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『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!!~羊獣人と星読みの巫女~』

クロックワイズ・メカニクス小説総集編第ニ巻収録(第五話)
◯ほのぼの獣人スチームパンク短編連作。時計工房で働く犬獣人の少年クストと、技師である羊獣人の少女ウル、そのふたりを巡る物語です。

◯もくじはこちら。

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 見渡す限りの大草原、《ケムリュエ》。
 わたしたち羊獣人(オビスアリエス)は、群れをつくって草原を渡り歩くことで生活をしている。ほかの獣人種のように都市に閉じ込められたりはしない。穏やかな風の吹くこの大草原で、仔羊たちは星を見上げて暮らしている。
「《ウルウルさま》、儀式の時間です」
 一番大きな天幕の中で瞑想(おひるね)をしていると、外から若い神官の声がした。《星配置(ゾディアック)》に基づいてあらゆることが決定されるこの羊獣人(オビスアリエス)の群において、《星読みの巫女》はもっとも重要な存在だった。
「《ウルウルさま》?」
「へ、わたし? あっ。こほんこほん、すぐ行く。祭具の準備をしなさい」
 二度呼びかけられて、わたしはようやく《ウルウルさま》とは自分のことを指しているのだと知る。そうだ。わたしはウルウル=ドリィメリィ特等皇女。《輝き征く暁光の星配置(ゾディアック)》のもとに生まれた、祝福を受けし巫女だ。
「わたしはお姉さま(ウルウル)」
 祭具のひとつである鏡を見つめる。そこには羊獣人(オビスアリエス)独特の化粧をし、雅な巫女装束に包まれた少女がいた。お姉さまとうりふたつ。熱病により失われた片目を髪で隠し、薄汚れた民族衣装を身にまとっていたわたしとはちがう。
 わたしのほんとうの名前は、エルエル=ドリィメリィ。ウル特等皇女の双子の妹であるが、生まれてくる時間が微妙にずれてしまったせいで、《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》のもとに生まれてしまった忌み子だ。

 『羊獣人(オビスアリエス)と星読みの巫女』

 天幕から出ると、大勢の神官たちがわたしを出迎えてくれた。神官見習いの少年たちも数人混じっている。眼の前にある環状列石は古代の羊獣人(オビスアリエス)が建造したものだ。星配置(ゾディアック)により下された託宣に従い、羊獣人(オビスアリエス)の群れはそれを巡って旅をしている。
 夜空を見上げれば、数えきれない星々が瞬いていた。わたしは一度だけこのケムリュエの大草原を出たことがある。その旅の途中でさまざまな都市国家を巡ったが、これほど素敵な星空が見えるのはここだけだった。いまでもはじめて夜空の星々を見つめたときのことは忘れない。
「羊獣人(オビスアリエス)の巫女の名において星読みを執り行う」
 《優麗なる竪琴の星の群れ》は宵闇の方角に七度、《悲壮なる黒山羊の星の群れ》は暁光の方角に四度。星々の運行は、この世界のありとあらゆる事象を反映している。星読みの神器《天球神託盤(アストログラフ)》はそれを補助するものだ。同じような法則で運行する星々が一枚の真鍮の円盤に描かれており、それが何重にも重ねられている。円盤一つ一つを回していき、計算によって得られた星空が手のひらの中に映し出される。
 しかし、実際の星々の運行は、計算とは微妙に食いちがう原因不明のズレが生じる。わたしは目視で観測をして、手元の円盤とのズレを探していく。数字で語り切れない理論値のずれを、託宣として解釈をするのが星読みの巫女の仕事だった。
「ふぁ~。むにゃむにゃ」
 あくびを噛み殺して夜空を見上げる。
 だいたい羊獣人(オビスアリエス)は他種族に比べて睡眠時間が異様に長いのだから、深夜に星を見上げるという行為自体向いていないのだ。『お布団の中で夢を見ていたほうが楽しいのに……』と心の中でぶつくさ言いながら、わたしは片目に意識を集中する。
 幼い頃、熱病により失われた片目には、お姉さま特製の義眼が組み込まれている。歯車と魔法で動く、ほんものそっくりの義眼。失われた片目さえ補えれば、からだを構成するものがまったく同じはずのわたしたち双子は区別がつかなかった。
『わたしたちのからだを構成するものは、なにひとつ違わないというのに』
 慣れるまでは魔力の調整など手間取ることも多かったが、この義眼になってよいこともあった。《クロックワイズ・メカニクス》謹製だからか非常に性能がよく、並の羊獣人(オビスアリエス)の視力を遥かに上回る性能を誇るため、正確に星を読むことが出来ていた。生まれた星配置(ゾディアック)ではお姉さまのほうが巫女に向いているのだけど、少なくとも観測においては、いまのわたしのほうが出来が良かった。
 儀式の手順は複雑で難しい。もちろん星を正しく観測することもたいせつな能力だったが、それ以上に祝詞を暗記し、毅然と振る舞って儀式を遂行する能力のほうが、星読みの巫女には求められていた。忌み子であったわたしにはそもそもまともな教育がなされなかったため、入れ替わりを提案したお姉さまはそのことを心配していた。
『色々憶えないといけないけど、エル、大丈夫?』
 クロックワイズ・メカニクスの工房でそう聞かれたとき、わたしは即座に頷いて、長い祝詞を諳んじてみせた。それを聞いたお姉さまは目をまんまるにして驚いていた。『どうして……?』という疑問に、わたしは曖昧に笑ってみせた。こればかりはお姉さまにも秘密だ。
 祝詞も終盤。星を観測しながら操作している手元の《天球神託盤(アストログラフ)》の調整も終盤に差し掛かってきた頃、それは起こった。
「ぐぅうううう」
 腹の虫が盛大に声をあげた。きゅるるるぅ。ぐうううぅ。ぐぉおおおお。まるで《羊獣人(オビスアリエス)を根絶やしにするという神話に語られる悪魔(ジンギスカン)》のような声を上げて、わたしのお腹は鳴り続けた。だめだ。お腹すいた。ぺっこぺこだ。託宣を待って気を張り詰めていた神官たちは、ぽかんとわたしを見つめている。
「……おなかすいた」
 ぼそりとそう呟く。アンティキティラの出店で食べたあの食べ物たちが思い出される。羊獣人(オビスアリエス)の食事は基本的に野菜で味が薄く、そのうえ忌み子として嫌われていたわたしはまともな食事を与えられてこなかった。だからこそ、あそこで出逢ったジャンキーな食べ物にわたしは惹かれてしまった。からあげ、フライドポテト、コロッケ、焼きそばにラーメン。どれもこれも信じられないような美味しさで、気がつけば有り金が底をついていた。
 思い出すと余計お腹が空いてくる。
 祝詞が急に途切れたことにざわつく神官たちだったが、その中で特に若い神官がひとりわたしの側に駆け寄ってくれた。
「ラム、ありがと」
「巫女さま、なにをご所望ですか」
「からあげ食べたい……!」
「かしこまりました」
 守護神官であるラムはわたしの言葉を聞きつけて、すぐに近くの天幕へと走っていった。すでに用意がしてあったのか、こんもりとからあげが乗っている皿を持って駆けつけてくれる。もう、用意してあるなら先に出してくれればいいのに。さっきから美味しそうな薫りがしていたのは、そのせいだったのか。
「巫女さま、からあげでございます」
「焼きそばも食べたい」
「いますぐに用意します」
「たこ焼きも。ソースとマヨネーズたっぷりで」
 わたしの振る舞いにいまだ慣れない神官たちと、てきぱきと給仕をしてくれるラム。わたしがあれこれ言う度に、目の前のテーブルにじゃんじゃか置かれていく。その香ばしい薫りに、よだれが溢れ出しそうになる。
「美味しい! これも美味しいけど、あれも美味しい!」
 そんなわたしを、神官ラムは目を細めて見つめていた。

