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『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!~猫獣人の少女と不思議な時計~』

クロックワイズ・メカニクス小説総集編第一巻収録(第一話)
◯ほのぼの獣人スチームパンク短編連作。時計工房で働く犬獣人の少年クストと、技師である羊獣人の少女ウル、そのふたりを巡る物語です。

◯もくじはこちら。

口絵1

「大切なものです。壊したり失くしたりしたら承知しませんよ?」

 『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!』
            ~猫獣人の少女と不思議な時計~

 クロックワイズ・メカニクス。
 それがぼくの務めている歯車機構工房だ。
 大きな時計塔が見下ろす蒸気の街アンティキティラ、その西の外れに位置している。いまでこそ多くの歯車機構工房が建ち並んでいるが、ぼくの祖父が立ち上げたこの工房こそがその第一号。まだ理論段階だった技術に本格的に取り組んだ、当時は最先端の工房だった。
 ロビーの古時計が午前六時のベルを鳴らす。朝焼けとともに、この雑多な街も眼を醒まし始める。にわとりの鳴き声が響き、もうしばらくすれば美味しそうな朝食の香りが街を包みこむことだろう。
「ん~、今日もいい天気!」
 パジャマから着替えて、冷たい水で顔を洗ったぼくは、始業前の掃除に取り掛かることにした。玄関のガラスを拭いて、工房の看板を出し、箒で隅から隅まで掃いていく。獣人の技師にとって、抜け毛は天敵。職人の生命たる工具もぴかぴかになるまで磨き上げる。
「ふぁあああぁ~、おはよー」
「おはようございます、ウル」
 掃除が終わったころには、ウルが二階から降りてくる。ずっと使っているもこもこのパジャマ姿で、手には愛用のクッションを抱きしめたまま。欠伸を噛み殺しながら、寝ぼけ眼でテーブルにつく。
「ドレッシングは何にしますか?」
「おまかせー」
 彼女はとても寝起きが悪く、この時間にちゃんと起き出せるようになっただけでも大きな進歩だった。ベッドから出てきても、彼女のエンジンがかかるまで時間がかかる。
 フォークを握りしめる彼女の前に、焼きたてのパンとサラダ、薫り高いコーヒーを並べると、準備完了。工房の創始者である祖父に二人して想いを馳せながら、商売繁盛のお祈りをして、朝食が始まる。
 BGMはザン=ダカ商会の提供する都市内放送。
 魔法の一種、《絡み合う双子座のマナ》の一方を宿した親デバイスがその商会には設置されている。それと同期した《絡み合う双子座のマナ》を宿した子機を使えば、どんな距離があっても音声による振動を共有する。つまりはこうして放送を聴くことができる。
 ここで募集される様々な相談や街の情報などから、機械修繕の営業もかけることも多い。天気予報から洗濯のスケジュールを考えたりもする。密かに楽しみにしているのは占いのコーナーだったが、目の前のオカルト嫌いな少女は黙々と食事を続けている。
 ウルウル=ドリィメリィ特等工女。
 羊獣人(オビスアリエス)の彼女がこの工房の主任技師である。そう、いま目の前でむしゃむしゃとサラダを食んでいる眠そうな彼女こそが、由緒正しきクロックワイズ・メカニクスの名を背負ったたった一人の技師なのだ。このぼく、のクスト=ウェナクィテスは、あくまで彼女をサポートするための事務員に過ぎない。
「テイラーさんところの柱時計の修繕ですが――」
「んー、あれは香箱車の経年劣化と第二コペルニクスギアの部分欠損が問題だったよね。あとは応急処置で直りそう」
 昨日受注があった修繕案件だ。屋敷が建ち並んでいるいわゆる貴族街のテイラー氏から依頼があった。どうも祖父と交流があったらしく、この工房を頼ってくれたようだった。一度見積もりにいったとき、その柱時計には祖父の若い頃の作品であることを示す銘が刻まれていた。
「朝一で行きます?」
「うんにゃ、1988式の第二コペルニクスギアって特殊だから、在庫なかなか見つからないし。たしかこの工房にすらもうなかったよね」
「それなら新しい時計を勧めましょうか?」
「いやいや、工房の人づてを駆使して在庫を探すよ。なかったら、わたしが削りだす。師匠があの家の結婚祝いに贈ったものなんでしょ。そう簡単には諦められないね」
「はい、ではその旨伝えておきます」
 師匠とは、ぼくの祖父のこと。正直、工房の乱立で受注が減って、火の車の家計を担う事務方としては、ここで新品のひとつでも営業しておきたいところだったが、たった一人の技師にそう言われてしまってはお金の面は諦めるしかない。技師には技師なりの矜持があるのだ。それが彼女の師匠が遺した逸品となれば、そこにかける想いもひとしおだろう。
「それでは、次の案件、マクローリン伯爵のところの不調ですが――」
「あそこはまずいつも悪戯する男の子をどうにかしなさい。半年前も修繕に行ったのに!」
 頬を膨らませてぷりぷりと怒る。本人は気づいていないが、マクローリン伯爵のとこの少年は、ウル逢いたさに定期的に壊しているらしいのだ。その度に、数千というギアで組まれている機構を診なければならないため、ウルの怒りはもっともだった(ただし、定期的にまとまったお金を落としてくれるので、あまり無下にはできないのだけど)。
 こうして朝食を頬張りながら、ふたりきりのミーティングは進んでいく。ここで出張の予定が決まれば、その内容に合わせて、ウルの工具箱のセッティングを行う。必要な工具、機材、予備の部品、持ち運べるのには限りがあるので慎重に選ぶ。歯車自家用車(ギアヴィークル)などこんな貧乏工房ではとても買えない。
 ただ、今日は1988式の第二コペルニクスギアが工房にないため、出張に出ることもない。の方はたぶん今日のウルの感じでは面倒臭がって行かないだろう。幸いあの家はアンティークとして置いてあるだけだから、多少修理が遅れても誰も迷惑しない。
「……となると」
「ごちそうさまー」
「今日も仕事ゼロですか」
 基本的には怠け者でダメ羊人間なウルは、短い尻尾を震わせながら台所に皿を重ねて運んでいった。

