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『北極星(ポーラスタァ)を探して』

仮想文学連盟 第九回文学作品集『Ὄρνις』収録 テーマ『はくちょう座』
◯人類のいなくなってしまった惑星に取り残された機械人形と魔女が、人類の痕跡を探すポストアポカリプス

「おおい、パンドーラ。ちょっと来ておくれ」
「はいはい、なんですか。マスター」
「楽しみにしていたウィスキーがなくなったのだが~」
「それくらい自分でなんとかしてくださいよ、魔女なのでしょう」
 わたしはため息をついて、手元の古い書籍に目線を戻しました。淡い照明の灯るベッドの中、眠る前に少しずつこの本を読んでいるのです。もうなくなってしまった風景や文化、情緒に思いを馳せ、機械の指でページを捲ります。機械のからだ故に酔うことはできませんが、旧時代の人類たちがそうしたように、ウィスキーを傾けながら物語との会話を楽しむのです。
「あら、これけっこう美味しいですね」
 居間でマスターが情けない声をあげているのですが、ほんとうるさくて読書の邪魔です。

 『北極星(ポーラスタァ)を探して』

 わたしの名前は、パンドール=パンドーラ。すでに滅びてしまった人類文明の末期に造られた《汎用人形(パンドール)》。仕えるべき主を探して彷徨っていたときに、わたしを拾ってくれたのがマスターこと終焉兵器《屑鉄の魔女》。がしょんがしょんと歩く多脚型移動式隠れ家に乗って、人類の痕跡を探しているのです。
 このあいだ崩壊図書館で手に入れてきた本は、ついに佳境を迎えつつありました。お互いを想い合うふたりの文学少女、放課後の旧図書館におけるひみつの交わり。それぞれの内面描写が緻密に描かれ、ヒトならざる者のわたしでも思わずのめり込んでしまうほど共感できるものでした。
 しかし、出逢いは喪失への約束。抗うことの出来ない運命の歯車によって、ふたりの絆は引き裂かれてしまいます。遠く離れた地で思うのは、かつて北極星に誓った言葉。
『あの北極星の輝き(スタァライト)があそこにある限り、わたしたちの夢は迷いはしない』
 わたしは本を閉じて、窓から夜空を見上げました。この物語にはまだページが残っているのですが、ここらでひとつこころを落ち着けたいと思ったのです。紙の本は不便ではありますが、残りのページ数が少しずつ減っていくのが体感でわかります。物語が終わっていくさまは、寂しくもあり、愛おしくもあります。
「マスター、ちょっとこっちに来ていただけませんか」
 便器の中を探していた魔女は、ひょこっとトイレから顔を出してこっちにやってきました。そんなところでウィスキーが見つかったとして、あなたは喜べるのでしょうか。それはさておいて、わたしは隠れ家の窓を開け放しました。
 地平線まで砂漠は広がり、いまはそれを月明かりが照らすのみ。かつてここにも大都市があったという情報はありましたが、いまでは時の砂に埋れたまま。がしょんがしょんという魔女の隠れ家の足音が虚しく響き渡ります。そんな滅びた惑星を慰めるかのように、夜空の星々は儚く瞬いているのでした。
「北極星というのはどれですか」
「なんだい、パンドーラ。やぶからぼうに。いま私は忙しいのだが」
「ウィスキーを探すよりは有益だと思いますよ、マスター」
 数え切れないほどの灯火の中で、魔女が指さした先に小さな輝きがありました。北極星。時間とともに季節とともに移ろう星々のなかにあって、唯一、たしかなもの。あの儚いふたりの少女が幼い約束を誓った星。
「わたしたちはあれを目指して進んでいるんですね」
 数ヶ月前にわたしたちは崩壊図書館《ミンメイ》と呼ばれる遺跡の探索をしていました。民を明るくするというそのネーミングに誤りはなく、そこには多くの有用な書物が見つかったのですが、生き残っている人類が見つかることはありませんでした。ですが、終末期の痕跡は残されていて、ここで暮らしていた人たちは北にある構造物を目指して移動を始めたということでした。記録に残されているその構造物の名称は、《アリデッド》。
 そのときの人類に何があったのかはわかりませんが、わざわざ崩壊図書館を捨ててまで移動するからには、よほどその施設に希望をいだいていたのでしょう。もしかしたら、人類たちはそこでいのちを繋いでいるのかもしれません。
