の存在価値の保障として使い合っている。自分が胸を張って生きるための道具だ。それか、自己愛にしか帰結しない自身の性の出し合いだ。ここまで、惚れ込むことは稀だが、若者にありがちである。

で、恋は愛なのだろうかと考える。私は思う、やはり恋も愛なのだと。恋はその気持ち自体は愛ではない。相手がこうじゃないとダメとか「無条件の愛」なんてものとはかけ離れている。それにマウントを取るための道具として相手を使うこともある。だけど、お互いの成長のためにその虚構の恍惚の上で出会っているのだ。お互いがもっと自分自身を知り、成長していくためにわざわざ、恋は終わり、魔法から覚めた後は修行となるのにも関わらず出会っているのだ。相手を傷つけてまで相手の成長を促そうという。これは愛だ。恋は愛だ!愛は恋を内包している。

夫婦というのは、恋(愛をベースにした、虚構の上でのお遊びにfocus)から愛(虚構なしで現実にfocus)に移行することで良い関係性になるのではないか。ある時点で冷静になって、「相手を無条件に大切にしよう、でもお互いの自由と尊厳には介入しないよう」そう思えたら夫婦は良好な関係なのかもしれない。でもこれは別れるということも含んだ良好だ。「相手を無条件に大切にしよう、でもお互いの自由と尊厳には介入しないよう」と思った結果として距離を取るということだって考えられるからだ。要するに、別れも愛なのだ。


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