 ※

「ねぇ、蒸し(スチーム)パン食(く)う?」
「結構です」
「真面目だねえ。おいしいのにー」
 来客用のソファで寝転がっているウルはそう言いながら、我が家の高速演算階差機関が吐き出す水蒸気で蒸したパンにパクついた。
 完全にだらけている。そもそも勤勉で知られる犬獣人と穏やかな性格の羊獣人で差があるとはいえ、あまりにもだらけている。彼女が祖父のところに飛び込みで弟子入りしてからもう何年もそんな姿を見ているので、いまさら何も言う気にはならないが。
「あーあ、せめて低電圧領域で電圧に対して電流がexp(エクスポネンシヤル)で応答する素子でもあれば、水蒸気で階差機関(ディファレンシヤルエンジン)回さなくても済むのになー」
「そんな都合のいい素子があるわけがないでしょう?」
 ぼくは眼鏡を直しながら、帳簿のチェックを続けていく。
「一方向にのみ有意な電流を流す素子でもいいんだけどなー。クストは何をしているのー?」
「去年一年の帳簿の確認です。そろそろ申請書を出さないことには、ザン=ダカ商会からの補助金も受けられないので。去年の分の実績報告も出さなくちゃいけませんね。あそこの監査は細かいですし、ヴァン=デルオーラ=ヴェッターハン会長の追及に答えられるようでないと……」
「補助金なんて貰ってるの?」
「貰っているんです。我らクロックワイズ・メカニクスは設立当初は先進的で立派な工房でしたが、いまではさほど珍しいわけでもなく、歯車機構の大量生産の時代も来ようとしています。まだ祖父の縁で受注もありますが、なにか革新的な技術でもなければお先は真っ暗です」
「ふぅむ」
 パンのかすがついた指を舐め、ウルは大きく欠伸をした。
「わたしは技師だし、そのあたりはクストが考えてくれればいいさ」
「頑張りますけどね――って、ウル、さっそく起きてください!」
 からんころんからーんとドアに付けられていたベルが鳴る。飛び起きたウルとぼくで精一杯の営業スマイルを作り、
「クロックワイズ・メカニクスへようこそ!」
 と反射的にお辞儀をしていた(脊髄反射で行ってしまうほど、祖父に仕込まれたためだ)。
「おう、ここで時計の修理をやっていると聞いた」
 ドスの聞いた声に恐る恐る顔を上げると、片目に眼帯をした人相の悪い狼がいた。狼獣人(カニスループス)。ハイランド由来の獣人で、気性が荒い戦闘部族。魔法的な親和性はまったくなく、あらゆる魔法が効かず、あらゆる魔法を使用できない。それゆえ戦闘のみに特化した社会を構成しており、各地に傭兵として派遣も行っている。
「時計の修理、できるのかできねえのか聞いているんだが」
「……は、はい! もちろん承ります。どのようなお品物ですか?」
 彼がつけているジャケットからは、戦場の熱が感じられた。頬の生傷、ジャケットの傷跡にブーツの埃。戦地帰りなのかもしれない。それにしても戦闘民族である狼獣人が時計なんて珍しい――と思っていたら、深窓の令嬢が持つような瀟洒な懐中時計が腰袋から出てきた。無骨な指でカウンターに置かれる。
「開けてもよろしいですか?」
「おう」
 竜頭を押すとパカリと蓋が開く。見たところ(美しい装飾はともかくとして)普通の懐中時計のようだった。どうも大切にしているらしく、ほとんど傷や歪みもない。使われている金属や装飾の類から察するに、かなりの値がしそうではあるが……。
「たしかに動いていませんね」
 何の変哲もないゼンマイ式機械時計のはずだ。しかし、ゼンマイを多少巻いても針は動かない。軽く揺すってみても、中でパーツが外れているような音もしない。「ウル、どう思いますか?」と小声で隣に聞いてみたところ、彼女の姿はなかった。
「あれ、ウル?」
 近くの柱時計の影に隠れて震えている。
「えっと、主任技師が現在留守にしておりますので、しばらく預からせてください。連絡先をこちらによろしいですか?」
