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『この河原の片隅に。』 ~物書き崩れと忘れられたかみさまと~

◯『君は……?』『見てのとおりのかみさまなのじゃ!』
 奇想天街を舞台に繰り広げられる、現代あやかし短編連作です。
◯驟(シュウ):物書き崩れの青年。
◯ひとみ:河原で出逢ったぽんこつかみさま。なにを司るかみさまかは内緒

メロンブックスさんにて、書籍・電子書籍ともに取り扱いをしています。
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「自分、ですか」
「君に白羽の矢が立ったんだ」
 何の取り柄もない無職だったぼくは、その言葉をきっかけに作家先生と呼ばれる身分になった。何がウケたのかはわからないが、その評価は身に余るものだった。
ナメクジのように日陰をずっと生きていたぼくにとって、照らされたスポットライトはあまりにも眩しすぎた。いままで静寂の底に沈んでいたぼくにとって、その歓声はあまりにうるさかった。ただただ呆然と立ちすくんでいると、いつしかその歓声は止んでいた。
「にわか雨みたいだ……」
 まわりのものをすべて押し流して、大騒動は終わった。
 それからぼくは『期待』というものに向き合えずにいる。

 ※

 作家先生ではなくなったぼくは、日々の有り余る時間を持て余しながら深夜の街を徘徊していた。深夜ラジオがイヤホンからぼくだけに語りかけてくる。両手をポケットに突っ込んで、ぼくは俯き気味に河原を歩く。
『うーん、先生は充電期間が必要ですかねぇ』
『……はい』
 言いたいことはたくさんあったが、どれも言葉にはならずに溶けていった。『もうぼくに構わないでください』、そんなこと言えるはずもない。かといって、その言葉に奮起して作品を書き上げることも、いまのぼくにはできそうもなかった。
 つまるところ、ぼくは何者にもなれないでいた。
「にわか雨だ……」
 惨めなぼくをあざ笑うかのように、ぱたぱたと雨粒が降り注ぎ、すぐにそれは視界を白く染め上げるほどの大雨となった。雨宿りできそうなところは――、河川敷の古い橋が目に入り、ぼくはそこへ駆けて行った。
 一息ついて、肩の雨粒を払っていると、声が聞こえた。
「お主は、誰じゃ?」
 そこには祠のようなものがあり、少女がこちらを見上げていた。
「わらわが見えるのか」
 鈴の鳴るような、綺麗な声だった。

