180902_大阪文フリ表紙裏表紙

『幽霊少女と死にぞこないの夏』

ぽっぷこぉーん 大阪文フリ合同誌掲載
◯挫折して田舎に帰ってきた青年と、その夏に出逢ったすがたの見えない幽霊の物語。表紙の女の子をイメージした短編集という企画でした。

180902 大阪文フリ表紙

 扇風機が回っていた。
 その方向には誰もいないはずなのに、縁側に向かって扇風機が回っていた。かたわらにはジュースと、切り分けられたスイカ。じっとその様子を見つめていると、ジュースがストローを通じて減っていき、空中に浮かび上がったスイカがしゃくしゃくと音を立てて消失していった。まるで透明人間がそこにいるかのように。黒地に黄色と白の幾何学模様が描かれたリボンだけが空中に浮いていて、扇風機の風でふるふると揺れていた。
「誰かそこにいるのか……?」
 ぼくの声に返事をするかのように、リンと風鈴が音を鳴らした。
 お盆、それは死者が帰ってくる季節だ。

 『幽霊少女と死にぞこないの夏』

 その年、ぼくはうだるような暑さの夏を実家で過ごすことになっていた。ほとんど喧嘩別れのように出ていってから、何年が経ったことだろう。夢を抱いて東京へ。字面にするとあまりにも陳腐で、苦笑をしてしまうほど青臭い言葉だったが、あのときのぼくはそうするしかなかった。
 ぼくは小説家になりたかった。スポーツも勉強もできないぼくにとって、他の人とはちがう個性というのは文章を書くことしかなかったし、これがたまらなく楽しかった。ある賞の最終選考にまで残ったときには、自分の実力を確信した。
 それからは、書ききれないほどいろいろなことがあった。騙されたり、裏切られたりもした。理不尽な目にあったし、ことあるごとに謝った。バイトもクビになり、何のために実家を出てきたのかわからなくなった。なにもかもうまくいかなくなった。
 小説投稿系SNSが雨後の筍のように乱立し、そこから時代の潮流に乗った小説たちが次々と書籍化されていった。なにかひとつが流行ると、似たような小説が次々に生まれていって、蝗のように荒らしていく。ぼくにはその面白さがちっともわからなかった。暗い話ばかり書きやがってとよく言われるけれど、ぼくはぼくの書きたい小説を書きたかった。
 やがて日々の生活すらうまくいかなくなったとき、意を決して実家に助けを求めた。電話の呼び出し音が鳴っているそのあいだは、まるで小さい頃に悪いことをして、怒られるのを承知でとぼとぼ歩いたあの家路を思い出した。
「一度、帰ってこい」
 こちらの言い分を聞いた父の言葉はそれだけだった。
 荷物をまとめ、東京をあとにした。得たものと失ったもの、その数は比べるべくもなかった。帰りの新幹線で、いつかの東京へ向かうあのころのぼくとすれ違ったような気がした。あのころのぼくはどんな顔をしていただろう。いまのぼくはどんな顔をしているのだろうか。
 そういえば、東京に出たとき、ぼくは実家にある忘れ物をしたことをひどく後悔していた。
「……あれはなんだったっけ」
  思い出せずにいると、まもなく名古屋に到着するというアナウンスが流れた。