「大切なものだ、直せなかったらわかってるな?」
「は、はひ……」
 汚い字で伝票に残された名前は、ローラン=ロムルスレムス。
「あの、住所は? 一度技師が診てご連絡に伺いますので」
「いい。明日また来る」
 それだけ言って、ローランは控伝票を奪うように受け取って、店を乱暴に出て行った。様々な獣人種が息づいているこの街、こういった困ったお客さんの経験はないわけではない。が、狼獣人がここを頼ってくるのははじめてのことだった。
「明日か……」伝票をちぎりながら、深刻な問題を起こしている羊娘の方を振り返る。
「それでどうしたんですか、ウル」
「狼……、狼、怖い」
「あー」
 読んで字の如く子羊のように震えているウルがゆっくりと柱時計の影から出てくる。狼獣人と羊獣人の相性の悪さは、そもそも神話の時代まで遡る。その昔、羊の七匹の眷属たちが乱暴な狼一匹に食い散らかされたという伝説が残っている。卵が先か鶏が先かになってしまうが、歴史が残っているその当初から、羊は狼を恐れている。
「ぼくも犬科ですけど?」
「あなたはいいの!」
 ぷりぷりしながら蒸気バルブを捻り、ウルは両手をそれにかざした。そうして細かな埃や毛を払う。ぼくのようにグローブを常につけていれば問題はないのだが、ウルは祖父と同じで手先の感触を重視する歯車機構職人だ。手袋を介して作業をすると、細かな異常が探知できないとのことだった。
「これ、盗品かも知れませんね」
「盗品?」
「ええ、彼はきっと傭兵でしょう。どこかの村で略奪してきたか、戦利品として奪ってきたか。いずれにせよ、狼獣人がこんな時計を大事に持っているなんて聞いたことがありません」
「自分のものじゃないのに、どうして直すの?」
「高く売るためじゃないですか」
 ウルは抜けている。かなり田舎で、独特の土着文化を持つケムリュエ出身であることもその理由のひとつ。アンティキティラに来てからも、師匠のもとで一心不乱に技師として努力を続けてきたので、社会的な交流も少なく、一般的な常識というものが欠落している。
「いずれにせよ、修理してくれと言われたものを修理するのがわたしの仕事。見せて」
 壁に掛けられているマイクロモノクルレンズを手に取り、息を殺して細部を観察する。
 合金神銀細工(ミスリルクラフト)? あれだけ加工が難しい神銀(ミスリル)をここまで細かく彫れるなんて……。歯車機構に神銀を使うなんて珍しい。あ、でも考えなしに装飾しているわけではないか。たぶん耐久性を第一に考えている」
 完全に技師としてのゼンマイが巻き上がったようだった。ここまでくれば余計な手出しは不要。ぼくは彼女の肩越しに細かな作業を見守る。マイクロドライバーを駆使して、文字盤を外した。
「たしかにゼンマイを巻いても動き出す気配はないか。どこかで空回っているのか、でもそれにしてはどこか妙な気もするけど……。ずいぶん小さなところにギミックを詰め込んだわね。ここから香箱車で第二コペルニクスギア、第三プトレマイオスギアにケプラーギアまで、もしかして動力迂回させてギア数を稼いでる? 我流か何かか、変な構造……」
 ひとつひとつ丁寧に歯車を取り外していき、マイクロモノクルレンズで覗いては歯車の毀れを確認していく。
 虫よりも小さな部品を扱うその姿には、先程までのぐーたら感は微塵も感じさせない。クロックワイズ・メカニクスの名を背負うに値する主任技師だ。
 この過集中状態、通称《ウルウルぱわー!》の状態になると、たとえ地震が起こったとしても彼女の集中力を途切れさせることはできない。
「とりあえずここまでは損傷なしか。あの狼、ああ見えて随分大事にしていたんだな、この懐中時計。筒カナと日の裏車はと――」
 そんなウルの後姿を見つめつつ、クロックワイズ・メカニクス工房の事務担当として、この修理依頼の見積もりを出すために、帳簿やそろばんとにらめっこの仕事が始まる。