『では、パンドーラ。次は北に向かうとしよう』
『終末戦争でどこかの誰かさんが人工衛星を破壊し尽くさなければ、わざわざ行かなくても観測できたんですけどね~』
『そんなひどいやつがいたのか』
 そのとき魔女は吹けない口笛を吹いて誤魔化していました。
 がしょんがしょんと魔女の隠れ家は北を目指して歩いていきますが、なにもない砂漠が地平の果てまで広がっているばかりで、いまだ目的の施設は確認できませんでした。開け放した窓からふたり顔を出して、気持ちのいい夜風を楽しんでいると、魔女がぽつりとつぶやきました。
「北極星か。それは移ろいやすいものだね」
「たしかなもの、なのではないのですか」
 わたしは首を傾げました。
 北極星、それは地球の自転軸を北極側に延長した線上近くに位置しているため、地球上から見るとほとんど動かないように見える星のはず。ほかに頼るもののない天測航行の際に、旧時代のひとびとは目印にしていたといいます。この物語の中でも、それは何十年、何百年経とうともそこにあるもの、として描かれていました。『わたしたちの夢は迷いはしない』。それを魔女は、『移ろいやすいもの』と表現をしたのです。首を傾げずにいられるでしょうか。
「移ろいやすいものさ」
 わたしの淹れたコーヒーに口をつけて、魔女はくつくつと笑いました。
「この惑星は周期二万五千八百年の歳差運動をしているからね、その過程で少しずつ天の北極が指している方向はズレていく。数千年単位ではあるものの、北極星の座にある星は変わっていくんだ。その本が書かれた文明末期、つまり西暦二千年代では、たぶんこぐま座α星=ポラリスじゃないかな」
 ポラリス。極点(ポーラ)の名を冠しています。しかし、魔女の言葉によれば、いまはそれは北極星と呼ばれてはいません。
「そしていま、その座で輝いているのは、はくちょう座α星=デネブだ」
 窓からからだを乗り出して、魔女がその細い指を向けたひときわまばゆい星。北極星。いまわたしたちの見ている北極星と、この古い本に出てくる《変わらぬもの》として誓いを立てた北極星は異なる星ということ。
 あの儚い少女ふたりの想いはどうなってしまうのでしょうか。わたしは胸がきゅっと痛むのを感じました。そんなわたしを、魔女は横目で見ていました。
「北極星、旅において目指すべきもの。一見たしかなものであるそれが、長い時を経て移ろってしまうというのは、とても示唆的なことだね」
「どういうことです?」
「君の《汎用人形(パンドール)》としての存在意義も、いつか移ろうときが来るかも知れないということさ」
 魔女の言葉にわたしは首を傾げました。
 わたしの北極星、目指すべきものは、存在意義の達成です。それはヒトに奉仕をするということ。そのためにわたしは造られ、そのためにわたしは消耗され、それをしてわたしは仮初の生をまっとうするのです。しかし、わたしが目覚めたときには、この惑星にもうヒトは残っていませんでした。拾ってくれた魔女とこうして旅をしていますが、存在意義の達成という目標はこの数百年、ずっと変わったことはありません。迷うことも諦めることもできないもの。これからも、わたしが《汎用人形(パンドール)》である限り。
 しかし、魔女はそれが移ろうかもしれないと言うのです。
「もしかして、ヒトが見つかると、わたしが出ていってしまうから嫌なんですか」
「そうだね。私はパンドーラがいなければ生活ができないから、困ってしまうな」
 茶化したつもりだったのですが、魔女はいたって真面目な表情でそんなことを言います。まったく、もう。わたしは仕返しのつもりでこんなことを言ってみました。
「そうしたら、別の《汎用人形(パンドール)》を創ればいいじゃないですか」
 終焉兵器《屑鉄の魔女》、そのちからはあらゆる金属を掌握するものです。金属を素粒子レベルにまで分解し、自分の思うままに再構成するちから。それを自在に行使する魔女は、金属に溢れた人類文明のすべてを利用し、そのすべてを滅ぼしたのでした。ですから、《汎用人形(パンドール)》をひとつふたつ拵えるのは、彼女にとって朝飯前のはずなのです。
 が、魔女は寂しそうな笑みを浮かべるのでした。
「おや、私は『パンドーラがいなければ生活ができない』と言ったつもりなんだがね」
 ずるいです。