 ※

 何年かぶりに帰った実家は居心地が悪かったけれども、思っていたよりも早くここでの生活にからだが馴染んでいった。父が気を利かせて家を空けがちにしていることが、その理由のひとつだと思う。帰ってはみたものの、いまだに父とはまともな会話ができずにいた。
 さて、問題は幽霊少女。
 縁側で夏を満喫している、リボンをつけた透明人間である。ここに帰ってきてからというもの、彼女に振り回されっぱなしだった。
「あぁ、クソ! やられた!」
 その日は、ベッドの下に隠しておいた古いエロ本が、自室の勉強机の上に整理整頓されて置かれていた。ご丁寧なことにジャンルで分類までされている。そのほとんどは川辺で拾った雑誌だったが、当時、耄碌したおばあちゃんがひとりでやっている本屋さんでドキドキしながら買った小説も綺麗に並んでいた。通販で買った同人誌も。
 いま見返すと、その膨大な量に逆に感動する。当時、これらを貸し出していた同級生にこの部屋ががなんと呼ばれていたかを教えてあげよう。『アレキサンドリア』だ。
 ぼくは頭を抱えた。中学生から高校生にかけての自分の恥部にいまさら対面して、どんな顔をすればよいのだろう。父の仕業のわけがない。どう考えても、犯人はひとりだった。ぼくは自室を飛び出して、階段を駆け下りる。
「お前なァ!」
 そこにはいつものように、誰もいない方向に扇風機が回っていて、特徴的な色のリボンがふわふわと浮いていた。いたずらが成功して笑っているにちがいない。スイカがふわふわと空中に浮き、機嫌のいいリズムでしゃくしゃくと食べられていった。こっちが干渉できないのをいいことに、この幽霊少女は色々ないたずらをぼくに仕掛けてくるのだった。
 縁側で昼寝をしている野良猫が、のっそりと起き出して、その空間を見つめていた。のそのそ近づいて、なにか見えないものに撫でられているかのように頭を動かし、目を細めては喉を鳴らす。むかしから、猫には死者のすがたが見えているというが。
 幽霊。
 そんな定義が曖昧な言葉をあまり使いたくはないのだけど、彼女のことを便宜的にそう呼ぶことにしていた。幽霊少女。ぼくらは未知のものに出逢ったとき、名付けることをしなければ認識ができないからだ。
 とりあえずぼくはこのいたずら好きな幽霊少女の特性を観察することにした。
 幽霊少女のいるであろう空間に触れてみようとする。空振りだった。なるほど、幽霊のからだを透過するというのは、小説や漫画でよくある描写のイメージそのままだった。しかし、この幽霊少女は、扇風機の風を浴び、ジュースを飲み、スイカを食べている。ついでにいえば、ぼくが自分のために茹でた素麺を横取りまでするのだ。箸が勝手に宙に浮いたときは何事かと思った。
 他にも幽霊対策として、塩を持ってみたり、お経を唱えたりもした。特に苦しんでいる様子は見受けられなかったが、なにしろぼくは彼女のリボンでしか彼女を認識できないでいるため、実はめちゃくちゃ苦しんでしたのかもしれなかった。いずにせよ、翌日も変わらず縁側で夏を満喫している様子だったため、こういうオカルト的な方策は効果がなかったのだろう。
「ものを持ったりできるということは、物理的に干渉はできるんだよな……。でも、ぼくは触れられない」
 ノートにいろいろ実験結果をまとめているぼくを、幽霊少女はいつも縁側から見つめていた。
 結果、ひとつの仮説が得られた。つまり『幽霊とそれに属するものは、人間によって知覚されず、触ることもできない』というもの。
 属するものというのは、彼女が摂取しているスイカやジュースのことを言う。もし仮に彼女が透明人間だったとしたら、ものを食べたら、咀嚼・吸収・排泄に至るまで食べ物が視えてしまうだろう。しかし、そうではない。幽霊少女の口に入った時点で、幽霊側のものという処理がなされ、ぼくの知覚からは外されているのだ。もちろん、彼女が着ているであろう服も、幽霊側のものとみなされているはずだ。
 ちなみに、人間によって知覚されないのではなく、猫によってのみ知覚されるのではないかという疑問にはもう回答が出ている。幽霊少女が蚊に刺されていたからだ。幽霊の血なんて美味しいのだろうか。
『幽霊とそれに属するものは、人間によって知覚されず、触ることもできない』
「……となると」
 いまの仮説は、ぼくの目の前で起こっている事象について、かなり的確な表現ができているような気がしていた。ただひとつの例外を除いて。ぼくにまじまじと見られていることが恥ずかしいのか、小さなリボンがふるふると揺れていた。このリボンがなければ、ぼくは幽霊の存在に気づかなかった。逆に、これだけ視えている理由なんなのだろう。
 仮説が正しいとすれば、なんらかの理由で、これだけは幽霊の側に属していないということになる。

