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個性は「ネーミング化」されることがゴールではない

一般社団法人あいもにー本部長の谷本です。今日は以前からずっと感じていた《個性は「ネーミング化」されることがゴールではない》ということについて書いてみます。

■前提として

この世に存在する物事は、すべてにおいて表裏一体で、どっちに転んでもメリットとデメリットがあります。

あいもにーでは、発達障害、グレーゾーン、不登校、引きこもり等にまつわる悩みに対して、共に考えていこうというコンセプトですが、このような以前には存在しなかった「ネーミング化」がなされたことでも、メリットとデメリットが生まれてきてしまうなと感じます。

そもそも人は、わからないこと、得体の知れないモノへ「不安」を抱く性質があります。それはきっと、生命維持のための原始的な機能です。

だから、「わからない」ことを「わかる」ようにすることは、安心を得るということで、これはメリットです。わからないからこそ、余計な心配や疑心が生まれたり、わからないことで混乱を招いてしまう…。だから「わかりたい」という欲求が生まれ、「わかる」ことを目指して知性は働きます。学問はまさにその典型で、そのことで人間は進化してきたと思います。

■わかる弊害

でも、なんでもかんでも「わかる」ということが良いことでもない…。
そう思う理由が、上記に書いた命に関わることではない個性という症状に対するネーミング化。

ネーミング化されていないときは、「国語が苦手な子」「算数が苦手な子」「集団行動が好きではない子」「落ち着きがない子」など、個性の延長で語られていたと思うのですが、ネーミング化されたことで、良くも悪くも目に見える線引きがくっきりとされてしまったように思います。

もちろん「どうしてこの子は普通にできないのだろう」と悩んでいた側にとっては、発達障害やグレーゾーンと言われたら「あ〜、普通じゃない理由はそこにあったのか」とわかり、わからない不安から距離を置くことはできる。

そして、その個性を受け止め、どのようにこの個性を育てていこうか試行錯誤することができるから、ただの「子育て」から「個育て」へ、「教育」から「共育」へと意識がシフトしていく。これが多様性を受け入れるということだと思う。

一方で、周囲が「国語が苦手な子」「算数が苦手な子」「集団行動が好きではない子」「落ち着きがない子」に関わりにくいと感じていた場合、ネーミング化は少し便利に使われることもある。

実際に、グレーゾーンの子を持つわたしとしての体験でも、同じような子を持つ親御さんの体験からも、ネーミング化されたことで「普通学級」から離れることを勧められるようになった。しかし「特別学級」にも該当しないというどっちつかずな宙ぶらりんな状態に置かれるのです。

■「わかる」ことの次の選択が個性を活かす

子ども同士では、きっと昔と同じく「国語が苦手な子」「算数が苦手な子」「集団行動が好きではない子」「落ち着きがない子」という個性の延長で捉えられているのに、ネーミング化されているのにも関わらず、制度は無情にも追いついてはいない現状。

このような現実を目の当たりにすると、宙ぶらりんな状態に置かれている側としては「制度を追いつかせて欲しい」とさらに細分化する方向を望むようになる。

しかし細分化を突き詰めることは、結果的に多様性を認めることではなく、多様性を分離する方向に進んでしまう…とも感じます。

これが「わかる」を弊害にしていくか、「わかる」を活かせるかの分かれ道。


例えば、日本型偏差値教育では「学力の進み具合」にフォーカスした細分化を行っているため、同じ成果や進捗が求められることで多様性は排除されていきます。

一方海外では、クォリティスクールのような、個人の上質な充足度に合わせた教育を行っているところもあり、発想力などクリエイティブな分野では著しい成果が生まれ、まさに多様性が活かされています。
※クォリティスクールについてはまた別の機会に…

あいもにーの活動では、やはり多様性に軸を置き、制度という枠組みからは一歩距離を置いて、個人の充足度に合わせたサポートができるよう試行錯誤していきたいと思っています。


その1つの取り組みとして、どんな人にもある「個性」について、親御さん、お子さん自身が自分で気づき、伸ばしていけるようなコンテンツを無料配布していこうと準備を進めています。


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