 ※

「あー!」
 今宵もいつものようにからだを重ねたのですが、口づけをして舌を絡めたときに、魔女はそんな大声をあげたのでした。わたしはびっくりしてしまいました。魔女が行為の最中に大声を出すのは決して珍しいことではありませんが、たかがこれくらいの前戯でリアクションをされても困ってしまいます。
「なんですか、雰囲気ぶち壊しじゃないですか」
「ウィスキー! お前が飲んだのか!」
 どうやらわたしの口腔内の薫りから感づいたようでした。しまった。これは失敗でした。空き瓶は反物質砲で処理をしたので、バレないと思っていたのです。ほんとうに迂闊でした。魔女はぷんすこ怒り、頬を膨らませています。
「ちょっと。聞いているのか! むぐっ」
 うるさい口には、蓋をしなければなりませんね。
「ぷは」
「ウィスキー、まだここに残っているかもしれませんよ。ほら」
 と舌を重ねると、なにやら言いたげな魔女でしたが、すぐにわたしにからだを預けたのでした。ウィスキーを勝手に飲んでしまったせめてもの罪滅ぼしとして、かなり気合いを入れて魔女を愉しませてあげたところ、いつもより早く魔女はむにゃむにゃと眠りについてしまいました。
「マスターはいつもわたしより早く眠ってしまいますね」
 それが嬉しくもあり、寂しくもあるのです。
 がしょんがしょんと、魔女の隠れ家は北を目指しています。ふぁ、と小さな欠伸をしたわたしは、再び夜空を見上げました。魔女の指さした北極星。人々の旅の目印であったそれは数千年の時を経て移ろい、そしてあの星も数千年のあとには北極星と呼ばれなくなってしまう。この世のすべては移ろっていく。それは旧時代の人類でも気がついていた真実なのですが、いつかこの魔女との生活も終わりを迎えるときが来るのでしょうか。
「やっぱり今夜は少しセンチメンタルになっていますね」
 自嘲気味にそう呟くと、わたしの目は変わり映えのない砂漠の光景の中に、ひとつの建造物を確認しました。あれこそが崩壊図書館で避難をしていた人々が目指した構造物《アリデッド》にちがいありません。データベースで検索してみると、その名称は、アラビア語で《続く者》を意味する単語のようでした。まるで翼を広げた白鳥のようなその構造物は、地平線の際で月光に照らされて不思議な存在感を放っていました。

 ※

「ちょっと、マスター。だらだらしてないで、掃除くらいしてください」
「ウィスキーがあれば出来たんだけどなあ」
「せめて脱いだ服は洗濯かごに入れておいてくださいよ!」
「ウィスキーさえあればなあ」
 そんないつものようなやり取りを繰り返し、数日の後、わたしたちは遺跡に到着しました。

 ※

「それでは行ってきます」
「気をつけて。ヒトが見つかるといいね」
 ソファにゆったりと腰掛けて、隠れ家の中から魔女が手を振っていました。
 魔女はいつも遺跡の探索についてきてはくれませんが、それは魔女が怠惰だからではありません。魔女はこの隠れ家から一歩たりとも外に出ることができないのです。それは終焉兵器に対する人類の、最後のちからを振り絞った絶対的な封印。もっとも屑鉄の魔女はその能力で、隠れ家に脚を生やしてがしょんがしょんと封印されたまま動けるようにしてしまったのですが。
 遺跡の入り口まで歩いていったわたしは、あることに気がついて隠れ家まで戻りました。
「聞き忘れていました。晩ごはんは何が食べたいですか」
「う~ん。迷うなあ。じゃあ、パンドーラ特製カレーでお願いするよ」
「わたしもちょうどカレーが食べたいと思っていました。では、夕食時に戻ってきます」
「わたしのことなんて気にせず、存分に探索してくるがいいよ」
 とはいうものの、午後六時を過ぎれば『パンドーラ~、早く帰ってきておくれよ~、ひもじいよぉ~、いまにも飢え死にをしてしまいそうだよぉ~』という情けない広域通信がかかるのを知っています。わたしは再び遺跡に向かいながら、脳内の計算組織をフル稼働させて、探索の計画を練ります。
「カレーの仕込みの時間も考えて、と」