 ※

 父は不器用で無口な男だった。
 あまり叱ることもなく、褒めることもしない。けど、一度だけ、機嫌が良かったのかなんなのかわからなかったが、ぼくの読書感想文を褒めてくれたことがあった。そのときは嬉しさよりも戸惑いの方が優っていたが、のちに文章を書くようになったあたり、印象的な出来事であったのは間違いないだろう。スポーツでも勉強でも人間関係でもパッとしなかったぼくが、唯一褒められたもの。文章。それは武器であり、自己実現であり、呪いでもあったのだとぼくは思う。
「そんなだから、母さんにも出て行かれるんだよ!」
 ぼくは東京に出るときに、そんな言葉を父にかけてしまった。どうしてこんなことを言ってしまったのか、その原因は具体的には思い出せないが、そのときの父の表情は忘れられない。その引け目なのかは知らないが、ぼくが東京で書いた小説にはことごとく主人公に父親というものは存在しなかった。決まって優しく理解のある母親がおり、そのことに気がついたときには、恥ずかしさのあまり深夜にもかかわらず自室で転げ回ってしまった。
 ぼくの実力では、この業界で飯は食えないといろいろな人に言われた。とはいえ、父にあんなことを言った手前おずおずと帰るわけにもいかず、だらだらと関係のないアルバイトを続けて食いつないでいた。文章は細々と書いてはいたものの、それが売れない小説であることは重々承知しているところで、自己満足の代物だった。だんだんと書くことが辛くなり、書店や小説投稿系SNSから離れていった。
「一度、帰ってこい」
 意を決して電話をした父の言葉は、そのひとことだった。その言葉がなければ、ぼくは東京で野垂れ死んでいただろう。
 父と母のあいだに何があったのか。ぼくを男手ひとつでどんな気持ちで育てていたのか。ぼくが出ていってからどんな生活をしていたのか。ぼくのことを気遣ってか、父とは生活時間がずれており、ほとんどこの家で顔を合わせることがない。
 ぼくは、扇風機の風でふるふると揺れている、空中に浮いたリボンを見つめる。幽霊少女。もしほんとうに幽霊だとするならば、恨み深い場所に現れるのが相場だろう。この家にそれほどの感情を抱くことのできる存在は、ひとりしか知らなかった。
 もし母に会うことができたなら、父はどんな顔をするだろうか。

 ※

 実家を出たとき、何か忘れ物をしたと感じていた。当時のぼくはもう実家に帰ることはないと思っていたから、それを取りにいけないことをすごく後悔していたのだけど、いったいなんだったのだろう。『思い出』とかそういうポエミィなものではなく、物理的な何かだったのは間違いないのだけど。
 都会のせわしなさと余裕のなさで、なにかを忘れてしまったということすら忘れてしまっていた。たいせつなものだったはずなのに。いま目の前には、小さな頃から使っている学習机がある。この中に、その忘れ物があるのだろうか。とりあえず、机の上に綺麗に並べられたエロ本の山でないことは間違いないのだけど。

