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『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!!~犬獣人と八文字の伝言(出題編)』

クロックワイズ・メカニクス小説総集編第ニ巻収録(第三話)
◯ほのぼの獣人スチームパンク短編連作。時計工房で働く犬獣人の少年クストと、技師である羊獣人の少女ウル、そのふたりを巡る物語です。

◯もくじはこちら。

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 ぼくはウルに何をしてあげられるだろう。
 わたしはクストに何をしてあげられるだろう。

 『犬獣人(ファミリシア)と八文字の伝言(出題編)』

 クロックワイズ・メカニクスの朝は早い――、のだけど、ぼくはベッドから起き上がれずにいた。昨日から身体が重く、喉が痛くて、頭がズキズキする。
 やぁ、ぼくの名前は、クスト=ウェナクィテス。犬獣人(ファミリシア)。ここクロックワイズ・メカニクスの経理雑用その他担当だ。
 少し経緯を話させて欲しい。ここ最近のぼくは、街じゅうを駆け回って時計の修理の依頼を取り付けたり、ザン=ダカ商会に補助金の陳情に行ったり、東奔西走をする毎日だった。夕方に帰ってきたら夕食を作ったり、家事に追われ、夜はずっとそろばんを弾いている。
「クスト、そんなに無理してると倒れちゃうよ?」
 そう言ってくれたのは、技師の羊獣人(オビスアリエス)のウルウル=ドリィメリィ特等工女だった。ケムリュエの田舎を飛び出してきた変わり者の羊少女は、この工房唯一の歯車技師。最近はずっとある犬獣人(ファミリシア)の老婆の懐中時計の修理に取り組んでいるが、ぼくがふらふらしているのを見るに見かねて、心配して声をかけてくれたというわけだ。
「ありがとう、ウル。でも、もう少し頑張らないとね。お爺ちゃんの遺したクロックワイズ・メカニクスを潰すわけにはいかないから」
「んー、でも。ねえ、クスト、熱もあるんじゃない?」
 おでこをぴとっとくっつけられて、どぎまぎする。そのせいで少し熱が上がってしまったかもしれない。
「ふむー、けっこう熱いよ?」とウルが呟いた。
「でも、夕食作らないと」
「なら、今晩はわたしが料理を作ってあげるよ!」
 かなりの名案だったらしく、すごいドヤ顔でこちらを向いていた。
「遠慮しないしない! ちょうど修繕もキリがついたところだしさ!」
 とマイクロモノクルレンズを付けた眼でウィンクをするウルだったが、ぼくが心配していたのはそこではなかった。どうやら羊獣人(オビスアリエス)の群れでは特等皇女と呼ばれていた彼女、ほとんど家事のたぐいはからっきしだった。時計職人としての才能はピカイチだったが、それ以外はダメダメ。それはもうこの何年にも及ぶ共同生活の中で嫌というほどわかっている事実だった。
「さーって、腕によりをかけて作っちゃうぞぉ!」
 うきうきと袖を捲りながらキッチンに入っていったウルを止めることはできず、ぼくは椅子に腰掛けた。たしかに熱っぽくてふらふらする。いままでは自覚がなかったしやることがたくさんあったから走れたけど、いざ立ち止まって自覚してしまうと、それがずんとのしかかってくる。
「くしゅん」
 くしゃみをすると、全身に寒気が走った。
「さてと……」
 時代は、蒸気機関から魔法機関(テウルギア)による産業の時代へと移り変わろうとしていた。この蒸気と歯車の街、アンティキティラもその方向へ舵を切ろうとしている。そんな中で、ウルという才能をどこまで守ってあげることができるか。
「……あーぁ」
 といえばかっこいいものの、結局、革命的なアイディアがあるわけではない。ザン=ダカ商会のヴァン会長に論破されたのを思い出して、胃が締め付けられる。《魔法と歯車の完全調和(マギアヘーベン)》、夢の技術。そんなものはただの夢だ、幻だ。私は街を守るものとして、現実と向き合わねばならない。古い工房一つに構っていられるほど、暇ではないのだよ。
 ぐうの音も出なかった。
 かつてこのアンティキティラを歯車の街として盛り上げるためにクロックワイズに過剰な投資をした男とは思えないが、この時代の潮目を見極めることに関しては超一流だ。古い職人の時代は、ほんとうに終わってしまうのかもしれない。
「お爺ちゃんに顔向けできないなあ」
 久しぶりに弱音を吐いてみると、ずんとこころの奥が重たくなる。そんなことを知ってから知らずか、何年かぶりにキッチンに立っているウルの鼻歌が聞こえる。ときおり『あれ?』とか『味が、消えた……?』とか聞こえるけど、きっと気のせいだろう。
「でっきあっがりー!」
 と持ってこられたのは、グツグツしている黒い液体。
「これは……」
「ふふふ?、見ての通りだよ!」
 なんだよ。
 とりあえずシチューなのだろうと自分に言い聞かせることにした。
 ウルがいつになくきらきらした眼でぼくを見ている。
「味はいつもクストが淹れてくれるコーヒーをベースに、」
「え、コーヒーって言った? 聞き間違いかな」
「淹れ方わかんないから適当に豆入れたんだけどね。あと、レプトン草にクォーク草、あとはフォノン属の薬草を少々と――」
 それは救急箱に入っている薬草だよね……。ああ、そうか。ぼくが体調悪そうだから、そういうのをぶち込んでみたということだね。オッケー、ウル。貼るタイプの薬草の名称が混じっていたんだけど。
 思い切ってスプーンで掬って口に運ぶと、そのあまりの苦味と甘味と酸味と辛味の総進撃に、ぼくはばたんきゅーしてしまった。疲労困憊なぼくに見事にトドメを刺したウルが、涙目で駆け寄ってくるのがわかった。