 ※

 星読みの神官たちのあいだでは、最近はずっとひとつの話題で持ちきりだった。
『都会というものは実に恐ろしい……』
 最近の特等皇女さまをみていると、そう思えてならない。むかしはあんなに大食ではなく、奔放でもなかった。真面目な表情で星読みの儀式に臨み、食事も必要最低限しか取らず、口数も少なかった。まるで人が変わってしまったようだ。
「ラムー、儀式が終わったらまたおなかすいちゃった。餃子が食べたい!」
「ああ、巫女さまっ、せめてお着替えをなさってから!」
 奔放な巫女さまはこうしてわがままを言っては、守護神官であるラムを困らせている。そのすがたは一族の行く先を示す巫女(シャーマン)ではなく、ただのこどものようだ。なにが楽しくてあんな巫女に付き従っているのかわからないが、ラムには心底同情する……、それが神官たちの共通意見だった。
 ウルウル=ドリィメリィ特等皇女は、数年前のある儀式を境に忽然とこのケムリュエからすがたを消した。我々は大混乱の極みだった。巫女の星読みにまつりごとのほとんどを依存していた羊獣人(オビスアリエス)にとって大げさではなくそれは死活問題だった。
 当面は先代の星読みが代理で行うこととなったが、すでにかなりの歳を召されていて、長年の星読みで視力もほとんど限界に達していた。そのため、忌み子を遣わせ、ウルウル=ドリィメリィ特等皇女を呼び戻した。しかし、数年ぶりに我々の前に姿を表した彼女は大きく変わっていた。
 特にその胸である。きっとアンティキティラで暴食の限りを尽くしてきたのだろう。成長期ということもあるのかもしれないが、家出前は慎ましかった胸が、帰ってきてからは巫女衣装を作り直さなければならないほど豊満なからだになっていた。
「まさか忌み子と入れ替わったのではないか」
 そんなことを言う神官もいた。
 《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》のもとに生まれた、ウルの双子の妹、エルエル=ドリィメリィ。存在そのものが凶事と読まれるその星配置(ゾディアック)を背負って生まれた彼女は、幼い頃からほとんど幽閉に近い生活を送っていた。
「たしかに、忌み子と巫女さまは双子だ。入れ替わろうと画策をしたのであれば、我々にはわからないのではないか。些細な違いは、成長による変化だと強弁することもできる」
 そんなことを言う神官もいた。
 仮に《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》が、《輝き征く暁光の星配置(ゾディアック)》を騙っているのだとしたら、これは一族として大問題となる。星読みの託宣に群れが従うのも、星読みの巫女の権威があるからだ。その権威が、《星配置(ゾディアック)》で忌み子と規定されていたものが行ったとなれば、羊獣人(オビスアリエス)始まって以来の大問題となる。
「ここはきちんと白黒はっきりつけたほうがよいのではないか。一族全体の問題だ」
「いやしかし、仮にも巫女さまだぞ。我々の信仰だって疑われることになる」
「信仰しているからこそ、真偽を明らかにしようと言っているのだ」
「なにより、星読みをするのにあんな食事を要求するというのが解せん。やはり多少強引な手段を取ってでも、かの巫女が偽物であるということを明かしたほうがよい。先代も理解してくれよう」
 などと剣呑な話をしていると、
「ちがいますよ。彼女はエルではありえません」
 ひとりの少年が神官たちの輪に入って、声を上げた。
 ラムと呼ばれた若い神官。選ばれたものしか着ることが許されない守護神官の衣装に身を包み、目深に被ったフードから鋭い視線を周囲に向ける。神官一族《シェラタン》の生まれであり、ここにいる誰よりも巫女に近しい神官だった。
「みなさんご存知のとおり、あの忌み子には片目がありません。しかし、いまの星読みの巫女さまの両目は健在です。どころか、いままでの誰よりも正確に星を読んでいらっしゃる。祝詞だって完璧だ。ここに何を疑うことがあるのでしょう」
 少年の淀みのない言葉に、神官たちは押し黙るほかなかった。