 ※

 蝉の鳴き声がうるさかったけれども、今日はひんやりとした気持ちのいい風が吹いていた。ぼくは大量に作った素麺をタレにつけて啜った。父は仕事に出ているけれど、二人前だ。縁側の扇風機の前で、リボンがゆれている。空中に浮いたガラスの容器とお箸と素麺。ちゅるんとそれは虚空に消えて、ふるふるとリボンが揺れた。
「どうかな、美味しい?」
 ざるにあけるときにもたついてしまったので、若干柔らかすぎるような気もする。幽霊は容器とお箸を置いてなにか伝えようとしているのだけど、ぼくからはリボンが動いているさましか認識できない。幽霊に属するものは、人間からは認識できない。それがここ数日で理解した、彼女に関する原理だった。
 同じような例がないかどうか、スマホで調べてみたけれど、怪しいオカルト体験談ばかりヒットして、参考になるようなものはなかった。
「あ!」
 ぼくは間抜けな声を出してしまった。見ることも、触れることもできない同居人。しかし、コミュニケーションを取る手段があることにぼくは気がついた。
 スマホを通話モードにして、この家の黒電話をコールする。いきなり鳴り出したその音に、リボンがびくっと跳ねた。ぼくは彼女の耳のあたりにスマホを近づけ、これを保持するようにジェスチャーをした。そして黒電話へ走る。
「もしもし!?」
 幽霊少女がスイカを食べるように、そうめんの容器を持ち上げるように、幽霊少女は人間に知覚されないだけで物理的には干渉することができる。物理的な現象である声、すなわち空気の振動はスマホのマイクに拾われ、幽霊少女とは直接関係のない電気信号として黒電話に届き、音として再構成される。
「……もしもし?」
 しばらくのノイズののち、幽霊少女の声が聞こえた。試みは成功だった。
「……あの、そうめん、美味しかったです」
 しかし、ぼくは戸惑うばかりだった。
 幽霊少女の声ははじめて聞くものではなかったからだ。けれど、どこで聞いたものだったかまったく思い出せない。とても懐かしい声だけれど、こんな距離感にいた女性なんて心当たりがなかった。
「君は、誰なの」
 ため息のような吐息が漏れて、短い沈黙の後、悲しげな声が黒電話から聞こえてきた。
「まだ、わからないんですか」
 扇風機にリボンがふるふると揺れている。その後、スマホは宙を舞い、画面を下にして畳に置かれた。
 ぼくはその意図がわからなかったが、やがて理解した。彼女はスマホの通話の切り方を知らないということだ。いまの動きは受話器を置いたことに相当するのだろう。つまり、彼女はスマホや携帯電話が存在しない時代に生き、そして死んだ幽霊だったのだ。
 そのころぼくはなにをしていたっけ。

 ※

 実のところ、ぼくは母が幽霊少女の正体なのではと思っていた。
 小さな頃に蒸発した母の話題は、父とのあいだではタブーとされていた。別れ際にどんなやり取りがあったのかすら詳しく聞けず、幼心に感じたものは、この世界に確実なものなどなく、いずれ裏切られるのだという事だった。
 そんなぼくだったが、心の中では、せめて母にはまだこの家を愛していてほしいと思っていたのだろう。母は何らかの理由で死んでしまい、未練のあるこの家に幽霊として現れるようになったのだ。お盆だし。そんなストーリーをぼくは勝手に描いていてた。
 けれど、あの声はちがった。たしかにどこかで聞いたことのある声音で、それが誰のものだったか思い出すことができないのだけど、あれは母のものではなかった。
 それにいまの時代、ネットで少し検索をすれば、近況を知ることができる。母は生きていた。隣の市で三人の子供に囲まれて元気に暮らしているらしかった。仮に生き霊だとしても、この家には現れないだろう。その写真は、見たこともないほどの笑顔だった。

 ※

 他に幽霊少女がここに居着く理由はなんなのだろうと考えてみる。
 そういえばむかし好きな作家の小説で、幽霊との交流を通じて、その幽霊の死体を探すというものがあった。もしかして、この家の縁の下とかに少女の死体でも埋められているのだろうか。
 ゾッとしたが、それにしてはこの幽霊少女はあまりに害がなさすぎる。ちゅるん、と美味しそうに素麺をすすっていた。害といえば、隠していたむかしのエロ本をきちんと整理されたくらいだ。
 ぼくが実家にいたころにはこの幽霊はいなかったのだから、仮にその説を採用するなら、父が少女を殺して埋めたということになる。それはちょっと、考えづらかった。父はそういうことにはとんと興味がない。どれほど家中を探し回っても、エロ本のひとつも見つからなかったのだ。同級生たちはあの手この手で発見し、利用しているというのに。このとき感じた怒りがのちの『アレキサンドリア』を築くことになるのだが、それはまた別の物語だ。
 話が逸れた。
 幽霊少女の目的はいったい何なのだろう。

