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言葉のル-ツ

自分にとっての言葉のルーツってなんだろうと考えてみた。

子どもの時から音楽が好きで、その歌詞の意味を考え、

時には歌詞に浸っていた。

読書は、読書感想文を書くために読んだりした程度で、

そんなに多くの本を読んだわけではなかった。

社会人になると、エッセイや、体験記のような本を好んで買って読んだ。

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障がい者のいる家族は、世間ではどう思われているのだろうか。

よくテレビで見るのは、家族一丸となり、その子を励まし、

優しさで包まれた、温かな家族。

そして、その思いに応えるように、本人も明るく前向きな姿。

勇気や希望しかない、家族像。

それは私の理想とする家族で、私には無かった理想の家族。

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両親は共働き。

音楽ばかりに関心を示す私と違い、姉と弟は優秀で、

そんな違いも比較されずに育ったから、

姉弟への劣等感はまったくもたずにこれた。

親は、平等に育ててはくれたけれど、

自分の心配だけが先立ち、

何か私に不調があれば「ちゃんと〇〇しなかったから」と、私をとがめる。

大丈夫だよや、心配しなくていいよ

という、ささやかな言葉も言われずに育った。

そして、そんな共働きで懸命に働く両親に、

私は私で、心配させてはいけないと思い、

自分の気持ちを表に出さず、何かあると、

自分で考え、自分と対話するようになった。

親も、はじめて障がい児を育てるという手探りの中、

どう接していいのか、わからなかったのだろうと、

今になり理解はできる。

今もどちらかといえば変わらず、人に頼るのが得意ではない。

なんでも、自分で解決し、ひとりでやろうとする。

そんな環境の中、

私は、自分を肯定する何かがほしかったのだと思う。

無意識に、そのままで大丈夫だよと言ってほしくて、

寄り添ってくれる言葉を探して、多くの方の体験本などを読み、

自分もこのままでいいんだと思いたかったのだと思う。

どこかの誰かと、共感したかったんだと思う。

たった一言の、簡単な、ささやかな、その言葉を

求めていたのだと思う。

書くことも好きだけれど、それ以上に話すことも好きで、

人の話を聞くのが得意だと思っている。

人の話や思いを聞くことが好きで、基本、人に対してとても興味がある。

そのせいか、悩みを打ち明けてくる友人が多い。

そして、それに私自身、感情移入しすぎて、熱心に励まそうと

自分の中で言葉を探し、救いだそうとしてしまう。

疑似体験しているような、そんな時もある。

でもそれは、大丈夫と言葉をかけてもらいたかった自分自身と重ねて、

そして相手の気持ちに寄り添うことで、

つらい思いをしているのは、

自分だけではないと思いたかったのではないかと思う。

そんな難しい言葉じゃなく、

ただ一言の

大丈夫だよ

心配しなくていいよという言葉だけで、

その言葉がとても大事だという事が

時が過ぎて、わかった。

学生時代も、障がいがある私の周りには、言葉で傷つけてくる人は

誰ひとりいなかった。

みんな優しかった。

痛ましいニュースを目にするたびに、

今になると、そのことは

奇跡に近い運の良さだったのかとも思う。

だからこそ、私は言葉の重みを知っているし、

時に傷つける言葉も

正しく使うことで、

かけられたその一言を心の糧にして、

お守りのように自分を肯定して生きていけることを。

それは、子どもだけに限らず

せわしない、この世の中で

わたしたち大人にこそ

必要なのかもしれない。

本を買いあさり、言葉をさがしていた時代から

今はこのnoteという場所で、いくらでもそれを探せるし、

共感できて、共感してもらえる。

時に凶器となるインターネットの世界で

言葉を正しく使うことで、

誰かに寄り添える正しい文化として

このnoteは

ずっと守られてほしい。

そして、私も

そっと誰かに届けられるような思いで、

書いていきたい。















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