 『この河原の片隅に』

「……迷子?」
「見ての通りの神様じゃ」

 ※

「こ、このッ、無礼者ぉー!」
 声が聴こえた。
 また野良犬と喧嘩しているな、と少々呆れながら、ぼくは河川敷に降りていく。小さな祠が見えると、案の定、神様が小さな身体をめいっぱい震わせて怒っていた。どうやら野良犬が祠にションベンをしたらしい。クスクス笑いながら近づくと、ぼくの気配を察して犬が逃げていく。
「こんにちは、途中のアラミタマートで差し入れを買ってきました」
「おお、チップスにアイスじゃな。よくわかっておる。じゃから、驟は好きじゃ」
 コンビニ袋を奪い取った神様は、ほくほく顔でぼくを見上げた。ぼくは祠の隣に腰掛けて、缶コーヒーのプルタブを開けた。この橋の下の神様に出逢ってから、一ヶ月が経とうとしていた。その間にいくつかわかったことはあるけれども、いまだにわからないこともたくさんある。
「うまうま」
 アイスの蓋の裏側を舐めている彼女を見ながら、ぼくはコーヒーを喉に流した。
『現代では少なくなってきたが、たまにこうして波長の合う者がおるな』
『えっと、君の名は……』
『わらわのことは、ひとみと呼ぶがよいぞ』
『ひとみ……さんは、何の神様なんですか』
『秘密じゃ! ヒトが知るべきではないものを教えると、厳しい罰が下るからの』
 ひとみという名が示すとおり、彼女は幼子のようなまんまるおめめでぼくを見つめてくる。
巫女装束のような服装。錆びついた髪飾り。しかし、穢らわしさのかけらもない、凛とした雰囲気。
もしかして家出してきた少女なのではと思ったこともあったが、それにしてはあまりにも現代離れしている格好だった(喋り方もジジ臭い)。一応、近所の失踪者のリストは見てみたが、彼女のようなものはいなかった。
 スマホで写真を撮ると、見事に彼女だけ映らない。彼女の姿や声がぼく以外の人間に認知されている気配もない。さっきだって、彼女がどれだけ無礼者と叫んでも、野良犬は感知できていなかった。それなのに、ぼくとはこのように会話ができる。ぼくの持ってきたコンビニのお菓子を受け取ることができ、もぐもぐ食べることができる。
「なんじゃ?」
「なんでもないです」
「やらんぞ、明太マヨのチップスはわらわのものじゃ」
 必死にコンビニ袋を抱きかかえる神様に、苦笑する。
「もしかしてお菓子の神様なんですか?」
「ちがうわい、おかしなことを言う。わらわが生きていたころは、こんな美味しいものを食べられなかったからな。本当によい時代になった。だがしかし、お菓子の神様とやらが本当にいるならば、さぞかしものすごい『かみさまぱわー』を持っているにちがいないじゃろう」
 神様は橋を見上げた。ここからでは空は見えない。
「八百万の神々にとって、人々の信仰こそが血液じゃ。もちろんそれには畏怖や恐怖も含まれる。恐怖が恐怖を呼んで荒御魂となったものも知っておるし、こうして時代の流れに取り残されて信仰を失い、祠から動けなくなってしまった神様もおる」
 ひとみの言葉は現実感を欠いたものだったが、たしかな重さがあった。ぼくは彼女にかけるべき言葉を探したが、見つかるはずもなく、喉を少し鳴らしただけだった。ひとみはせつなそうな眼で微笑んだ。
「そんな憐れむような瞳をするでない。別にわらわは信仰を無理にでも取り戻して、生きながらえようとは思っておらぬのだよ」
 忘却された神様はとんがったコーンを指に嵌めながら呟いた。
「わらわが忘れられるのであれば、それでよいよい。そのほうがきっと民のためじゃ」