 ※

 クロックワイズ・メカニクスの朝は早い――、のだけど、ぼくはベッドから起き上がれずにいた。昨日から身体が重く、喉が痛くて、頭がズキズキする。
 というわけで、こんなことになっているのである。
 今日やるはずだった仕事は流石に後回しにして、起き上がれるようになるまでは体力回復に努めようと、毛布をかぶった。ザン=ダカ商会から依頼された資料の作成と、想定問答。それにチラシも作って、広く営業をかけていかないといけない。それと、それと……。いま来ている懐中時計の修繕依頼だって終わってしまえば、ウルをまた暇にさせてしまうことになる。
 ウル。
 彼女がダメダメなせいでこんなメにあっているのだけど、不思議と怒る気にはならなかった。逆に『ウルらしいや』と笑えてくるほどだった。でも、さすがにもう少しは料理を勉強させてあげないとなとは思う。いざというときに困ってしまうだろうから。そう例えば、滅多にないことだけど、ぼくが病気で倒れてしまったときとか――。
「いまじゃん!」
 ベッドから飛び起きたぼくは、すぐに目眩がしてぼくはベッドに倒れ込んでしまう。落ち着け。落ち着いて考えろ。ぼくはいまなにも出来ない。洗濯や掃除はともかく、ウルにとって食事はとても大事なことだ。過集中によって糖分を過剰に消費する彼女のコンディションを整えるためにも、誰かヘルプを呼ばなければならない。ウルがあまりの空腹に、自分で料理をしてしまわないうちに。
 ぼくはマナを意識し、手のひらに光の粒子を集めた。《絡み合う双子座のマナ》と呼ばれる魔法。犬獣人(ファミリシア)にも扱えるレベルの魔法だ。指定されたマナ同士を共鳴させて、離れた距離でも通信が可能となる魔法。
「これで誰か知り合いに掛け合って、助けに来てもらうしかない!」