 ※

 夢を諦めて実家に帰ってきたぼくは、日がな一日、白紙のエディタとにらめっこしていた。時間はある。書きたい題材もある、はず。生活費を稼ぐためのバイトに追われるあの日々は、毎日忙しい忙しいそれどころではないと書かずにいられた。でも、いまはその言い訳すら通用しない。数文字書いては消し、スマホをいじり、そうめんを茹でては、幽霊少女と一緒に食べる。そんな毎日が続いていた。
「今夜も頼む」
 それは夕食後の日課になっていた。縁側で缶チューハイを飲むぼくの隣には、幽霊少女。ぼくの依頼に、リボンがこくりと頷く。ぼくはスマホを取り出して、ガチャの画面を表示させる。幽霊少女にガチャを引いてもらうと、かなりいい引きをするということがわかっていた。
 スマホの切り方すら知らない幽霊少女だったが、説明をすれば直感的な操作は理解してくれた。何万円もつぎ込んで出なかったSSRが、幽霊少女のスワイプ一発で出たときはよくわからない声が出てしまった。画面の結果に一喜一憂するぼくの反応が面白いのか、幽霊少女は毎晩このガチャに付き合ってくれた。夜風にリボンが揺れる。ハズレを引いて落ち込むぼくを、クスクスと笑っているのだろうか。こんな気持ちになったのは、いつ以来だろう。
 お盆、それは死者が帰ってくる季節だ。
 死んだような顔をして実家に帰ってきたぼくだったが、それなりに楽しい日々を過ごしていた。向き合うべきものから目をそらし続けられるというのは、かくも幸せなことなのだ。

 ※

「お、いいのみっけ」
 その夜、ぼくが見つけたのは父が買ってきたであろう日本酒だった。このあたりではあまり見かけないブランドで、女の子の幽霊がラベルに描かれている濁り酒の瓶だった。そこに描かれているのはいわゆる和風な幽霊で、頭に白い三角形のアレもつけている(幽霊はなにか布を頭につけないといけない決まりでもあるのだろうか)。
 あの幽霊少女をもし見ることができたのならば、こういう顔をしているのだろうか。ぼくはその瓶をじっと見つめてみた。
 いや。どこかちがう気がする。なぜだかぼくはそう確信していた。あの黒電話の受話器から聞こえてきたあの声。心当たりはないものの、あれは非常に馴染み深い声だった。その声の主のビジョンはいつのまにか心の中に出来上がっていたのだけど、どこで出逢ったのかは思い出せなかった。あるいは声から想像した妄想なのかもしれないが。
 その酒は、蒸し暑い夏の夜によく合うすっきりと爽やかな味だった。縁側でうちわを片手に飲む。
「君も飲むかい?」
 幽霊もお酒は飲むのだろうか。独り占めするのは勿体無い気がして、ぼくは空中をふわふわと浮いているリボンを探した。ほどなくしてそれは見つかった。幽霊少女のリボンが台所で跳ねていた。これは腹が減ったから素麺を茹でろという合図だ。幽霊少女は無機物に干渉できるはずだから自分で料理ができるはずなのだけど(スイカとかジュースは勝手に冷蔵庫から出すのだ)、食事はぼくに作らせようとするのだ。とんだ怠け者である。
 食後に、スマホと黒電話で会話をした。
「たまには自分で作ったらどうだ」
 するとしばらくの沈黙ののちに、おずおずと小さな声が帰ってきた。
「だって。こうでもしないと君、ご飯食べようとしないでしょ……?」
 幽霊少女と出逢ってから、ずいぶんと人間らしい生活ができることに気がついた。
「ねえ、ほんとうにまだわたしのこと、思い出せないの?」