 ※

「きのこです」
「たけのこじゃ!」
「もうアラミタマートでおやつ買ってきませんよ」
「うううぅ……、いいもんいいもん、『獅子身酎』飲むし!」

 ※

「アラミタマートで『神社え〜る』買ってきました」
「よき働きじゃ。噂の納豆フレーバーのジュースはあるかの」
「一本しかなかったですね。やっぱり話題で」
「その一本はわらわのじゃ。お主には渡さん!」
神様はどたどたとぼくのコンビニ袋を奪った。
「神様なんですから哀れな民に恵んでくださいよ。心ない輩にいま奪われたんですから」
「『信仰』が足りんわい」
 ぼくは8月末の殺人的な日差しから逃げるように、橋の下へと駆け込んだ。いまごろ、全国各地の学生たちが宿題に追われているころだろうが、夏というやつは一向にその勢いを止ませることはなかった。疲れてないのだろうか。ぎんぎらぎんにやる気に満ちた太陽を、ぼくは直視することができない。
「……こういう変な味付けのお菓子を毎回買うやつがいるから、企画が暴走するんでしょうね」
「のぅ」
「なんでしょう」
 ひとみは、祠に腰掛けながら(罰当たりだと思うのだけど……)、脚をぱたぱたさせて、アイスを舐めていた。
「お主は、暇なのか?」
 無邪気さに満ちたいまの一言、その破壊力は想像を絶するものがあった。たしかにあのにわか雨の日に彼女と出逢って以来、ほとんど毎日、ここにコンビニ袋を提げてやってきている。来られなかったのは、編集者からFaithbookやLINNEを通じて催促があった日だけだった。その日は結局動けずに、布団の中で過ごした。
「プータローですよ」
「しかし、こうしてお菓子を買ってきてくれるではないか。ただでお菓子は手に入らんじゃろ? 何事にも対価が必要じゃ」
「ちょっとした蓄えがあるんです」
 何の取り柄もない無職が小説を書いたら大当たりして、かと思ったら、いろいろな眩しいものにビビって何も出来なくなったお話。そんな話、神様にできるわけがない。
ぼくはもう二度と、あんな眩しいところには戻らないと決めていた。こういう橋の下で、太陽の届かない、昏くじめじめしたところで、体操座りをしながら、どこかポンコツののじゃロリ神様と他愛もないお喋りをしていたかった。
「いつもわらわばかり喋ってずるいのだ。たまにはお主も話さんか」
「面白くないですよ」
「面白いか面白くないかはわらわが決めるのじゃ。そうじゃろ?」
 ぴょいと祠から降りた神様は、ずいっとぼくに近づく。ぼくは眼をそらす。
「まだ何の神様か教えてもらってないのに、ずるいです」
「それとこれとは話が別じゃ。言ったろう、ヒトが知り得ぬことを教えると罰が下るのじゃ。こーんなかわいいわらわが罰せられてもよいのか~? さ、話すがよい」
 結局押し切られるかたちとなってしまって、ぽつぽつとぼくは口を開いた。神様がどのくらいこの河原の片隅にいるのかは知らないが、いくつか通じない単語には補足をした。それでも一から十まで質問するのではなくて、いつもお喋りな神様にしては『ふんふん』と真摯に聞いてくれていた。
 望んでもいなかった白羽の矢。あとでその語源について調べてみると、『日本古来の風習あるいは伝承によれば、生贄を求める神は求める対象とする少女の家の屋根に、白羽の矢を目印として立てたという。このことから転じて、「白羽の矢が立つ」の形式で「多くのものの中から犠牲者として選び出される」という意味として使われる』とあった。まさにそのとおりで、苦笑するしかなかった。ぼくじゃなくてもよかった。出版業界は書店に対する買い取り保証契約の関係で毎月多くの小説を刊行せねばならず、誰でもいいから書ける人を求めていたに過ぎない。
「――だから、ぼくは怖くなってしまって。あれからお話が書けなくなってしまったんです。たぶんぼくの身に余るようなものだったんですよ」
 一度口を開けば、まるで洪水のように次から次へと言葉が溢れ出した。それは少なくとも作家の肩書がついている人間としては、ひどく幼稚で、たどたどしく、要領を得ない話だっただろう。けれど、しぶしぶ話し始めたはずなのに、ぼくは想いを吐瀉でもしているかのように、止めることができなかった。
「……あ、すみません。喋りすぎて」
「飲め。喉が乾いておろう」
 そう言って渡されたのは、神様が独占しようとしていた納豆フレーバーのジュースだった。ペットボトルを傾けると、砂漠に雨が降るように喉が潤されていく。酷い味だったけど。それでもたいせつな一本をぼくにくれた神様の優しさは身に沁みるようだった。
「ありがとうございます」
「……お、おぅ。感謝せいよ」
 もしかして一口飲んで無理だと思ったから、ぼくに渡したのかもしれない。
「お主、泣いておるのか」
 神様に言われて、ぼくは頬に触れた。喋るのに精一杯で、まったく気づかなかった。
「泣くほどまずいよな、それな」
「……そういうんじゃないです」
 神様は戸惑うぼくに、そっと抱きつき、背丈が足りないながらも、『よいよい』と頭を撫でてくれた。ひとみのふんわりとした黒髪が揺れ、安らぐ薫りが鼻孔をくすぐった。