 ※

「どうだい、ヒトは見つかったのかな」
「いいえ。残念ながら」
 カレーをぺろりと平らげた魔女は、わたしが持ち帰ったデータを眺めながら、何度も頷いていました。
「なるほどなるほど。ずいぶんと面白い構造物のようだね」
「そうなんですよ。遺跡自体がナノマシンの集合体で出来ているらしく、ナノマシンの自己進化・自己再生・自己複製の果てに、もうとんでもないことになっていました。マスターの部屋よりぐちゃぐちゃです。物理的・電磁的・魔術的なジャミングも多くて、一度迷ってしまうと抜け出せないでしょうね」
「いつか迷宮都市《ラビリン》で君がやったように、X線で構造解析して、目的地に向かってまっすぐ迷路の壁を破壊しながら進めばいいじゃないか」
「試したんですが、すぐにナノマシンで修復されてしまいました」
「それはそれは」
 魔女は、まるで宝物を見つけたこどものような笑みを見せました。きっとわたしと同じ結論に至ったのでしょう。過剰なまでナノマシンの対応力。終末戦争からいままで、あらゆる外的な影響に対して最適な進化を繰り返してきたのでしょう。終末期の余裕のなかった人類が、わざわざこんなものを造るということは。
「よっぽどたいせつなものを隠しているのだろうね。もしかしたら、崩壊図書館から避難したひとたちの子孫が生き残っているかもしれない。よかったじゃないか、パンドーラ。君の北極星がここで見つかるといいね」
 わたしは《汎用人形(パンドール)》。人類に奉仕するために造られた人形。わたしの旅の目的は、この滅びた惑星で生き残っている人類を探すため。もし、この構造物《アリデッド》のなかにヒトがいるならば、わたしの旅はここで終わりということになります。

 ※

「どうだい、ヒトは見つかったのかな」
「いいえ。残念ながら」
 そんなやり取りを毎日のように繰り返しながら、わたしは少しずつ探索の腕を伸ばしていきました。しかし迷路は複雑で、わたしの行く手は何度も阻まれました。昨日そこに通路があった部分に壁が出来ていたり、行き止まりだったはずの道がいつしかどこかに繋がっていたり、そんな不可解なことが起こっていたのです。
「このマップを見てください。内部構造が変化していることがわかります」
 魔女はふむふむとうなずきました。
「しかし、そこに何らかの意図は感じられません。というより、本気でわたしの探索を止めたいのだったら、もっと効果的な変化が想定されます。ですから、あの構造物の主のような存在が意志を持って迷路を変化させているわけではなく、なんらかの法則に従って自動的に変化していることがわかります」
 魔女も同じ結論に至っているのは、表情を見ればわかりました。
「すでに一定の周期は見つけていますが、乱数生成のパターンまで読めていません。もう少し時間をかければ特定できるのですが、そのためには連続した観察が必要です」
「つまり、しばらく家をあけるというわけだね」
「はい」
 しばらくの沈黙ののち。
「いいよ。ただし、しっかりと料理は用意しておいてくれたまえ」
 魔女の家事能力など少しも信用していないので、最初からそのつもりでした。乱数生成のパターンは一週間ほどかければ解析できるでしょうか。魔女が飽きないようバリエーション豊かに、からだを壊さないように栄養バランスにも気をつけて、たっぷりの料理を冷蔵庫にしまい込みました。『チンして食べてね!』というメモ書きも忘れずに。
「パンドーラ、チンってなんだろう。卑猥な言葉だろうか」
 そんなことを真顔で聞いてくるので、もっと詳細なメモ書きに替えたりなどして。
 かくして数日がかりの探索について魔女は了承してくれたのですが、どうにも不機嫌なようすでした。わたしの目的達成を願っていても、やっぱり寂しいのかもしれません。そう思ったわたしはいつもよりもねっとりと夜の相手をしてあげました。あんなことや、こんなことも。魔女が口では嫌がっていても、ほんとはして欲しいことなども、わたしはしっかりしてあげました。
「マスター、これで寂しくありませんか」
「……うん」
 ちょろい。
 一糸まとわぬすがたでだらしなく横たわる魔女が、こちらを睨みます。
「パンドーラ、もしかしていま、ちょろいって思っていないか」
「まだ足りないって言うんですか。仕方ないですね」
「ちょ、ちょっと待って! まだ敏感だから!」