 ※

 ぴこん、とスマホが震えた。
 幽霊少女は扇風機の前から移動して、ぼくのスマホを覗き込んだ。とはいっても、リボンの移動が見えるだけで、あいかわらず彼女それ自体は視認できなかったが。おそらくガチャを頼まれたのだと勘違いをしたのだろう。いまの通知は、詫び石配布キャペーンの開始を告げるものではなく、都会でぼくと一緒に創作活動をやっていた友人からのものだった。
『デビューが決まった』
 画面にはそう書かれていて、ぼくはその数文字を理解するのに三十分の時間を要した。幽霊少女のリボンで示される視線が、ぼくとスマホの画面とを行き来していた。彼はぼくと同じで、流行りに乗ることのできない物書きだった。苦悩を吐き出すように、暗く救いようのない小説ばかり書いていた。
 実家に帰ってしまったぼくはいったい何をしているのだろう。幽霊少女とだらだら過ごしているだけで、なんら生産的なことをしていないじゃないか。それに比べて。『おめでとう』と返信をすることよりも、そんなことが頭を埋め尽くしていて、自己嫌悪に陥る。
 添付されていたURLを、震える指をタップした。
 それはいま粗製乱造されている流行りの要素をパッチワークしたようなもので、異様に長文なそのタイトルは読まずともその中身を容易に想像できるものだった。ぼくの知っている彼はこういうものを毛嫌いしていたはずだった。
 めまいがする。
 お前はこんなものを書くために、歯を食いしばって物語を綴っていたのか。
 こんな結論に至るために、安い居酒屋でぼくと朝まで議論をしていたのか。
 友人からの通知が入る。
『お前もいいかげん大人になれよw』
 十年近く小説を書いてきたけれど、このときの自分の感情を文字に起こすことはできそうもなかった。感情のダムが決壊したとき、ヒトというのはどんな表情もできないのだと知った。パニックになることすらできない。
 ぼくはスマホを置き、立ち上がった。そっか。そうなんだよな。うすうす気づいてたよ。ぼくは二階の自室に向かう。リボンが宙を浮いてついてくるが、もう構う気はなかった。所詮はぼくの精神疾患が見せている幻覚なのだから。バカバカしい。ほんとうに、バカバカしい。
 首を吊った。
 どうやらぼくは生きるのに向いていないようだった。最期に父へ『ごめん』と伝えようと思いたち、ズボンのポケットをまさぐったが、スマホは階下に置いたままだということを思い出した。まぁ、残念だけど仕方ない。迷惑を掛けっぱなしで、少しも息子らしい孝行ができなかった。
 薄れゆく意識の中で、走馬灯というものは流れては来なかった。思い返すほどの価値のある人生ではなかったのかもしれない。ただ、あの日、実家を出ていった日に忘れていったものが気になっていた。机の一番上の引き出し。唯一鍵のかけられる引き出し。
 そうだ。
 ぼくは、たいせつなものをそこに隠していた。