 ※

「……おや。もう時間が来てしもうたか。寂しくなるのう」

 ※

 気まずかった。
 あれからどうやって家に帰ったのか、まったく憶えていない。喋り方はともかく、背格好は幼女とも言えるひとみに、母を求めるように泣きついてしまった。いままで誰にも話せなかった弱音を吐露できたこと自体はありがたいけれど、どういう顔で逢ったらいいのかわからなくて、ぼくはコンビニ袋を提げたまま、直射日光のもとで立ち尽くしていた。
 ――いくしか、ないか。
「新商品の、『DHMOの水割り』は売り切れでした」
 ひとみは、祠の上で膝を抱えていた。その大きな瞳からはいまにも溢れんばかりに涙がたたえられていた。ぼくはコンビニ袋を落としてしまった。いままで見たことがない様子の神様に駆け寄る。
「どうしたんですか? そんなに『グスタフ』がこっちで販売中止になったことが悔しいんですか」
「驟、お主、もうここに来るでない。あと、それは悔しい」
「……コンビニのお菓子も食べられませんよ?」
「いらん」
 消え入りそうな声。しかし、明確に神様はぼくを拒絶した。
「急に、どうしたんですか」
「なんでもないのじゃ。ただ――、そうじゃな、このままだらだらと時間を浪費させるのはお主のためにならんと思ったからじゃ。お主にはお主のやるべきことがある。わらわには、わらわの神様としての仕事がある。お主はもう少し、自分自身に眼を向けるべきじゃ」
「ひとみ……?」
 ぼくは話した、ひとみに一切合財を。ひょんなことから身に余る大役を任されて、誰かの『期待』が怖くなったことを。それをもう忘れたとでもいうのだろうか。彼女とは、出逢ってまだ数ヶ月だ。だけれども、こんなにコミュニケーションをしたヒトは他にはいない。
「ほんとにどうしたんですか。あなたはそんなことをいうヒトじゃないでしょう。もっとだらだらと、時間の浪費なんて気にせずにお菓子を食べてジュースを飲んで、役に立たないような話を延々とするような人でしょう」
「ちがうな」
 ひとみが顔を上げると、
「わらわはヒトではない。わらわは神様で、お主はヒトじゃ。本来交わってはならぬものじゃからな、お主はもうここに来るべきではない。わらわはお主の顔も見たくはないのじゃ」
 にわか雨のような天気の変わりっぷりだった。ぼくは言葉を探す。この雨は急だけれど、このままではいつまでたっても止まないような気がしていたのだ。
「……なにか、ぼくは間違ったことをいいましたか?」
「むかつくのじゃ」
「はい?」
「我ら神々は『信仰』を糧にして生きておる。人々の想いに応え、寄り添うものとして、この箱庭に結実した存在じゃ。『信仰』は『期待』とも言うことが出来よう。お主は『期待』に押しつぶされておる。身動きができなくなっておる。贅沢じゃのう。我ら神々が、その『期待』をどれだけ欲しているかも知らずに」
「君には、ぼくの気持ちなんてわからない……!」
 自分でも驚くほど冷たい声が出てしまった。
「『期待』されて、その『期待』に応えられて、それで生きているような君には、ぼくの気持ちなんてわからない!」
「ああ、わからぬさ」
 ひとみは蒼氷の瞳でぼくを見上げた。
「火と水の相容れないさだめのように、ヒトと神は分かり合えぬからな」