 ※

 最初に助けを求めたのは、猫獣人(フェリシアス)のガブリエッラ=クァンテリア=フェレスリュンクス。狼獣人(カニスループス)のローラン=ロムスレムスが発端の《不思議な時計事件》で知り合った彼女は、傭兵である彼のために、魔法と歯車を組み合わせた独自の技術体系を発展させていた。
 彼女ならば、貴族フェレスリュンクス家のメイドをヘルプでよこしてくれるんじゃないかと思ったんだけど。
『あら、お久しぶりです。そちらから連絡をいただけるなんて、《隠し子事件》以来ですわね。その節はまたしてもローランがご迷惑を。いかがお過ごしですか?』
「あのですね、ひとつ頼みたいことがありまして」
『なんでしょう。ああ、そうそう。頼み事と言えば、最近の馬鹿狼(ローラン)はそればっかりで。わたしは他のいろいろな手続きで忙しいと言うのに、アレを作ってくれコレをやってくれと甘えてきてばかりでですね?、まぁ、それがあの人の百ある可愛いところのひとつでもあるんですが』
 というのろけ話が三十分続き、疲弊したぼくは『あ、油料理をしているんでした。危ない危ないまた今度!』と言って通信を切ったのだった。

 ※

 次に助けを求めたのは、狐獣人(ヴェルペ)、ノイン=シュヴァンツ=マクローリン。彼はマクローリン伯爵の御曹司であり、ウル逢いたさに階差機関(ディファレンシャル・エンジン)を壊しては修理依頼をかけてくる困ったちゃんだ(お金はちゃんと落としてくれるからいいのだけど)。
『貿易都市ストラベーンでは、この時期、大きなイベントが行われていて、多くの人が《ウス異本》というものを求めているみたいだ。ボクもそれに参加してみようと思ってね、おみやげは買ってくるよ。もちろん、ウルにね』
「なんなんだそのイベント……」
 ノインが(ウルではなくぼくのために)来てくれないのはわかっていた。『ウルとふたりきりになれるぞ』とでも言えば、ホイホイやって来るのだろうが、彼が来たところで家事には何の足しにもならない。
 狙いは、マクローリン家のメイド。狐獣人(ヴェルペ)、クゥ=ノァイン=マクローリンだった。おっちょこちょいではあるみたいだけど、あのマクローリン家でメイドをしているくらいだから、最低限の料理くらいはできるだろう。
「クゥさんはアンティキティラにいるかな」
 とそこまで言ったところで、部屋の扉がばーんと開き、入ってきたウルに口を塞がれた。ムスッとしている。ウルの頭から生えている小さな角の先端がマナの輝きを宿し、ぼくの《絡み合う双子座のマナ》を打ち消した。
「あの人は呼ばないで」
「どうして」
「どうしても!」
 ウルと彼女が知り合ったのは最近のことだ。《幽霊騒動》ののち、彼女はお詫びとしてクロックワイズ・メカニクスで雑用がしたいと申し出てきた。ぼくはちょうど補助金の申請などで忙しかったからアルバイトを頼んだけれど、留守のあいだにウルとクゥさんのあいだで何かあったのだろうか。
「あの人のおっちょこちょいでどれだけの器具が壊れたと思ってるの!」
「そのあと余るほどの弁償金が来たから、いいじゃん」
「もう。そういうことじゃなくて!」
 ウルはぷりぷり怒っている。

 ※

「で、家事をやってくれる人を探していたと」
「ウルひとりじゃなんにもできないだろー?」
 熱に浮かされてついつい本音が出てしまったぼくに、ウルは頬を膨らませた。が、この体調の悪さにトドメを刺したのが自分の料理だったということを思い出したのか、ずーんと肩を落としていた。
 さて、ここまで全滅となると、あとは。
「クスト、仲のいい牛乳屋さんは?」
「ジョバンニさん? 難しいと思うよ」
 牛乳屋さんの猫獣人(フェリシアス)、ジョバンニ=ミケ=ガラクト。彼は日々とても忙しそうにしており、とても頼み事ができそうにない。
「ほかにはー?」
「う?ん」
 結局、祖父のソフ=ウェナクィテスの関係で街のひとたちには知られているけれど、ぼくたちがいざ助けを求められるひとたちとなると、これでもうほぼ全員だ。翼獣人(アシプテリス)のトリィ記者は取材で忙しそうだったし、兎獣人(クニクルシア)のレイシィとはあれ以来連絡が取れずにいた。
 回らない頭で考えていると、ウルが口を開いた。
「クスト、いま、ひとりだけ思いついたんだけど」
「ああ、偶然だね。ぼくもひとり思いついたけど」
 ぼくの頭のなかでは、例の狼傭兵、狼獣人(ばかおおかみ)、ローラン=ロムルスレムスがグッと親指を立ててキメていた。しかし、彼は迷惑ごとしか持ってこない(本人に悪意がないのがまた厄介で憎めないところだ)。
「やめておこう」
「やめておこう」
 そういうことになった。