 ※

 まったく。
 こちらとしては巫女さまの食事のお世話で手一杯だというのに、余計な手間をかけさせるんじゃない。決まりが悪そうに散り散りになった神官たちを見ながら、ぼくはこころのなかでそう呟いた。羊獣人(オビスアリエス)に対する権威ばかり見つめて、星を見ないからそうなるんだ。
 神官たちの興味はもっぱら星読みの巫女。そして彼女が下す託宣だった。それは文字通りあらゆる面で群れに対する影響力を持っていた。あるものは巫女を懐柔しようとし、あるものは託宣を先取りし、利益を独り占めしようとした。いずれもうまくいかなかったけどね。
 腐敗した神官たちはそうやって自分の手元しか見ようとしないから、あの忌み子が片目を失っていたことすら忘れてしまう。熱病に浮かされ、取り返しがつかなくなってしまった消えない傷。それはぼくのこころにも刻まれている。星を見る一族である羊獣人(オビスアリエス)にとって、片目の喪失はあまりにも大きな意味を持っていた。
「エルエル=ドリィメリィ……」
 彼女が片目を失ったのは、ぼくのせいだ。

 ※

 ラムラム=シェラタン=アストレイ。その名前に含まれる《シェラタン》とはおひつじ座二番星のことを指す。守護神官として、特等皇女を支え続けてきた一族の称号だった。
 先代の星読みの巫女は、ふたりの娘を授かった。双子のウルウルとエルエル。生まれてきた時間の微妙なちがいにより、ウルウルは次代の星読みの巫女となり、エルエルは忌み子として一族から忌避されていた。
「あの、食事をお持ちしました。エル……」
 そのときぼくは神官見習いですらなかったから、その忌み子の世話役として働いていた。羊獣人(オビスアリエス)は星配置(ゾディアック)の託宣に従って住む場所を変えながら、天幕を張って居住している。星読みの巫女の立派な天幕とは対象的に、忌み子の天幕は群れの外周、しかもそこからぽつんと離れたところに配置されていた。まるで、外敵に襲われたときに囮として機能するかのように。
 エルはその中でひとり、鎖に繋がれていた。髪の毛はぼさぼさで、曲がりなりにも一族の伝統衣装を身にまとっているが、さまざまなもので汚れていた。獣のような、すえた臭いが鼻についた。
 残飯の乗った皿をいつものように置くと、エルはそれに飛びついた。からだにつけられた鎖がジャラジャラと鳴り、それは四肢に食い込もうが構わないようすだった。がつがつと手で残飯をかきこむその姿はまさに忌み子で、ぼくは顔を背けた。
 これが星読みの巫女さまと双子だって?
 あの美しいウルウル=ドリィメリィ特等皇女と? 
 とても信じられなかった。ぼくはいますぐにでもここを立ち去りたかったが、食べ終わった食器を持って帰らなければいけなかったから、エルが食べ終わるのをじっと待っていた。お皿に残ったものを舐め取った彼女は、カランとその皿を投げた。
 ようやく食べ終わったか。そう思って皿を拾いに行こうと思うと、エルの瞳がぼくをじっと見つめていた。髪はぼさぼさで、からだは汚れていたが、その瞳だけは透き通っていてとても綺麗だった。
「ねえ、あなたはどうしてご飯をくれるの」
「えっ」
 まさか話しかけられるとは思っていなかったから……、いや、正直なところを話せば、まさか人語を話すとは思ってもみなかったから、エルにそう尋ねられたときは心底驚いた。と、同時に、忌み子と接する時間は最小限にしなさいと言われていたことを思い出した。
「これから仕事が……」
「話をして。ねえ、いいでしょう」
 食器を持って立ち去ろうと思っていたのだが、エルのその瞳がぼくを動けなくした。さっきまでぼくは獣かなにかの類だと思って接していた。けれど、彼女は言葉を話した。ぼくと曲がりなりにもコミュニケーションを取った。彼女は羊獣人(オビスアリエス)なのだとこのとき気がついたんだ。
「食事が終わったらすぐに帰るように言われている」
「じゃあ、まだ食事は終わっていないわ。ぺろぺろ」
 そう言って、彼女はぼくの手にあった皿を舐め始めた。忌み子と蔑まれ、この小さな天幕の中でひとりきり。そんな生活を何年続けてきたのだろう。『ね、話をしてくれる?』というエルの言葉につい頷いてしまったぼくは、彼女と少し距離を取って腰を下ろした。
「少しだけなら付き合ってやる」
 ぼくは羊獣人(オビスアリエス)の文化について様々なことを教えた。天幕というテントで群れをなして暮らしているということ。星読みの託宣により住む場所を変えながら、ケムリュエを旅しているということ。行商の商人から聞いた外の世界の話も、まるで自分のことのように話した。獣人というのは羊獣人(オビスアリエス)だけでなく、犬獣人(ファミリシア)や翼獣人(アシプテリス)などさまざまな種類がいること。大陸中を飛び回っている白い魔女のこと。蒸気による産業革命。ケムリュエの外はわくわくすることでいっぱいだ。父にそういった話をすると怒られてしまうので、エルは恰好の話し相手だった。
 そんなやりとりが日常になってきた頃、エルはひとつの質問をぼくに投げかけた。
「お姉さまとわたしはなにがちがうの?」
 ぼくは一瞬言葉に詰まったが、神官長である父が話していた内容をすぐに思い出した。
「生まれた星配置(ゾディアック)がちがうんだ」
「わたしとお姉さまは双子なのに?」
「微妙な時間のズレで、《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》にかかってしまったんだよ。一族の掟によって、この《星配置(ゾディアック)》に生まれた者は忌むべき子として扱うことになっている」
「わたしとお姉さまを組み立てているものは、なにひとつ違わないというのに?」
「それは……」
 どうしてエルが忌み子として扱われているのか。どうしてウルは星読みの巫女として一族の中心に立っているのか。結局ぼくには説明ができなかった。《星配置(ゾディアック)》がそれを示しているから、それ以上の言葉がなく、エルの視線が痛かった。そのときのぼくは、自分が神官見習いであるから答えられないのだと結論づけた。父ならば。《シェラタン》の一族である神官長ならば、きっとこの疑問にも答えてくれるはずだ。