 ※

「ウルー、ご飯できましたよー」
「……」
「食べちゃいますよー」
「……」
「お風呂先に入っちゃいますねー」
「……」
「お先におやすみさせていただきますー、無理しないでくださいねー」
「おやすみー」

 ※
 
 クロックワイズ・メカニクスの朝は早い。
 いつもは遅くに起き出してくるウルが、工房でまだ作業をしていた。
「あれ、ウル、おはようございます」
「ん、ああ、クスト。おはよ」
「結局徹夜ですか」
 細かな部品を凝視することで酷使されたであろう彼女の眼は真っ赤。身体中が凝っているのだろう、しきりに首を鳴らしたり伸びをしていた。
 手元を見れば、例の懐中時計の分針がカチリと動くところだった。
「直ってるじゃないですか、ウル!」
「そーなんだよ」
 その割には随分と不機嫌そうだった。眠気や疲労のせいではないだろう。たいていこういうとき、ウルは飛び上がって喜ぶものだ。それが彼女をあんなに悩ませるような複雑な機構の修理だとすれば、なおさら。
「直ってしまったんだ、何もしていないのに」
 ウルの話はこうだった。
 複雑な歯車の機構を取り除いていくと、中に極小の箱のようなものが組み込まれていたという。黒く塗り潰された箱には、白い猫の紋章。そんな部品はいままで見たことがない。けれど、重要な動力の通り道に組み込まれている。
 これが原因なのか、と思ったのが、午前三時ほど。うとうとしているとカチリと何かが内部で噛み合う音がして、試しに元通りにしてゼンマイを巻いてみれば、一切の問題なく懐中時計が機能し始めたということらしい。
「納得がいかない!」
 作業机をダンと叩く。いくつかの工具が転がって落ちてしまった。ウルはくまの浮き出た機嫌の悪い眼でぼくを睨みつけて「寝る!」とだけいって、お気に入りのクッションを抱きしめながら二階に上がっていった。大きな欠伸の声が聴こえる。
 技師としてウルは少しも納得がいっていないようだが、ぼくからしてみれば、部品も何も消費せずにひとつの案件が終了したのでほっとしていた。
 これであの狼が来ても、毅然と対応できるだろう。『分解してみましたがよくわかりませんでしたし、動きもしませんでした』では、洒落にならない。
 ――カチ、カチ。
 手の中の懐中時計は、たしかに時を刻んでいる。
 なぜこの時計は止まってしまっていたのだろう。なぜ突然動き出すようなことになったのだろう。これが意図された動きだとするならば、これを設計した者にはどのような目的があるのだろう。

 ※

 ――カチ、カチ。
 手の中の懐中時計は、たしかに時を刻んでいる。
 機械式撥条時計。
 正確に時を刻む、そのためだけに生まれてきた機械。
 果たして、時を刻むことのない時計に意味はあるのだろうか。
「はぁ……」
 覚悟はしていた――、けれども受け入れがたいこの結果に、私はため息をついた。
 箱の中の猫は、生きているのか、死んでいるのか。

 ※

 朝食を終えて二階に登ると、ウルが豪快ないびきをかいていた。その寝相の悪さから掛け布団が剥がれており、ぼくは苦笑しながらそれを直してあげた。時計の分解作業で触ってしまったのだろう、鼻には黒い油がついたままだ。
 羊獣人。
 西部バースの田園牧草地帯、ケムリュエ土着の獣人。耳にある羊の角が特徴。大人しく、魔力との親和性は高い。羊獣人は非常に群れたがる性質を持ち、群れから引き離されると強いストレスを受けるという。
 だから彼らは独自のコミュニティを築き、《星配置(ゾディアツク)》というものを信仰している。街でもたまに見かけるがほとんどが出稼ぎのようなもので、街に定住する羊獣人はほとんどいない。
 それを思うと、ウルウル=ドリィメリィはへんてこな羊獣人だった。
『あの時計を造りたいんです!』
 そう言ってこの工房に飛び込んできたのは、まだウルが十二歳のころだった。ケムリュエを訪れた行商人が持っていたクロックワイズ製の機械式撥条時計に感動し、集落を飛び出してきたのだという。
 そしてこの街のあの大きな時計塔を見て、興奮のあまり卒倒しそうになったらしい。その後、なんやかんやあって祖父は彼女を弟子として受け入れ、工房を継がせた。
 機械時計というものの存在は、明らかに魔法文化から科学文化への変遷を意味する工芸品(アーティファクト)だった。土着の魔法文化の根付いた羊獣人がそれほど科学に傾倒する理由はわからないが、それでも彼女の時計に対する情熱は本物だと思う。でなければ、祖父のあのシゴキには耐えられなかっただろう。
「う、うぅん」
 寝返りを打ったウルの無防備な表情に不覚にもドキッとしてしまったぼくは、彼女を起こさないようにゆっくりと部屋から出た。