 ※

 クロックワイズ・メカニクスの夜は早い。
 わたし、ウルウル=ドリィメリィ特等工女は、羊獣人(オビスアリエス)の特性も相まって、すぐに眠たくなってしまう。朝もぐだぐだと起きるのが遅く、クストがいつも朝食の準備をしてくれる。
「頼ってばかりだなぁ、わたしは」
 犬獣人(ファミリシア)の老婆から依頼された、懐中時計の修理依頼。日付が変わっても眠れないわたしは、《輝き灯す牡牛座のマナ》で灯りを作り、作業を続けていた。
 久しぶりの、普通の案件。ここ数ヶ月はとてもとてもユニークな事案が多くてたいへんだった。魔法と科学を絡めたガブリエッラの懐中時計に始まり、エルエルがやってきたり、幽霊騒動に巻き込まれたり、変なメイドが押しかけてきたりと激動の日々だった。
 しかし、今回クストが取ってきた修理依頼は、普通の時計の修理。特に複雑なことを考えなくても、勝手に次の作業を考えてくれる。ソフ師匠の特訓の賜物だ。わたしはその《直感》に従って、ただただ精確に手を進めていくだけ。
「……クスト」
 わたしは時計を直すことが出来る。複雑な階差機関(ディファレンシャル・エンジン)も修復することが出来る。まだ時間はかかるが、《魔法と歯車の完全調和(マギアヘーベン)》の技術だって手にしてみせる。そうすれば羊獣人(オビスアリエス)の群れを支配している《星配置(ゾディアック)信仰》の誤りを正すことが出来るんだ。
 でも、わたしはクストになにひとつしてあげられない……。
 クストは、わたしが特等工女でいられるためのすべてをしてくれている。わたしが特等工女でいさえすればいい、ほかのすべてをしてくれる。最初は、彼のほうが職人になるはずだったのに、それを諦めてまで。
 わたしは、クストに何をしてあげられるだろう。
 きっと直接聞いたら、『ウルはそんなことを考えなくてもいい』『特等工女としてなすべきことをしていさえしていれば、あとはぼくがやるから』と、はにゃりと笑い、すべてを背負うのだろう。そして、いまみたいに倒れてしまうのだ。
 情けなさで泣きそうになってくる。
 考えはまとまらず、チクタクと秒針ばかりが進んでいく。