 ※

 白羽橋。
 あれから数日、何度も迷った挙句に、ぼくはこうして堤防の上に立っていた。両手には、近くのアラミタマートで目に入ったお菓子やジュースがぱんぱんに詰まっている。神様が急に態度を硬化させたことにはちょっとだけ腹が立っているが、もとはといえば、ぼくが大人げないことを言ったことが原因だった。
 この夏のあいだ、ぼくは神様と話すためにこの河川敷に通っていた。本当に久しぶりに、一日中布団の中で黙っていると、違和感を憶える身体になってしまった。日常の中で起きた些細なことを、神様に話してみたかった。コンビニのどうしようもない新商品を、まずいまずい言いながら、神様と食べてみたかった。
 ――ぼくは、弱くなっていた。
 『期待』。『信仰』とも言いかえられるそれ。ぼくが多くの瞳から向けられて、応えられなかったもの。逃げ出したもの。一方、ひとみが何らかの事情でそれを受け取り、応え、たいせつにしてきたもの。そして、時代の流れから取り残されたひとみにとって、消滅の危機にあろうとも、それを掴むことができないもの。
 息を吐き、息を吸う。
 ずっとパソコンの画面と向き合ってきた。数年前、暇すぎて戯れで書いた物語だったが、目の前には白紙の画面しかない。キーボードの上には乗せてみたものの、動かない指。そんなぼくを急かすかのように、カーソルが点滅している。
「……やっぱり、ぼくには」
 唇を噛み、視線を逸らす。
 そうして何時間もパソコンの前にただ座っていたぼくは、外に出かけることにした。いつもの癖でアラミタマートに寄ってしまい、お菓子を山ほど買ってしまった。そろそろ店員の中であだ名がついているころだろう。結局、白羽橋まで行っては折り返しているので、家には食べきれないほどのお菓子が山積みになっている。
 堤防の上から橋を見つめる。ここからでは影になっていて、その下でひとみが何をしているのかわからない。せいせいしているだろうか、泣いているだろうか。あそこはほとんど誰も通らない場所だから、きっと寂しく思っているだろう。
 それに、謝らないといけない。
「雲行きが怪しくなってきたな……」
 と思ったときには、ぽつりぽつりと大粒の雨が降ってきた。それはすぐにざぁあああと轟音に変わり、見慣れた風景は暗幕を引かれたように暗くなる。ぼくは左右を見渡す。雨宿りできそうなところは、アラミタマートのある商店街まで引き返さないといけない。
 あるいは、いつかのようにあの橋の下。
 謝ろうが謝るまいが、どれほど気まずかろうが、このままではすぐにびしょ濡れになってしまう。来るなとは言われていたが、さすがにこれはやむを得ない事態だろう。ひとみが機嫌を直さなければ、雨が上がったあとに出ていけばいいだけだ。
 どこの神様か知らないけど、粋なことをしてくれる。
 ぼくは、一歩、二歩と堤防を降りていく。

 ※

「お主……、馬鹿じゃの」
「どうしても謝りたくて」
「いますぐ出て行け。ここに来てはならぬ」
「出てけって、外はあんな大雨だし……」
「聞かんやつじゃな、よいか」
 ざぁざぁという音に、鈴のようなひとみが声が突き刺さる。ぼくの態度の何が気に入らないのか、ひとみは祠の上からぴょんと降りて、ぼくを鋭い目つきで見上げた。神がかった何かを感じる、ヒトならざるものの瞳だった。
「この川はいまに大地震で氾濫するのじゃ、堤防をも飲み込む歴史的な大災害が――」
 ひとみの告白を罰するかのように、雷鳴が轟き、世界が真っ白に塗りつぶされた。ひッ、と神様が恐れおののく。そこで鈍感なぼくは理解をした。それはヒトが知るべきことではなかったのだと。ひとみもその領分を知りながら、それでいて、ぼくを逃がそうとしていたのだと。そしておろかにも再び逢いに来てしまったぼくに、自ら処罰されることを覚悟で事実を告げたのだと。
「驟、お主は――」
 そのあとの言葉も、雷鳴にかき消される。雨は見たこともないほどその激しさを増し、川はみるみる間に水位を上げている。ポケットに入れていた携帯電話が鳴る。LINNEやメールや電話の類ではない、本能的に警戒をしてしまうような音。あと数秒で大地が揺れる。
「お主は――、」
 聴こえなくても、ひとみの言いたいことは眼でわかった。地震が来る。数年前にテレビで見たあの絶望的な光景が、きっとここでも起こるに違いない。ひとみの表情は、恐怖で歪んでいる。それはきっと罰せられたことではなく、これからこの地域を襲う未曾有の被害を察してのことだろう。
 何が起こっているのかよく解らなかったけれど、ただひとつ、ここにいては危ないと判った――。
「一緒に逃げよう!」
 喉が裂けるほどの大声を出して、ぼくはひとみの手を握って走り出した。ひとみが何の神様で、なんでここにずっといるのかは知らないが、このままでは彼女も危ない。神様だから不思議なちからで大丈夫なのかもしれないが、このときのぼくは、ここでひとり取り残される少女を見捨てて逃げるわけにはいかなかった。
「ダメなのじゃ」
 彼女の手を握って、堤防の上まで駆け出そうとしたが、つんのめる。肩がもげそうな痛みが走る。ひとみの身体から想定される重さ、その何百倍、何千倍もの、質量を動かそうとしている感覚。まるでそれは橋そのものを動かそうとしているような――。
「驟」
 彼女はぼくの腕を振りほどく。
「洪水の後には肥沃が待っておるのじゃ」
 大地が揺れ、無力なぼくはやがて洪水に飲み込まれた。
 