 ※

「おいこら! 動かねえじゃねえか!」
「え、あれ!? おかしいな、さっきまでは動いていたんですが……」
 二階でウルが可愛いいびきをかいているころ、ローランと名乗った狼獣人の傭兵が来店した。ぼくは自信満々で懐中時計を差し出して、さて、いくらぼったくろうかとそろばんを弾いていたところだった(ウルがいると『何もしていないのに金を取るなんて!』と怒るので、これはチャンスだったのだ)。
 が、時計は彼が持ち込んだときのまま。
 何故か時を刻むことはなく、ピクリとも針は動かなかった。
「馬鹿にしてんのか、てめえ」
 胸ぐらを掴まれ、息ができなくなる。彼の手の上に置かれた懐中時計はたしかに時を刻んではいない。彼がやってきてからゼンマイを巻いたので、動力が足りないわけではない。
 どこかが空回っている? でも、ぼくたちはたしかにあの時計の針が動いているのを見たはずだ……。首をかしげていると、どこか静電気のように肌がピリつくような違和感があった。
「おい、ここは何屋だ?」
「……クロックワイズ・メカニクス。歯車機構の修理を」
「なら、直せるよなあ?」
 酸欠状態になりながらも、必死に頭を縦に振る。工房創始者である祖父からの教育でもあった。たとえ無理とも思える注文でも受けるのがこの仕事なのだと。そして直すのは機械ではなく、お客が抱えている問題なのだと。
 狼獣人の鋭い眼光が光る。
「お前は直せると言った。俺はそれを聞いた。明日また来る」
 急に手を離されて咳き込んでいると、ドアのベルが鳴るのがわかった。ローラン=ロムルスレムス。時計が直った暁には、どのような経緯で手に入れた時計なのか聞き出そうと思っていたのだけど、とてもそんなことを聞けるような感じではなかった。やはり盗品で高く売ろうとしているのだろうか。
 動かない時計に価値はない……。
「いったい、何が起こっているんだ……?」
 ――チッ、チッ、チッ。
 針の動く音。この工房の大時計ではない。時を刻む音。今朝、ウルとともに聞いた音だ。
 二階から降りてくる寝巻き姿のウルが目に入った。
「狼は帰った?」
「ええ、よく眠れましたか、ウル」
「怒鳴り声がするから起きちゃった」
 咳き込んでいるぼくには目もくれず(歯車機構ばかりではなく、もう少しぼくの心配をして欲しいところであるけど)、カウンターに置かれている銀色の懐中時計を手にとった。
「……やっぱりそうか」
 ウルはポケットから丸めたノートを取り出していくつか万年筆で書き込みをした。もうその瞳から眠たげな雰囲気は払拭されている。
 ノートを覗いてみれば、昨日解体した時の細かな部品の記載や動力の伝達経路が記されていた。手計算でできない部分は、我が家の階差機関を使ったのだろう。道理で夜中うるさかったわけだ。
「クスト。彼はこの時計を壊してはいないようだ」
「……どういうこと?」


 ※

 追想の灯火の果てで、何度もあの人の背中に声をかける。
 ここで手を離してしまったら、もう二度と逢えないかもしれない。もう二度と声をかけてくれないかもしれない。愛を囁いてくれたり、その逞しい腕で抱きしめてくれないかもしれない。
「必ず生きて帰ってください」
「ああ」
「約束ですよ?」
「ああ」
「何処かで死んだりしたら、わたしも後を追いますからね」
「ああ」
「……無事を祈って、この時計をあなたに」
「ああ」
「大切なものです。壊したり失くしたりしたら承知しませんよ?」