 ※

「お父様、忌み子とはなんなのですか」
 食事の際に、ぼくはそう切り出してみたことがある。父は《シェラタン》の神官長。星読みの巫女を補佐し、その他あらゆる儀式を司る。この疑問をぶつけるのにこれ以上の適任者は考えられなかった。ぼくの疑問に父は、ナイフとフォークを動かす手を緩めなかった。
「教えたとおりだ」
「《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》に生まれたからですか」
 頷く父。
「では、《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》とはなんなのですか」
「それも教えたとおりだ」
「忌み子であることを示す星配置(ゾディアック)ですか」
 頷く父。
 そのくらいぼくだって知っている。でも、それでは順繰りのトートロジーだ。どこまでいってもおなじところを繰り返すだけで、そこに《理由》は見つけられない。エルがあんな目に合わないといけない理由は見つからない。
 切り口を変えてもういくつか質問をしてみたのだけど、実のある回答は得られなかった。『くどい』と一蹴され、父は席を立ってしまった。ぼくはほとんど手がつけられていない食事を見つめながら、考えていた。こんなの、エルにはなんと伝えたらいいんだ。
「父さんは気が立っているのよ」
 お皿を片付けに来た母がそう言った。
「ウルさまの星読みの巫女としての初舞台、神官長として失敗させるわけにはいかないわ」
「……ウルさま」
 あの薄汚れた天幕でエルが虚空を見つめているあいだ、双子であるはずのウルさまは星を見上げているのだ。一族中から注目され、必要とされ、期待されている。ウルとエルの扱いのちがい。これは《星配置(ゾディアック)》がそうだったからという理由だけで、許容されるものなのだろうか。
 部屋に戻ってからも、このもやもやは消えず、『なぜ』という疑問符があたまのなかを埋め尽くすばかりだった。ベッドに入ってからもなかなか眠れず、ぼくは何度も寝返りを繰り返した。

 ※

「ごめん、エル。お父様は儀式の準備で忙しそうで答えてはくれなかったよ」
「そう」
 このころになると、エルはもう食事を手づかみで食べることはなくなっていた。ぼくが木製のスプーンを持ってくるようになったからだ。そして、夕食の席で出るパンも毎日ポケットに隠して、エルのところに持ってくるようにしていた。いつまでもこんなものばかり食べてちゃ、からだを壊してしまう。
「年に一度の大きな儀式。ウルさまの初舞台でもあるから、かなり張り詰めているみたいだ」
「お姉さまの」
「すごく綺麗だったよ。一族の巫女装束があんなに似合うひとははじめて見た」
 群れとしての一大行事であって、全体として浮かれていた。ぼくは遠巻きにしか見ることができなかったけど、巫女装束を着て櫓の上で舞うウルさまは、月光に照らされて、まるでかみさまかなにかのようだった。彼女が星を読み、託宣をくだしたならば、自然と従ってしまうようなそんな神々しさがあった。
「いいなぁ」
 とエルが呟いた。双子の姉であるウルの晴れ姿を彼女にも見せてあげたかったが、あの衣装は忌み子は見てはならないことになっていた。双子。そうだ。双子なのだから。
「そうだ。ちょっと待ってて!」
 ひとつ、思いついたことがあった。
 ぼくは一度自分の天幕でお湯を沸かし、タオルを持って、エルのもとに戻っていった。このエルの悲惨な状況をなんとかしたいと思っていた。これはエルがエルだから起こったものではないことにうっすらと気づいていた。忌み子と名付けられてしまったからこそ、周りのものたちも彼女をより忌み子らしく扱うようになっていったのだ。そこには少しの正義も倫理もない。
「エル。このタオルを渡すから、髪とからだを拭きなよ。石鹸はこれ。お湯はここに置いておくから」
「なんで?」
「君はウルさまと双子なんだろ。だからきちんとした身なりをすれば、ウルさまと同じくらい綺麗になるはずなんだよ」
 エルは少し戸惑ったように、顔をそむける。
「いい。わたし、忌み子だし……」
「関係ないよ。ぼくもそんなエルの姿を見てみたいし。それに、ちょっと言いづらいけど、ここにはじめて来たときから、すこしにおうよ……? あっ、ちょっとだけね、少しだけ。におうっていってもいい意味でなんだけど……」
 エルは顔を真っ赤にしてタオルを受け取った。もう少し傷つけずに伝える言い回しはなかったのか。自分の語彙のなさに落ち込んだ。
「それじゃ、ぼく出てるから終わったら呼んでね」
 天幕から出ていこうとするぼくの裾を、エルが掴む。
「わたし、拭けない」
「はい?」
 エルは自分の手を持ち上げる。じゃらじゃらと鎖がついてくる。ああ、そうか。忘れていた。この鍵は先代が持っているから、外すことはできない。どうしようかと悩んでいると、エルがおもむろに後ろを向いて服をはだけた。
「エ、エル!?」
「ラムが拭いて」
 淡い蝋燭の灯りに照らされて、白い背中があらわになる。
 天幕の中にこもるエルの薫りがいっそう濃くなった。それがいい意味でなのか、悪い意味でなのかは、なかばパニックに陥っていたぼくにはよくわからなかった。とにかく、めまいがしそうになりながら、ぼくは頷いてみせた。

 ※

「ひゃあ」
「エル?」
 エルが突飛な声を出したので、驚いてしまった。
「……ラム、そこはこしょぐったい」
「えっ、でもしっかり洗わないと。ここは汚れが溜まりやすいし」
「ひゃあ、ひゃあ」
 いろいろな意味で忘れられない一夜になった。