 ※

 クロックワイズ・メカニクスの夜は昏い。
 ぼく、クスト=ウェナクィテスは熱に浮かされていた。無慈悲に進んでいく時計の秒針ばかりが気を焦られて、何度も寝返りを打つ。額のタオルはもう生暖かくなってしまっていた。
 いっそ眠れればいいのに、なまじ頭が浮ついたままであるから、余計なことを考えてしまう。ちくたく、ちくたく。時というものは、時計回り(クロックワイズ)にしか動かない。祖父の口癖だった。
『クロックワイズ・メカニクスというのはここですか!?』
 それは、忘れもしないあの日。都市部ではめったに見られない羊獣人(オビスアリエス)の少女が、クロックワイズ・メカニクスの門を叩いたときだった。
 そのころのぼくは、祖父のあとを継ぐ気まんまんで、店の手伝いをしながら技師として必要な知識を学んでいた。この蒸気と歯車の街、アンティキティラを一躍有名にした伝説的な歯車職人、ソフ=ウェナクィテス。その孫として。
 そして、あの父親の子として。
 そんな折に、羊獣人(オビスアリエス)の彼女がやってきた。なんでもケムリュエに行商に来た者からクロックワイズ製の時計を見せられて、その精緻さに魅せられて、弟子入りするため飛び出してきたらしい。
 この羊獣人(オビスアリエス)の行動力には感服するものの、祖父は弟子を取らないことで有名な職人だった。わざわざ来たのに残念だったね、と口には出さないまでも思っていた。
 祖父の課した入門試験は、時計の構造の知識を問うものではなく(もちろんケムリュエ出身の者にそれを聞くのは酷ってものだ)、複雑なパズルだった。あれはぼくも見たことがあるし、解こうとしたこともある。しかし、直感的に解くことはできず、何日も何日も紙に書き出してまで計算をしたのに、諦めてしまったものだ。
 黄金の櫃に封印された、パズルのピース。
 ぼくと同年代くらいに見える羊角の少女は、それを作業机の上に並べ、じっと眼を凝らしていた。息を呑んだ。その過集中の深さは、つばを飲み込む音すらも邪魔になりそうなくらい、ピンと空気が張り詰めていた。
 少女の手が伸びる。
 ひとつ、ひとつと、複雑なピースを手に取り、嵌めていく。その手順に迷いはない。すでに完成形が見えているかのように、淡々と作業を続けていく。
 嘘だろ……。
 どんな頭の構造していれば、そんなことができるんだよ。のちにぼくは知ることになるが、それはウルの《星読みの巫女》としてのちからが関係していた。空間把握能力と多体問題への理解。複雑な規則性に支配された星々の運行に比べれば、このパズルの解読など簡単だったのかもしれない。
 幼いぼくは化物を見るような眼で、その少女を見つめていた。しかし少女はぼくの視線に気づくことなく、深い集中の煌めきの中で淡々と手を動かしていた。
「本当ですか!?」
「ああ、君ならば弟子入りを認めよう」
 その言葉を聞いた瞬間、ぼくは絶望で真っ青になった。
「ウルウル=ドリィメリィと言います。よろしくお願いします!」
 華が咲いたような笑みを浮かべる羊獣人(オビスアリエス)だった。

 ※

「おい、起きろ! なんでそんなに寝てられるんだよ!」
「ふわああ、まだねみゅい」
「コーヒー淹れるから待ってろ!」

 ※

「なんでもう寝るんだよ、お爺ちゃんから課題出てるだろ」
「終わったし。ふわあああぁああ」
「もう!?」

 ※

「なんでそんなに集中できるんだよ、もう何日徹夜してると思ってんだ」
「うるさい。黙って」

 ※

 よくわからないやつだった。お昼すぎまで寝ているようなぐーたら生活のくせして、一度スイッチが入れば別人のように集中して作業を続ける。その発想は独創的で、良くも悪くも基礎ばかりをしっかり勉強したぼくには思いつかないものばかりだった。
 そんな日々を繰り返すうちに、ぼくは彼女から眼を離せなくなっていた。お互いに歯車技術を切磋琢磨しながら成長し合う、まるで兄妹のような関係性になっていた。
「ウル、コーヒー淹れておいたから」
「ありがと?、ふぁあ」
「16進法(ヘキサデシマル)の処理についてわからないところがあるから、後で教えろよな」
「お安いごよーだよ!」
 ウルに対して抱いていた想いの正体に気がつくまでに時間はかかったけれど、そのころにはもう祖父は技師として働くことはできなくなっていて、ぼくたちふたりが工房を支え始めるようになっていた。いままで以上に慌ただしい日々が続き、けれどそれもウルと一緒なら乗り越えることが出来た。
 周辺都市国家を席巻する魔法機関(テウルギア)革命など、昔ながらの歯車工房であるクロックワイズ・メカニクスにとっては前途多難なことばかりだけど、それでも頑張っていこうと思えた。ウルが技師として目の前のことに集中できるように、その他のことをすべてやるのがぼくの仕事だ。
 あのとき、夢を諦めたぼくはそう誓ったんだ。