 ※

「ここで匂いは途切れていますが」
「貴族街か、狼獣人がねえ」
 犬獣人であるぼくの嗅覚を利用して、ローランの行方を追った。工房のある西区を離れ、人混みのある商店街を避け、はじめて通るような裏路地をいくつかくぐり抜ける。どこにたどり着くのかと思えば、貴族の屋敷が立ち並ぶ区画で匂いが途切れていた。彼の姿は見えないが。
「ここはフェレスリュンクス家の屋敷?」
「猫獣人ですね。狼獣人ではないはず。名前は聞いたことがあります。ザン=ダカ商会にも出資している、由緒ある家だというくらいですが」
 猫。ぼくたちは否が応でも思い出してしまう、あの懐中時計のブラックボックスに描かれた猫の紋章を。あれさえなければ、多少複雑な懐中時計ということで修理も可能だった。しかし、あの箱がおそらく気まぐれに時計を動かしたり止めたりしているのだ。その法則にウルは気づいているのだという。
 その証拠に、いま、時計は動いている。
「呼び鈴鳴らしてみましょうか」
 特に何も考えずそう呟いたぼくは、ウルのほうを振り返った。するとその瞬間に、強い衝撃がぼくの身体を襲った。誰かがいきなりぶつかってきたのだと気づいた頃には、ぼくはもう尻もちをついていて、鈍い痛みを感じていた。
 こんな貴族街で一体誰が……。
「ひっ、」というウルの怯えた声が聴こえる。尻もちをついたまま見上げると、例のあの狼傭兵が殺意剥き出しの瞳で見下ろしていた。いったい何処に隠れていたのか、まったく気配を伺うことができなかった。
「何のつもりだ、犬っころ」
「ぐっ、あなた……、こそ」
 ローランは腰から歯車機刃(ギミックナイフ)とギアボックスを取り出し、その箱をナイフに嵌め込んだ。箱に封ぜられたゼンマイの動力がギミックナイフに伝わり、ギザギザの刃先が唸りをあげて回転し始める。理屈では知っていたが、はじめて見る《人を殺すための機械》に血の気が引いた。
 ローランが口を開く。
「どうしてここが――、そうか、嗅覚か。直せないからって、ズルはいかんな」
 ぼくの前にウルが立ちはだかった。
「クロックワイズ・メカニクスにあの懐中時計は直せません」
「あぁ?」と怪訝な顔をされるが、彼女はもう隠れることはなかった。そのままぼくの前で手を広げ、まっすぐに狼を見つめている。
 ぼくの位置から見れば、脚ががたがた震えていたが……。
「お前があそこの技師か、羊っこ。壊れた時計を直すのがお前の仕事じゃねえのか!? 別に俺はほかの工房に依頼したっていいんだぞ」
「ウルウル=ドリィメリィ特等工女。壊れていないものは、直せません。製作者の意図に沿わない挙動を壊れたと呼ぶのなら、むしろ壊してしまったのはわたしたちのほうでしょう」
 ウルの宣言に、ぼくと狼がぽかんとする。
 ぱちぱち。屋敷の方から拍手の音が聴こえ、ぼくたちは反射的にそちらを振り向いた。豪奢な門扉の向こうの中庭で、車いすに乗った猫獣人の女性が柔らかな微笑みでこちらを見つめていた。
 拍手とギミックナイフの駆動音だけが聞こえていた。
「ご明察。さすがはあのクロックワイズ・メカニクスですね。さて、そこの狼さん、貴方は何をしているのかしら?」
「え、あ、あぁ、これはだな――」
 さきほどの傭兵らしい殺意は何処へやら、車いすの華奢な女性に、ローランは慌てふためいていた。まるで母親に悪戯を見つかった子供のようだ。
「とりあえずそんな物騒なものは仕舞って。話すべきことは山ほどありますが、まずは屋敷にいらっしゃいな。そちらの名探偵さんも。歓迎いたしますわ」
「ガブリエッラ=クァンテリア=フェレスリュンクス。幼いころ、紛争地域でローランに助けられて、このフェレスリュンクス家に拾われたんです。そのときの傷で身体の自由が利かないことが多いので、ほら、この特別な車いすで」
 膝にかけられたブランケットは、その奥にあるべき厚みがなく、腕にも何らかの障害を負っているように見えた。にも関わらず彼女は明るく自己紹介をし、車いすの手元にある部品を操作する。
 すると、蒸気機関のけたたましい音がして、車いすの背もたれ部分が展開し、サブアームが飛び出してきたではないか。わきわきとマニピュレータを動かして、器用なことにぼくたちにティーカップを運んでくれた。
「……すごい」
 ウルの技師としての魂が刺激されたのか、その不思議な機械に見とれていた。
「さて、ようこそ。フェレスリュンクス家へ。いろいろとお話は伺いたいのですが、まずはそこのお馬鹿さんを叱ってやらなければなりません」
 ガブリエッラという少女は、ローランの方を向き、拳を小さく上げた。
「こら」
「……すまん」
 こっちがいたたまれなくなるほど、狼傭兵は小さくなって頭を下げた。彼に返却された懐中時計は、もう動いてはいない。試してはいないが、この状態でゼンマイを巻いても動かないだろうというのがウルの見立てだった。
「名探偵さん、それじゃ解決編をよろしくどうぞ」
「……その前に、この時計を造ったのはあなた?」
「ええ」