 ※

「どうだい、ヒトは見つかったのかな」
「いいえ。残念ながら。しかし、面白いものは見つかりましたよ」
 その施設が抱えるモノにはたどり着かないまでも、副産物は多く残されていました。ナノマシンによる堅牢かつ柔軟な防御システムのおかげで保存状態もよく、当時の人々が持ち込んだものがそのままの状態で残されていたのです。持ち帰ったそれらを、魔女は興味深そうにひとつひとつ眺めていました。
「面白い。極限状態であっても、ヒトは《物語》を棄てなかったんだね」
 終焉兵器たる魔女は、愛おしそうにその薄い本を手に取りました。たしかにここに限らず、遺跡には数々の本が残されていました。実用書が多くあるのは理解できるのですが、小説や漫画もそれ以上に残されていました。終末期の人類が何を考えていたのかはわかりませんが、どうやら人類という種が生きていくうえで《物語》というものはどうしても必要だったのでしょう。
「おや、これは」
 魔女はその薄い本のページを捲り、眼を見張りました。
「マスター?」
「懐かしいね、まだ遺っていたんだ。これは《仮想の文学に恋をした者たち》の創造した物語さ。書く歓びに取り憑かれた者たちの爪痕ともいう。今夜はこれを読みながら、あの終末期の夏に思いを馳せるとしよう」
 魔女がそれを読んでいるあいだ、わたしは読みかけだったあの本を開いていました。学校の旧図書館でこころを交わし、そして引き裂かれてしまったしまったふたりの少女。その儚くも切ない物語。北極星に誓った祈り。物語はふたりの再会を示唆して幕を閉じました。不意に魔女の言葉が思い出されます。
『君の《汎用人形(パンドール)》としての存在意義も、いつか移ろうときが来るかも知れないということさ』
 わたしは本を閉じ、隠れ家の窓から夜空を見上げました。そこには魔女に教えてもらった北極星が瞬いています。少女たちが誓ったこぐま座ではなく、あれははくちょう座。わたしの旅路は北極星を追いかけるようなものでしたが、いつか移ろうときが来るのでしょうか。
「マスター、ちょっとこっちに来ていただけませんか」
 けれども、魔女はその本に夢中で、わたしの呼びかけに気づいたようすもありません。
 わたしは小さくため息をついて、ひとりでベッドの中に潜り込みました。