 ※

「……クスト、起きてる?」
 熱にうなされていると、控えめなノックとともにウルの声が聴こえた。返事をしたかったが喉は渇ききっていて、頭も重い。こころはまだ半分夢から醒めておらず、金縛りにあったように身体を動かすことができなかった。寝間着の下は汗でびっしょり。ウルに臭いって言われないかな……。
「すごい汗、苦しそう」
 タオルを絞る水の音がした。その後、額に冷たいものが置かれる。ウルの小さな手のひらが、自分の頬を撫でるのがわかった。
「ごめんね、クスト」
 まるで罪の告白でもするかのように、ウルは小さく呟いた。まぶたを開けるちからはないが、そう言うウルの表情は脳裏にありありと想像できた。きっと蒼き月光に照らされて、綺麗だろう。
「ごめんね、わたしはいろいろなことが出来なくて」
 そんなことはないよ。 
 ウルが基本的に家事がからっきしなのはわかってる(もともと羊獣人(オビスアリエス)の特等皇女だったのも原因の一つだろうけど)。君は洗い物をすればお皿を割るし、洗濯をすればぐしゃぐしゃに畳んでしまう。工房以外の掃除は適当で自室はかなり散らかってる。料理なんてもってのほかで、今回のように体調不良にトドメを刺す破壊力の持ち主だ。
 でも。
 ぼくはそのウルが好きなんだ。だからこそ、ぼくは君の職人以外の部分のすべてをサポートしようと思えたんだ。それほど純粋で、尖っている才能だからこそ、ぼくはあのときすっぱり諦めることが出来て、この道を歩こうとこころに決められたんだと思うよ。
 なんてことを言うと、君は怒るかな。
 謝らなければならないのは、ぼくのほうだ。
 ぼくがクロックワイズ・メカニクスとしてここにいる理由。それは君になにひとつ不自由をさせないでいることだ。職人として以外のことに、君の才能のリソースを使わせないことだ。
 だから、ぼくは諦めた。
 ひとりの道を諦めて、ふたりでひとつの道を選んだんだ。
「……クスト」
 ウルの泣きそうな声が聴こえる。
 ぼくはクロックワイズ・メカニクスのため、ウルのサポートならなんでも出来る。家事も洗濯も経理も雑用も。でも。でも、それが出来なくなったいま、ぼくはここにいる意味があるのだろうかと考えてしまう。
 情けなさで泣きそうになってくる。
 ぼくはウルに何をしてあげられるだろう。
「いつもほんとうにありがとう、クスト」
 熱に浮かされた感覚の中、唇に暖かな感触が灯った。

 ※

「……夢、か」
 目が醒めると、あれだけぼくを苦しめていた熱は嘘だったかのように体調がもとに戻っていた。ピチチ、と雀の鳴く音がして、ぼくは身体を起こした。シャワーでも浴びたい気分だったけど、それよりも妙に実感のあったあの夢の感触を思い出して、自分の唇に手をやった。
 ウルは家族だ。同僚だ。想いこそ自覚をしているが、そういうことは考えないようにしていたのに、気が緩んでいたらしい。誠実さが取り柄の犬獣人(ファミリシア)が聞いて呆れる、欲望丸出しの夢だった。
「ん?」
 机の上に、書き置きがあるのがわかった。ぼくが使っているノートの隅っこに、愛用の万年筆でいくつかの数字が書かれている。数列の意味するところはわからないけれど、それは明らかにウルの文字だった。
「あ、この数列って、」
 暗号だった。

 ※

 《12648430》

 ※

「……ウルらしいや」
 ぼくは苦笑した。
 たしかにウルにとってそれがないと仕事にならないが、ウル一人ではそれは準備できないものだ。ぼくにお願いをするしかない。暗号でその要求を残すことで『これを解けるくらいに回復したら、お願い』ということなのだろう。
 さてと。
 じゃあ、ウルが起き出してくる前に《12648430》の準備をしないとね。


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