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昨日いたカフェの室温を私は覚えてない Tokyo, Japan


自身がニューヨークにいたときの日記を帰国してから初めて読んだ。書いていたのは覚えていたけれど、一度も読み返したことはなかった。

開いて読んでみて、びっくりした。

何がびっくりしたって、描写が細かすぎるのだ。こんなに細かく1日に起きたことを書いていたのかと驚いた。

細かく書いてあったというのは、確かに、それだけ書くほど1日に沢山のことをしていたのかもしれないが、それ以上に、自分にそれだけの洞察力があったということ。

レストランで食べたマリネの味が少ししょっぱくてレモン絞ったらちょうど塩梅が取れたこと、
友達との話の内容がちょっとえっちで、大丈夫かなと思ったけどここニューヨークだから周りは日本語わかんないんだとクスッと笑ったこと、
その時に飲んだカフェのグリーンのコーヒーカップが、なんともいえない綺麗なグリーンで可愛かったこと、
電車で前に座っている人がなぜかキッチンペーパーのロールをそのまま持っていたこと、
図書館の机の落書きに、とある教授のことをどう思うか多数決がされていたこと、
図書館の室温がちょうどよかったこと(そもそも、室温に意識が行くのは暑いか寒いかする時でちょうどいい時にわざわざ書かなくてもいいのではと思う)

なんでも書いてあった。

自分がいかに、身の回りのこと、ほんの小さなことでも、一つ一つ、意識が向いていたのか。見て、聞いて、感じていたのか。
その日記が物語っていた。

その日記を読んで、
東京にいる自分は、ただ、ただ、毎日を生きて、生きているだけだと思った。自分の感覚を、なんのために使っているのだろう。

ふっと止まれば、いや、止まらなくても少し肩の力を抜いて周りを見れば
面白いこと、綺麗なこと、楽しいことがこんなに散らばっているのに。

確かに非日常で過ごした時間だったからかもしれない。
でも、ニューヨークが刺激的だったのかもしれないし、
もっと刺激的にしていたのは自分なのかもしれないし。


感じて、自分。



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