 ※

 そして幾千回かの探索を経て、わたしの視覚は信じられないものを捉えていました。
 《テセウスの棺》。それは文明末期に開発された一種の生命維持装置で、エネルギーの供給さえ途絶えなければ、半永久的にからだの組織を交換し続けるといった代物です。この装置自体は珍しいものではなく、遺跡で多く見かけていました。それほどまでに人類は、抗いようのない破滅の荒波をやり過ごそうとしていたのでしょう。しかし、終末を経てもなお稼働し続けているものを見るのは、はじめてのことでした。
「そこに……、いるのですか」
 わたしは一歩、また一歩と、その棺に近づいていきます。《汎用人形(パンドール)》、パンドーラ。人類に仕えるために造られたにもかかわらず、目覚めたときには人類は滅んでいたという哀れなお人形。このなにもない惑星を彷徨うその唯一の理由は、仕えるべき人類に出逢うため。昨夜の魔女の言葉を借りるのであれば、それこそがわたしの北極星であり、この数百年追い求め続けてきたものなのでした。
「わたしは、」
 ふいに胸の中に秘められたコアが疼くような感覚に襲われました。ようやく悲願が叶う。アイデンティティは満たされ、わたしは造られた歓びを知る。……はずなのでしたが、もやもやとしたものがこころのなかに渦巻いていたのです。もし。もしこの棺の中に、人類の生き残りが生存していたとなれば、わたしは造られた理由に従い、彼か彼女に従うことになるでしょう。
 でも、それでは、あのひとは。
 ひとりでカップラーメンすら作れない終焉兵器は、どうなってしまうのでしょう。一晩で世界を滅ぼし尽くすことができるわりには、トイレットペーパーがないからと大騒ぎしてわたしを呼びつけるようなあの魔女は。いつも飄々と煙に巻くような振る舞いをするわりに、ベッドの中では可愛い声で鳴くあの少女は。
 大願の成就を前に、なんでこんなことを考えてしまうのでしょうか。
 彼女は人間ではありません。人間によって造られたものかどうかもわかりませんが、いずれにせよ人類を滅ぼしたという意味では、わたしの対岸にいる存在のはずです。終焉兵器は人類ではありませんから、一緒にいても《汎用人形(パンドール)》としての存在意義は満たされません。いまはたまたま魔女の無限の暇を潰すために共同生活をしているだけに過ぎないのです。
『やぁ。まだ動いている人形がいるとはね。私の話し相手になってくれないか』
 この滅びた惑星をひとりぼっちで彷徨い歩くわたしを、魔女はそういって拾い上げてくれたのでした。数百年も前のこと。でも、昨日のように思い出せること。それからいろいろなことがありましたが、そのどれもが記憶領域から消すことの出来ないたいせつな思い出です。そして、これからも。
「わたしは、《汎用人形(パンドール)》。人類に仕えるために造られた人形」
 《テセウスの棺》に触れると、冷たい感触が返ってきました。ごうごうと中で何かが駆動している振動が伝わってきます。この厚い棺の向こうを想像しながら、わたしは声をかけました。
「でも、わたしにはまだこころの準備ができていないのです」
 また、逢う日まで。

 ※

「どうだい、ヒトは見つかったのかな」
「いいえ。残念ながら」
 稼働している《テセウスの棺》は見つけましたが、この眼で人類は見てはいません。屁理屈ではありますが、わたしは敢えてそう答えました。魔女はわたしの眼をじっと見たあと、『残念だったね』と笑いました。わたしは『ええ、ほんとうに』と答え、久しぶりのパンドーラ特製カレーを作り始めました。
 わたしの北極星は移ろってしまったのでしょうか。いまでも、なぜ《テセウスの棺》の前であのような行動を取ってしまったのか、自分で理解ができていないのです。《汎用人形(パンドール)》としての存在意義をまっとうしたいという欲求はまだあるはずなのですが、わたしはあの棺を開くことを拒みました。
「おおい、パンドーラ。ちょっと来ておくれ」
「はいはい、なんですか。マスター」
「悲しくもないのに涙が止まらないのだが~」
「それくらい自分でなんとかしてくださいよ、魔女なのでしょう」
 わたしはため息をついて、玉ねぎを切る手を止めました。ティッシュを取り出して涙を拭いてあげようとしたのですが、なんだか無性に腹が立って、その鼻の中に刻んだ玉ねぎを詰め込みました。『ぎゃっ!』と間抜けな声を出した魔女はソファの上でのたうち回っています。
「ふふっ」
「あっ。嘲笑ったね、パンドーラ!」
「いえ、あなたといると飽きないなと思ったのですよ、マスター」
 わたしはただ、魔女とのこの旅を終わらせたくなかったのです。
 いつか、老いた太陽がこの惑星を呑み込むその黄昏まで。

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