 ※

 不思議と身体が軽く、意識だけがぼんやりとまどろんでいた。混濁した世界の中で、ちいさなひかりが灯り、ぼくはそちらへと意識を傾けた。何百年、何千年前の原風景、ひとりの少女のひとつのこころと共鳴していた。
「わたし、ですか……?」
 少女は、戸惑った表情で周囲の村人たちを見回した。帯につけられた鈴が鳴る。見覚えのある髪飾り。身につけているものから、彼女はさほど身分の高い方ではないことがわかる。少女の母らしき人が泣き崩れている。
 事情がよく飲み込めていない少女に、大人がある方向を指差した。その先には、茅葺きのみすぼらしい家があり、白い矢が刺さっていた。
「白羽の矢が立った」
「しら、は?」
「その家は贄を差し出さなければならぬ」
 ひときわ大きく母が泣く。わざとらしいほどに彼女の名を呼ぶ。ぽかんとしている少女に、大人は小難しい言葉を並べる。洪水、水神、祭儀、贄、橋。周囲の者たちの視線が、小さな彼女に突き刺さる。少女は、その身に余るほどの『期待』を感じ取る。ひとみが『信仰』と呼んでいた類の力。
「ひと、ばしら……」
「そうだ。お主の生命がこの集落を救う」

 ※

「見られてしまったか。さすがのわらわも少し恥ずかしいのじゃ」
「ひとみ……」
 ぼくは彼女に逢いたかった。あんなことを言ってしまったのに、あんなひどい言葉で傷つけてしまったのに。そしておろかにも、彼女の忠告を理解せず、こうして大洪水に巻き込まれてしまった。いま、ぼくの身体はばらばらに砕け散っているのだろうか。でも、最後にこうしてひとみと話せるのならば、悪くない終わり方のような気がする。
「君がこの川を治めていたんだ」
 ひとみは頷く。
「人々の信仰をかたちにしてな。じゃが、時代は流れて、人々は神を創らずとも荒ぶる水神を治める術を得た。人身御供などせんでよくなった。治水じゃな。次第にこの祠を憶えている者も少なくなって、わらわはちからを失っていった。
 そんなときにこの大洪水を感じたのじゃ。現代の治水のちからは強力じゃが、強すぎるちからにはめっきり脆い。全盛期のわらわならこの程度お茶の子さいさいなんじゃがな、まぁ、『信仰』も足りんし、潮時じゃろうと思っておった。巻き込んでしまってすまなかった」
 ぼくは首を振る。
「そんな、ぼくが……」
「なぁ、驟。生と死は巡り続ける。洪水は肥沃をもたらす。あらゆる出来事が、お主が立ち上がるための糧となるじゃろうて」
 あのひとみの記憶の中で、ぼくは神様がまだひとりの少女であった頃を幻視した。白羽の矢が立ち、自分には背負いきれないほどの役割を与えられ、彼女は自分の意志で『期待』に応えた。そして、その後、何百年、何千年と、ここでひとりきりで過ごしてきた。
「『期待』が怖いか。じゃが、それは『信仰』じゃ。お主のためのちからじゃ。『期待』は『命令』ではない。誰にだってそれを命じることはできんよ。その表裏で、誰もお主の手を取って立ち上がらせてもくれぬ。ただ、お主自身がそれを信じて自分を立ち上がることはできるがの」
「ひとみ……」
「ふひひ、この洪水でようやく三途の川を渡れるわい」