 ※

 《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》のもとに生まれた忌み子、エルエル=ドリィメリィは、群れからひとりだけぽつんと離れた天幕にひとりで暮らしていた。食事を持ってきたり、からだを拭くものを持ってきたりと多少環境は改善されたが、それでもひとがまともに暮らせるところではなかった。
 その最たる原因は、彼女を縛り付ける鎖。頑強な枷の末端は天幕そのものの杭に固定されていた。天幕は何人もの羊獣人(オビスアリエス)で組み上げるものだから、気づかれずに鎖を外すことはできない。鍵は先代巫女が持っており、神官見習いであるぼくが容易に近づける存在ではない。
「いいよ、無理しないで」
 一度力ずくで外そうとしてみたものの、エルが寂しそうな顔をするだけでビクリともしなかった。もう二三度ちからを込めて外そうとしてみるが、やっぱりダメでぼくは尻もちをついてしまう。
「ラム、だいじょうぶ?」
「いてて。大丈夫」
「別にわたしは繋がれたままでいいのに……」
 じゃらりと鎖を鳴らして、エルは自分の足首を見つめた。エルにとっては忌み子として生まれたころからつけられている鎖だ。ぼくたちが服を着るくらい当たり前のものなのかも知れない。
「どうにか外して、君に星を見せてあげたい」
「星……?」
 羊獣人(オビスアリエス)は星を見る一族だ。エルだって、その一員であるはずだった。
「それに、鎖がつけられてる君のすがたはあまり見たくない」
 とはいえ、忌み子を縛るこの鎖は容易に外すことは出来ず、さまざまな手法を試してみたものの、外すことはできなかった。いっそ天幕ごと外してやろうかと思ったのだけど、さすがにそれは洒落にならない。逆に崩れた天幕を、夜中のうちにひとりで組み立てる方法を考えたほうがいいのではという思考になってきた。
 次の日からは天幕の大黒柱を登り、構造を考え始めた。折りたたんで移動することを前提に作られているから、重い材木の材料は少ない。他はケムリュエ織りの軽い布と、張力で構造を維持するための糸。複数人での同時作業なら簡単なのだけど、群れで生活する羊獣人(オビスアリエス)である以上、そもそもひとりで組み立てる構造にはなっていなかった。
「あ、そうか」
 天井を見つめていると、アイディアが閃いた。天幕はひとりではどうすることもできないが、そもそも天幕をどうにかする必要はなかったんじゃないか。ぼくの目的は、エルに星のまたたく夜空を見せること。そのための障害物として外せない足枷があり、それは天幕それ自体に繋がれている。そう考えると、ずいぶんと目的とは遠回りしたところで右往左往していることがわかった。もっとシンプルに、目的を達成するための手段がある。
「エル。君に星を見せる方法がひとつだけあった!」
「ラム?」
 ぼくは天幕の大黒柱を登り、天井付近にある足場に体重を預ける。いくら忌み子の天幕であっても、組み立て方や強度は他の天幕と変わらないようで安心した。そして天井付近に張り巡らされている複雑な糸から一本を選び、慎重に引っ張っていく。すると、天幕の面を構成している布の一枚がするすると巻き上げられていく。
 月の灯りが部屋を照らし、不安そうに見上げていたエルの瞳に星々が映し出される。
「……すごい。数えきれない」
 エルがはじめて見た満天の星空に見とれているころ、ぼくははじめて見たエルのその表情に見とれてしまっていた。それはいままでに見たどんな星空よりも輝いていて、いつまでもこころに刻み込まれることになった。
 エルは指を中空で動かして、星々をなぞっていく。
「どれが《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》なの?」
「星の名前じゃないよ。星の運行の組み合わせの名前」
 ぼくは大黒柱にまたがってするすると降りる。肩にかけているかばんから本を取り出して、エルに渡した。それは父がかつてぼくにくれた手稿だった。
「星の見方はここにわかりやすく書かれてるよ。文字は読める?」
「ううん」
「じゃあ、読めるようになるまで一緒に音読していこうか」
 エルのとなりにあぐらをかいて本を広げると、鎖の音がした。エルが本を覗き込むためにぼくに密着してきたのだ。吐息すら聞こえるようなその距離で、ぼくの心臓は爆発してしまいそうだった。エルの薫りにあたまがくらくらして、自制をしていないともっと近いところで薫りを嗅いでしまいそうだった。
 自分の気持ちをおちつけて、本の内容に集中する。まずは星読みの巫女が取り扱う神器の中でももっとも重要な《天球神託盤(アストログラフ)》。その神器は何重もの真鍮の円盤で構成されていて、星々が描かれている。天球上を同じ法則で移動する星々をひとつの円盤に示し、以前の儀式からそれぞれがどのように移動したのかを盤を回すことによって補正していく。計算では導けないそのズレこそが《天意》であると羊獣人(ぼくたち)は考える。その意図を解釈することこそが、星読みの巫女の仕事なのだ。
「でも、どうしてこんなに教えてくれるの」
「君も羊獣人(オビスアリエス)のひとりだからね。星くらい読めないと」
 こんな当たり前のことに、エルは目を丸くして驚いていた。
「わたしも羊獣人(オビスアリエス)のひとりだったんだ……」

 ※

「くしゅん」
「エル、大丈夫? すごい熱だけど」
「だいじょうぶっくしゅん!」
「とりあえず毛布は持ってきたから、これにくるまっていてね。暖かいお茶も定期的に持ってくるから」
「ありがとっくしゅん」
 あの夜以来、何度か天幕を開けてふたりで星を眺めていた。そのときにからだを冷やしてしまったのか、エルにとって良くないものが入ってしまったのかわからなかったが、エルは高熱を出して寝込んでいた。できる限りのことはしたけれど、症状はいっこうによくならなかった。《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》の忌み子であることを理由に、羊獣人(オビスアリエス)の呪術医にも診療を断られ、いまぼくに出来ることは、エルのからだが本来持っているはずの治癒力を信じることしかなかった。
 短く苦しそうな息をしながら、熱に浮かされた顔でエルはぼくを見つめる。
「それから、なにか必要なものがあれば、すぐに言ってね」
「そばにいて」