「お一人で?」
「もちろん。でも、かなりの時間は費やしました、なにせ、特製ですから」
 ウルは意味ありげに頷いた。
「その時計はもしかしてもう一つ、対のものがありますか?」
「ご名答」
 ガブリエッラは車いすのサブアームを器用に動かして、背後のベッド近くのタンスからまったく同じ懐中時計を取り出した。中身を開くと、針は動いていない。
「結論から言えば、いまローラン=ロムルスレムスが持っている懐中時計は壊れていない。《いくらゼンマイを巻いても動かない》というのがこの時計の存在意義だから。では、動かない時計に何の意味があるのか。それは《動き出すという事態に備える》ため」
 ウルはポケットから、懐中時計の機構が描かれた紙を取り出して広げてみせた。
「ゼンマイを巻く。多少動力が迂回したり、煩雑な経路を通っているが、そこまでは理解できるギミック。けれど、最終経路の途中にある猫の紋章が描かれた小箱。ここにこの時計の秘密がある」
「いったいどんな秘密かしら?」
「わたしのような技術屋には、何年かけてもこんな構造は思いつかなかったかもしれない。唯一創始者である師匠が言っているのを聞いたことがあるけど、にわかには信じられない。《魔法(マギ)と歯車(ギア)の完全調和(マギアヘーベン)》」
 マギアヘーベン。
 魔法は物理法則を説き伏せ、従わせて己の意志を発現させるもの。
 歯車は物理法則を解き明かし、それに従い緻密な機構で動くもの。
 両者は、最初から矛盾をしている。
 実現さえすればさまざまな技術が可能となる。が、そのための技術的ハードルは、いまの時代のぼくたちにはあまりにも高く、解決すべき課題はあまりにも多く残されている。
「まさか、そんな……」
「でも、これはその前段階といえるレベルのもの。さしずめ、《魔法と歯車の混合技術(ハイブリツド)》」
「ちょっと待って、ウル」
 ぼくはティーカップを置いて立ち上がる。マギアヘーベンは百歩譲って飲み込むとしよう。でもその前に、大きな矛盾がその見立てにはあるのだ。
「狼獣人に《魔法と歯車の混合技術》? 何のために?」
 ウルは何のこともないように悪戯気な笑みでこう返した。
「狼獣人に《魔法と歯車の混合技術》の時計を渡すため」
 この状態のウルはいくら聞いても、回答をそのままくれたりはしない。ぼくはゆっくりと椅子に座り、考え込んだ。
 狼獣人。
 ハイランド由来の獣人で、気性が荒い戦闘部族。魔法的な親和性はまったくなく、あらゆる魔法が効かず、あらゆる魔法を使用できない。それゆえ戦闘のみに特化した社会を構成しており、各地に傭兵として派遣も行っている。
「ん?」
 ――魔法的な親和性はまったくなく、あらゆる魔法が効かず、あらゆる魔法を使用できない。
「そうか!」
「そう。あの猫の描かれた箱は、ヴォイニッチ朱鋼の論理絶縁(ロジカルインシュレーター)。それは、魔法の影響を局所的に限定するためのもの。だからその中には、魔法で編まれたギアが組み込まれている。ゼンマイを巻けば動力が問題なく時計の針まで伝わる。わたしやクストなら影響はないけれど、狼獣人はあらゆる魔法をキャンセルアウトしてしまう」
「……すると時計は動かない。でも、何のために?」
「おそらく傭兵である彼の安否を確認するため。解析をかけたら、《絡み合う双子座のマナ》の痕跡があった。ザン=ダカ商会のラジオと同じ原理。ただし、術者は常に魔法を発動していなければならないけどね」
 ザン=ダカ商会のラジオは、発信者と受信者の《絡み合う双子座のマナ》の発動で、はじめてラジオとして機能する。種族的にローランはそのシステムを利用することができない。
「あの小箱のギアが動き出せば、どんな距離を隔てても、もうひとつのガジェットと同期させることができる。ローランの特性が活きている限り、時計は動き出さない。つまり、ガブリエッラの持つもう一つの時計が動き出したとき――」
「ローランは死んだのだと諦めるつもりだったわ」
 ガブリエッラは伏し目がちにそう言った。日夜、彼女はもうひとつの懐中時計を手に祈り続けていたのだろう。戦地に赴いた傭兵ローランの無事を祈って。
「そこの馬鹿狼は私の生命の恩人。私はこんな姿でなんの役にも立てない、動かない時計と同じ。でも、こうして祈ることはできる。貴方が生きて帰ってきて、その時計を私に返すその瞬間まで、私の時間は止まったままなのだと――」
 そこまで言ったところで、彼女はジトッとした眼で狼を見つめた。
「もっとも『うわやべえ壊しちまった、でもあいつに壊したなんていったら怒られるぅ!』なんてテンパッて、こんなに待ってる私に帰って来た報告もせずに、ひそひそと工房に修理を頼むなんて、思いもしなかったけれど。もっと男らしい方だと思っていましたわ。巻き込んでしまってごめんなさい」
 ガブリエッラはくすくすと笑う。
こちらからは傭兵狼の表情は伺えないが、耳まで真っ赤になっていた。
 ぼくとウルは互いに目配せをし、ほっと胸をなでおろした。