 ※

 次に気がついたときには、自室の床で倒れていた。現状確認よりも先に、肺が酸素を求めて暴れだす。ひゅーひゅーと間抜けな音が喉から響き、冷や汗が顎を伝う。ロープは鋭利なもので不自然に切られており、空中にハサミが浮かんでいた。ぼくを見下ろすようにリボンが揺れ、小刻みにふるふると震えていた。冷たい感触を顔に感じたのだが、もしかして幽霊少女は泣いていたのかもしれない。
 幽霊少女。
 ぼくはようやくその正体に気がついた。彼女は、蒸発した母でもなければ、この家でかつて殺された地縛霊でもない。
 がんがんと痛む頭で、ぼくは机の上に並べられたエロ本を見つめる。そのうちの一冊を手に取り、おまけのDVDが入っている袋部分を探し当てる。その袋にはDVDとは異質の硬い感触がある。あのころのぼくはそこに机の引き出しの鍵を隠していたのだ。
 かちゃり。
 チープな音が部屋に響いて、その鍵は開かれた。ぼくがこの家を出ていくときに忘れていったもの。忙しない毎日の中で、忘れていたことすら忘れてしまっていたものが、そこには隠されているのだ。
 原稿用紙の束。ぼくが初めて書いた小説だった。
 一枚めくり、二枚めくり。ほとんど記憶の彼方へと忘却されていた物語に、色がついていく。話のつくりもキャラクターの造形も見ていられないほど青臭くて、語彙も幼稚だったが、ひとつひとつ手で綴られた文字は不思議な熱量を帯びていて、ぼくは文字を追うのを止められなかった。
 その物語は、当時の自分を投影した主人公の目線で進んでいた。主人公が気持ちよくなるように都合よく物語が進み、ヒロインの少女もこころが読めるのかというくらい主人公に理解を示し、支えてくれる。こんなでも、当時のぼくは傑作だと信じ、夜な夜な机に向かっていたのだ。ぼくは苦笑した。隣でリボンが揺れている。
 やがて、少年と少女の物語は別離のときを迎える。
 少女が急に遠くへ引っ越してしまうことになった。ああ、そういえばこのころ好きな女の子が転校することになって落ち込んでいたっけ。結局それはぼくの一方的な片思いだったから何も起こらなかったけれど、物語の中の少年少女にとっては大問題だった。
 少年は、電車のホームで少女にリボンを手渡した。いなくなった母親が少年の家に置いていった唯一のもの。そんな宝物を少女に手渡し、少年は泣き出しそうな気持ちを抑え、気丈に振る舞ってみせる。
『それはボクの宝物だ。君のじゃない。だから、いつか返しに来て欲しいんだ』
 幼い約束。少女は微笑み、黒地に黄色と白の幾何学模様が描かれたリボンを髪に結ぶ。やがて無情にも発車のベルが鳴り、こどもの世界観では地の果てにも等しい都市に少女は運ばれていった。それが、ぼくが初めて紡いだ物語の結末だった。
 一緒に原稿用紙を覗き込んでいるリボンがふるふると揺れている。
 いまでもその姿は視認することはできないが、ありありとその表情を思い浮かべることはできる。どんな性格で、何をしたら喜び、何をしたら怒るのかも知っている。声音だってしっかり想像できている。だから、スマホと黒電話で初めて通話をしたとき、その声に懐かしさを感じたのだ。
「返しに来てくれたのか……」
 ぼくの声に返事をするかのように、リンと風鈴が音を鳴らした。
 お盆、それは死者が帰ってくる季節だった。
 忘却の彼方に葬られた物語の少女はまぎれもなく死者であり、ぼくのために帰ってきてくれたのだ。
 
 ※

 物語はほろ苦い別離で幕を閉じたが、原稿用紙はあと一枚残されていた。ぼくは最後のページに目を通す。そこには、『いつかおとなになったボクがこの物語を完成させてくれる』と書かれていた。原稿用紙にぽつぽつとなみだが溢れた。
 書こう。
 そうだ、書くんだ。
 売れるためでも、生きていくためでも、自己承認を受けるためでも、現実逃避をするためでもない。自分のための小説を。彼女のための物語を。おとなになって再会した少年と少女の夏を。
 黒い霧がかかったような頭の中はいまやすっきりと晴れ渡り、ぼくはその物語をどのように書き始めようとかわくわくしながら階段を降りていった。

いただいたサポートは、山田とえみるさんの書籍代となります。これからも良い短編小説を提供できるよう、山田とえみるさんへの投資として感謝しつつ使わせていただきます!(*´ω`*)