 ※

「なにをしている、ラム」
「お父様。高熱に対する薬はありませんか。至急、必要なのです」
「お前は健康そのものではないか」
「ぼくではありません」
「また、忌み子か」
 父はこれみよがしに大きなため息をついた。
「お前は星読みの巫女に仕える《シェラタン》の一族なのだぞ。いまはそんなことをしている場合ではないだろう。一年に一度のこの儀式、その重要さがわからぬわけではあるまい。羊獣人(オビスアリエス)すべての命運がここで決まるのだ」
 ぼくは箪笥を中身を漁る手を止めない。おそらく父はこう言ってくるだろうなと思っていた文句を一字一句違わず言われ、辟易していた。小さな頃から神官見習いとして、星読みをはじめ各儀式や行事の意味は叩き込まれてきた。だから、あの儀式の重要さはよくわかっている。この結果次第でどれだけの影響が出るかもわかっているし、もし失敗すればどれだけ悲惨なことになるかもわかっている。
 でも、それより重要なものがあるだけだ。
「お父様はエルをなんだと思っているのですか」
 言うべきではないことだったかも知れない。神官見習いとして、シェラタンの一族として。けれど、言葉が勝手に出てしまっていた。振り返った父の顔は、形容しがたいものだった。深い皺、鋭い眼。そこに刻まれていたのは、使命だろうか、怒りだろうか。それともぼくに対する失望だろうか。
「ラム、お前は……」
 と父が口を開いたところで、ぼくたちふたりは弾かれたように天幕の外を見つめた。なにかが近づいてきているのがわかったからだ。それは羊獣人(オビスアリエス)ではありえないレベルの魔力を伴って飛んで来ている。
 父は言いかけていたことを飲み込み、天幕の扉を開けた。
「やぁ、遠いところよく来ていただいた」
「お招きいただき光栄ですわ」
「《調停の魔女》とその使い魔(ファミリア)よ」
 ぼくが顔をあげると、そこには箒にまたがった白い魔女装束の少女がいた。箒の先端には、生意気そうな黒い子猫があくびをしながら顔を擦っている。かなりの速さで飛ばしてきただろうに、花びらが落ちるような速度で箒がゆっくりと地上に近づいていった。
「……調停の、魔女」
 マナリア=ディデュモイ=ラティナリオ。話には聞いたことがあったが、この目で見るのははじめてだった。この大陸で唯一、けものの特徴を持たない稀少な種族である《魔女》。その役割は、境界に立つ者。獣人種同士の争いごとを、どちらにも属さない立場から判断して収める《調停の魔女》だ。
 どうやら新米巫女のお披露目のために呼んだらしい。魔女というものは大陸中を飛び回っており忙しく、ほとんどアポイントメントが取れないという話は聞いたことがあった。けれど、こうしてわざわざ魔女がやってきたあたり、羊獣人(オビスアリエス)の群れにおける星読みの巫女の重要性を理解してくれているのだろう。
「いつ来てもケムリュエは良いところですね。都市ばかり飛んでいると、ここの開放感に癒やされます。空気も綺麗で美味しい」
 『ん~』と気持ちよさそうに伸びをする魔女の肩に、黒猫がひょいと飛び乗った。父は、来賓のための部屋に案内をしようとする。
「どうぞ日々の疲れを癒やしてください。甘味も用意してあります」
「わぁ。嬉しいです! 羊獣人(オビスアリエス)の新たな星読みの巫女が生まれると聞いてご挨拶に参っただけなんですが、せっかく用意していただいているとなるとスイーツを食べないわけにはいきませんね! いやあ、全然まったく予想もしていなかったです」
 肩の上の黒猫が冷たい視線で見つめていた。
「マナったら、最初からそれが目的だったじゃん」
 と言いかけたところ、魔女の腕が光の速さで動き、黒猫の口を塞いだ。
「なにか?」
「いいえ、使い魔(ファミリア)も星読みの巫女さまにお逢いできるのが楽しみだと言っています」
「もごもご」
「それより、これを持ってきましたよ」
 魔女は肩からかけていた大きなバッグをテーブルに下ろした。ファスナーを開けると、中には数え切れないほどの小瓶が敷き詰められていた。中には細かく砕かれた粉末が入っており、それぞれにはラベルが貼られている。
「今回はレプトン草を中心に持ってきました。なかなかケムリュエにお邪魔する機会もないものですから、大量に持ってきました。出血大サービスですよ。グラヴィトン草とヒッグスの種は、存在確率が不確かなのでしっかりと取り扱ってくださいね」
「おお、いつも助かる。魔女よ。我らは自給自足を旨とはしているが、これらの薬草はどうしてもケムリュエでは手に入らなくて困っておったのだ。先代に渡しておくとしよう」
 薬草。
 父はそう言った。脳裏に、苦しそうにしているエルのすがたがフラッシュバックし、ぼくはとっさに魔女の前に飛び出していた。これだ。これに頼るしかない! いきなり飛び出してきたぼくに警戒をしたのか、黒猫使い魔(ファミリア)が肩から降りて魔法陣を展開した。掌握された光子は黄緑色に輝いている。羊獣人(オビスアリエス)では太刀打ちのできない魔法の強度だったが、関係ない。ここで退いては、エルが取り返しのつかないことになってしまう。
 ぼくはシェラタンの一族である誇りも父の恐怖も棄て、叫んだ。
「たっ、たすけてください!」