 ※

「ところでガブリエッラ、《魔法と歯車の混合技術》だっていうなら、基本的には時計として動いていて、俺が死んだら魔法が発動して針が止まるって構造もできたんじゃないのか?」
「あら。それは、大切なものを壊してしまって焦る貴方の顔が見たかったから」
「……あのなあ」

 ※

「とりあえずこれで一段落ですね。報酬もいただけましたし」
 フェレスリュンクス家から迷惑代として相場の何倍もの金額を包んでくれた。実質的にぼくたちは何もしていないのだから、こういうお金をもらうのは技術者としてのウルの嫌うところなのだが、今回は何も言わなかった。どころか、ガブリエッラの部屋にあった我流の歯車機構に興味津々といった様子だった。
「ウル……?」
「悔しい」
「はい?」
「《魔法(マギ)と歯車(ギア)の完全調和(マギアヘーベン)》は知識としては持っていても、あのひとのように実現に近づくまで至らなかった。でも、もう少し考えていればできたはずなんだ。もう一度クロックワイズ・メカニクスを歯車機構の最先端にできたはずなのに――」
 ウルは道路の真ん中で立ち止まって俯きながらそう言っていた。こういうひたむきさと素直さはきわめて彼女らしい。ぼくも祖父もそこが気に入って、クロックワイズ・メカニクスを継がせたのだから。
 しかし、ウルは魔法的なものやオカルト的なものに対してトラウマがあるらしかった(でなければ、群れを好む羊獣人がひとり街に出てきて、技師にはならないだろう)。だから、頭ではわかっていても、魔法の絡む技術を無意識的に忌避していたのかも知れない。
「ウル」
 ――ぼくでは君を支えることしかできないけど、でも、君を支えることだけはできるんだ。
「もう一度、フェレスリュンクス家に遊びに行こう。美味しい紅茶とお茶菓子と自慢の工芸品を持ってさ。きっと彼女も喜んでくれる。今日はあの狼と猫がいちゃいちゃしはじめてゆっくりできなかったけど、そのときに技師同士ゆっくり語り合えばいいよ」
「クスト……」
「ガブリエッラは独学で独創的なものを生み出したかもしれないけど、ウルにだって正統な技術継承が師匠からされているんだ。二人は方向性が違うだけで、優劣はない。あの人からウルが学べるだけ、ウルがあの人に教えられることもあるはずだよ」
 
 ※

 クロックワイズ・メカニクス。それがぼくの務めている歯車機構工房だ。
 大きな時計塔が見下ろす蒸気の街アンティキティラ、その西の外れに位置している。いまでこそ多くの歯車機構工房が建ち並んでいるが、ぼくの祖父が立ち上げたこの工房こそがその第一号。まだ理論段階だった技術に本格的に取り組んだ、当時は最先端の工房だった。
「ウル、階差機関(ディファレンシヤルエンジン)で解析しないといけないのはわかりますけど、それ蒸気機関なんですからね! 駆動させるの手伝ってもらいますよ!?」
「それはクストの仕事ー」
「ぼくは水蒸気のついた工具を拭うので精一杯なんです!」
「がんばれー」
 今日もぼくたちは無理難題な依頼に東奔西走しながらも、クロックワイズ・メカニクスの看板を背負って生きている。ウルの秘密兵器(やりたいこと)は彼女の計算ではそろそろ完成するのだろうけど、機械的挙動と魔法的特性のすり合わせに難航しているらしく、ぼくではもう設計図が読めないレベルにまで達していた。それでもウルは毎日楽しそうに、細やかな作業を続けていた。
 新聞を読みながらそんな姿を眺めていると、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ、クロックワイズ・メカニクスへようこそ!」

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