 ※

 退院する頃には、神無月になっていた。
 あの大震災と大洪水がニュースに取り上げられることも少なくなり、被害を受けた人々の傷も癒え始めた。吹く風の冷たさに違和感を憶えながらも、ぼくは退院したその脚であの河川敷に向かった。アラミタマートで買いすぎてしまったせいか、両手に抱えたコンビニ袋が重い。入院しているあいだに発売した、見たこともない新商品が多く出たのだから仕方がない。
「……あれは」
 立ち止まる。
 立ち止まらざるを得なかった。ぼくとひとみが過ごしたあの場所に、洪水は爪痕をはっきりと残していた。あの橋は崩落し、あの小さな祠は流されてしまったのか、跡形もなかった。両手に提げているコンビニ袋をどさりと置いて、途方に暮れた。
「いってしまったんだね」
 言葉にするべき想いははっきりとぼくの中で結実していた。
「なら、ぼくも……」
 白羽の矢が立ったあの家の少女は、決して後悔などしていなかった。その小さな身体に、あらゆる『期待』を受け止めようとしていた。何百年、何千年、この河原の片隅で人々を見続けてきたのかわからないけど、彼女は泣き言を言わなかった。たとえ、自分の犠牲が不要とも思える時代が来たとしても――。
「……にわか雨みたいだ」
 ぼくの中に感情の雨が降り注ぐ。言葉では言い表せないような感情が、ぼくの中で渦巻いて、大洪水を起こす。呻く。叫ぶ。空気が震える。ぼくがここにいる証拠。全身が震えて、心臓が沸騰しそうになる。
 期待、しがらみ、無力感。
 知らぬ間に自分で自分を縛っていた鎖が砕けるのがわかる。あの少女は、周りの目線が怖かったから頷いたわけじゃない。期待に押しつぶされて、首を縦に振ったわけじゃない。自分で選んで、自分の背中を押したんだ。
 鎖は洪水に押し流された。
 そのあとには、何が広がっているのか。

 ※

 ――さて、ようやくここからがこの物語の本題だ。
 祠の前で取り落としたコンビニ袋。アラミタマートの新商品がめいっぱい詰まったコンビニ袋。ハバネロ&イチゴ味のチップスに、納豆フレーバーのジュース。定番のお菓子もたくさん入っている。神様の好き嫌いは極端だから、数件はしごしてようやく見つけたものもある。
 翌日、散歩のついでにあの祠のあった場所を訪ねてみると、ものの見事にその袋が開けられていた。というか、各種包装紙を綺麗に片付けて、ゴミ袋として結んであった。
『驟』
「ひと……、み……」
『次は明太マヨがよいぞ……』
「おいおい」
 もしかしたら。
 もしかしたら、あの大震災と大洪水で、現代の治水に対する人々の信仰が薄れていったとしたら。皆が荒ぶる自然への恐れを抱いたとしたら。そして、それを防ぐ何かへおのずと祈っていたとしたら。その信仰が本当に神様に届くと知らずに。
 いまはどこかに隠れているのか、それともぼくの瞳で見つけられないほど弱っているのか。あるいは、神様のみが知りうることをヒトに伝えたために罰せられた影響なのか。いずれにせよ、ひとみという神様はまだ消滅はしていないようだった。
 ぼくは、自分の手のひらを見る。自分の役割を知る。
 白羽の矢。身に余る役割。過剰な期待。
 この手は、物語を紡ぐことができた手だ。もしかしたら、ここで人身御供にされた少女のことをみんなに知ってもらえたら、彼女の信仰はある程度は取り戻せるんじゃないか、という考えが頭をよぎった。また、のじゃのじゃ言いながら、ここで他愛もない話ができるんじゃないか。
 たったそれだけのこと。でもそれは、ぼくにとってなによりもたいせつなことだった。
 それは非常に個人的な願いで、もしかしたら自分勝手なことかもしれないけれど、自分が勝手にやるのだから、誰かの『期待』に押しつぶされる必要はないのだ。
 迷うよりも早く、ぼくは担当に連絡を入れていた。
 この物語を、書くために。
この河原の片隅に彼女がいるということを、『君』に知ってもらうために。

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いただいたサポートは、山田とえみるさんの書籍代となります。これからも良い短編小説を提供できるよう、山田とえみるさんへの投資として感謝しつつ使わせていただきます!(*´ω`*)