 ※

「どうしてこんなになるまで放っておいたの!」
 エルの天幕での、魔女の第一声はそれだった。ぼくが説明しようと口を開くのも待たず、魔女は次から次へと黒猫の使い魔(ファミリア)に指示を出していった。《レプトン草》、《黒睡蓮》、《時間等曲率漏斗(クロノシンクラスティックインファンディブラム)》などの専門用語が飛び交う。神官見習いとして、星読みだけでなく魔法や薬草学にもある程度の知識はあると自負していたが、そんなぼくにとっても、全然わからない単語だった。
 黒猫は魔法で開いた《門》から次々と言われたものを取り出していった。
「クロ、《魔法伝導素(エーテル)》」
「あいよ」
「クロ、《未来視作用素(ラプラシアン)》」
「はいはい」
「クロ、《なんか甘い物(スイーツ)》」
「お腹空いたの!?」
「糖分が必要なのよ」
「使い魔(ファミリア)使いが荒いんだから」
 見事な連携で薬草が次々に調合されていく。苦しそうに短く息を吐いているエルに、少しずつその薬を飲ませる。かなり苦いようでエルは眉根を寄せるが、魔女が優しく飲ませていって飲み切ることが出来た。
「とりあえずこれでようすを見て。薬はとりあえず二週間分は残しておくから、一日二回飲ませてね。食後が好ましいけど、食欲がないようだったら無理はさせないで。それから、生活環境はこの子の免疫力に直結するから、必ず清潔を保ってね」
 ぼくは涙目になりながら、何度も何度も頷いた。気のせいかも知れないが、エルは若干穏やかに眠っているようにも見える。このマナという魔女がしてくれたことはまさに《魔法》のようで、ぼくは感謝しなかった。魔女は額に浮かんだ汗を拭って立ち上がり、ぼくの頭に手を置いた。
「君がいなければもっと取り返しのつかないことになってた。この子も、君が手を握っていると安心した感じだった」
「ありがとうございます」
 魔女はうんうんと頷いて、エルのほうを見返した。
「《調停の魔女》という仕事柄、あんまり文化を否定するようなことは言えないんだけど、ここの星配置(ゾディアック)の信仰は独特だね。都市部にいれば、もう少し他種族の干渉とか民主的手続きとかあって是正されていくんだけど、羊獣人(オビスアリエス)は他の社会から孤立しているからね……」
 ぼくが首をかしげていると、マナは他の都市部での話をしてくれた。クロがチャチャを入れるからなかなか話は進まなかったけれど、蒸気と歯車の街での思い出を語ってくれた。
「少し喋りすぎちゃった。そろそろ戻らないと、神官長さまに怒られちゃうね」
 と、魔女帽子を被って立ち上がった。天幕を出るときに、マナはとても悲痛な表情をして口を開いた。
「あと、この子の右目だけどね、最悪の場合、……」

 ※

 その夜、ぼくはいつものようにエルの天幕に荷物を持って向かっていた。星読みの祝祭がつつがなく終わり、ウルウル=ドリィメリィ特等皇女は巫女としての仕事を十全に果たした。彼女が、いまの星配置(ゾディアック)から読み取った託宣は、『星々のように輝く円環と、星々のように回転する機構との、その交わる場所において冥府の扉は開かれる』というものだった。神官たちはその真意の解釈に戸惑っていたが、ぼくにはどうでもいいことだった。エルを救ってくれなかったお告げなど、これっぽっちも信じる気になんてなれなかった。
 魔女の薬草により、エルの症状はしだいに収まってきたが、高熱の影響で片目を失うという結果を招いてしまった。もう少し早く処置が間に合えば、それを防ぐことができたと思うと、自分の無力感が悔やまれてならない。
 星を読む一族である羊獣人(オビスアリエス)にとって、目を損なうということがどれほど重大で致命的なことか。
「もし……」
 時計の針が逆しま(アンチクロックワイズ)に回らないということは充分にわかっているが、もし、一年に一度の祝祭というイベントとウルが始めて星読みの巫女として仕事をするということがなければ、もっと神官たちにも余裕があっただろう。そうしたら、群れの医者もエルを診てくれたからもしれない。ぼくは何もしてあげることが出来ず、あのときたまたま祝祭のゲストとして呼ばれていた魔女がいなければ、エルのいのちは失われていただろう。
「くそっ……!」
 天幕に近づくと、エルではない誰かの気配を感じた。新月のため誰か判別はつかないものの、天幕の前に誰かが立っている。背中に大きな荷物を背負っている。いまはその時期でもないのに、生活用具一式を背負った移住の装備だった。目深にかぶったフードからは、羊の角が見え隠れしている。
「エル」
 聞き慣れた少女の声が耳に入った。
 ぼくはその声ですぐにわかった。エルの声と見紛うそれは、紛れもなく双子のウルウル=ドリィメリィのものだ。星読みの巫女。彼女に直接の責任はないにせよ、エルがこうなってしまったその原因。いまさらどんな顔をして顔を出しに来たんだ……。血がにじむほど唇を噛んだぼくは、この木陰から駆け出そうとした。星読みの巫女を一発でも殴ってやらなければ気がすまなかった。でも、それを実行に移す前に、ウルは口を開いた。
「わたしはこのケムリュエを出るわ」
 その言葉が信じられなくて、ぼくは木陰から出るのを踏みとどまった。星読みの巫女、それはこの羊獣人(オビスアリエス)の群れにおいてもっとも重要な存在であり、みなから尊重される存在だ。ケムリュエそのものと言ってもいい。
「わたしを許してくれとは言わない。ごめんなさいと言う権利だってないのはわかっている。でも、最後にきちんとお話がしたくて」
 天幕のなかからエルの声は聞こえない。
「……エル、必ずあなたを助ける」
 ウルの、決意に満ちた声が宵闇に響いた。いままで星読みの巫女としてさまざまな儀式で祝詞を読み上げるのを聞いたことがあるのだけど、こんなに凛としている声ははじめてだった。
「星配置(ゾディアック)による占術。それは既知の物理学で星の運行が読めないことで成立している。星読みの巫女は、理論値と観測値のズレを天意として解釈する。では、理屈と計算によって完全に観測結果を予言することに成功したら? 星読みの巫女が解釈する余地はなくなり、この信仰は根本から崩れることになる」
 ぼくは自分の耳が信じられなかった。この星読みの巫女はいまなんて言ったんだ。何百年、何千年と連綿と続いてきた風習を壊すと。それだけの観測を持ってしても読めなかった星の運行を計算し尽くすと。たしかにそれが実現すれば、この信仰は拠り所を失う。けれど、あまりにも突飛な夢物語だ。そのことは、ウルもよくわかっているはず。
「でも、ケムリュエの技術ではそこまでいけない。精度の高い観測はできるけれど、計算するためのリソースがあまりにもなさすぎる。《天球神託盤(アストログラフ)》ではどうやったって限界がある。だから、わたしは蒸気と歯車の街に行く。そこなら、膨大な計算をこなすことのできる階差機関(ディファレンシャル・エンジン)なら。きっと、星の配置を正確に計算してくれるはず……」
 ウルは首を横に振る。
「いいえ。できる。してみせる。必ずこの奇怪な星の運行を暴いてみせる。合理的な理屈と階差機関(ディファレンシャル・エンジン)さえあれば、必ずできるわ。何年かかってでも、必ずたどり着いてみせる。だから、エル、わたしはケムリュエを出るの!」
 ぼくたち羊獣人(オビスアリエス)はこの大草原での暮らししか知らない。生まれたころから定められた常識と慣習がからだに染み込んでいる羊獣人(オビスアリエス)にとってケムリュエを出るということはどれほど勇気の要る決断だったことだろう。
「……それじゃあ、エル、元気でね」
 そうしてウルは大きな荷物を背負ったまま、新月の暗闇の中を歩き出す。ぼくはその夢物語のような話をうまく飲み込めないまま、木陰でじっとしていた。たしかに。たしかに言葉だけ聞けば理屈が通っている。けれど、それが実現するさまはとても想像することができなかった。星に頼らず……、いや、星に頼れず、自らの意思で群れの方針を決定していく羊獣人(オビスアリエス)など。
「ほんとうに、ケムリュエを出るんですか」
 気がつけば、ぼくは木陰から飛び出していた。目を丸くしたウルは一瞬身構えたが、すぐに柔和な表情になった。その表情は、たまに見せるエルの穏やかな笑顔にそっくりでどきりとしてしまった。
「びっくりした。神官に見つかったのかと思ってひやひやしたよ」
「ぼくだって神官見習いですよ」
「そうだね。でも、君は《ちがう》でしょ? ラムラム=シェラタン=アストレイくん。君がいるから、わたしは安心してここを出られるんだよ」
 ちがう。なにがちがうというのだろう。エルの相手をしてくれなかった神官たちと、無力でなにもできないまま取り返しのつかない結果になってしまったぼくとでは。しかし、ウルはぼくに対して優しい表情を浮かべたままだった。
「いままでずっと見ていたよ。エルをありがとう。これからよろしく」
 大きな荷物に体重を持っていかれそうになりながら、星読みの巫女だった少女は歩いていく。実現できるかどうかまったく見込みのない夢を背負って。取り返しのつかない罪を背負って。それは一族にちやほやされる巫女のすがたではなく、巨大ななにかに立ち向かおうとするひとりの少女のすがただった。

 ※

 かくして《物語》は地平線の向こう側へ。

 ※

「巫女さま、からあげでございます」
「焼きそばも食べたい」
「いますぐに用意します」
「たこ焼きも。ソースとマヨネーズたっぷりで」
 星読みの儀式の最中にこんなに忙しなく動き回る守護神官も珍しいだろう。こどものころのエルとの触れ合いを思い出しながら、ぼくは軽く自嘲する。最初のころは食べたこともない料理ばかりで巫女さまもご立腹であったが(それを理由に託宣を伝えないのは、さすがにどうかと思う)、いまではぺろりと平らげてくれるようになった。
「美味しい! これも美味しいけど、あれも美味しい!」
 蒸気と歯車の街、アンティキティラから《ウルウル=ドリィメリィ特等皇女》が帰還されたとき、ケムリュエの神官たちはこぞって巫女さまを迎え入れた。多少の違和感はあったものの(胸のサイズとか)、多くの神官たちが彼女をウルだと認識したのは大きくふたつの理由があった。
 ひとつ、片目ではなかったこと。それだけ忌み子が片目であるという印象は強く、そうでない状態というのは強くウルを想起させた。双子で容姿が似ていたのもあるし、ケムリュエの民が、歯車と魔法で動く義眼というものをそもそも想像できなかったこともある。おそらくほんもののウルはそこまで読んで、この入れ替えを行っていた。
 もうひとつ。この巫女が明らかに星読みの儀式の手順を理解していたことだ。忌み子は教育がなされておらず、文字すらまともに読めないというのが共通認識だった。まさか神官見習いが個人的に文字まで教え、天幕を開けて星読みの技術まで伝えていたとは夢にも思わなかっただろう。エルは抜けているところもあるが、本質的にはとても頭が良い子なので、教えれば長い祝詞だって容易に暗記することができた。
 このふたつ。すなわち、両目が健在であり、巫女としての教育がなされた痕跡が明らかにあるということから、多少の違和感があっても、みなは帰ってきたこの巫女を、ウルウル=ドリィメリィだと疑わなかったわけだ。
 ん? ぼく? ぼくは気づけたのかって?
 そりゃあわかるよ。
 リュックいっぱいのお菓子を食べながら歩いてくるんだもの。口には食べかすがいっぱいついていて、義眼のことを忘れていたのか髪型も片目を隠すものだったんだもの。まったく。ケムリュエで最初に出迎える神官がぼくでなかったら、どうするつもりだったのか。
「星読みの巫女の名において、守護神官を任命する。ラムラム=シェラタン=アストレイ」
「たしかに賜りました。この《シェラタン》、喜んで巫女さまにお仕えいたしましょう」
 ぼく以外に気づかれないことにあぐらをかいたエルは、こうして星読み中にジャンクフードを要求するようになったのだけど。神官たちの疑念をいちいち晴らしている(というより誘導している)ぼくの身にもなってほしいくらいだった。ため息をつくが、屈託のない笑顔でばくばくと食べるエルを見れば、そんな苦労など消し飛んでしまう。
「巫女さま、くちもとに食べかすがついていますよ」
「ん」
 おひつじ座二番星《シェラタン》はいつだって巫女さまのおそばに。

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