公園

こんにちは。最近は少しだけ平穏な日々を過ごしています。
おいおい話しますが、数日前に大きな出来事があって(平穏とは)。何かまた新しい感性を、新しいことをたくさん知ることができるような気がしています。とてもワクワクする。

今回はいつもと違う感じで行きます。久々に幼少期の頃によく遊んでいた公園に行って感じたことを書きます。写真がなくて恐縮ですが、読みながら情景をイメージしていただければ幸いです。夜の公園ってなんでああも切ないんだろうな
感じたことをぽつぽつと一文ずつ丁寧に。以下、ぜひ読んでいただけると幸いです。



小学生の頃はほぼ毎日公園で遊んでいた。

家から一番近い公園。グラウンドが二面あって、片方はブランコやうんてい、滑り台などの遊具がたくさんあった。砂場もあった。もう片方はだだっぴろい(といってもそんなに広くない)グラウンド。当時はだだっぴろく感じたな

サッカーが大好きだった。だだっぴろいグラウンドの端に生える2本の木を一方のゴールに、反対側の2本の柱をもう一方のゴールに見立ててよく試合をした。木のゴールのほうは2本が平行に並んでなくて、ゴールを決めるのにいろんな工夫をしたっけ

中学生の頃はSASUKEにハマって、塾に行くのをサボって遊具で遊んでいた。うんてい、めちゃ滑る滑り台、鉄棒、ブランコ。自分なりにエリアを考えて、制限時間を設けて。好きな選手になりきって、マメをつぶしてた。それが母親にばれてめちゃくちゃ怒られて。そこからたくさん勉強するようになったな。今や東京大学だよ母上。ありがとうございます

そして昨日、久々に公園に行った。犬の散歩だ。月に数回行っているんだが、最近公園に大きな変化があった。



伐採

僕たちがゴールに使っていた木が、きれいになくなっていた。それはそれはきれいに切株になっていた。それ以外にも、遊具のグラウンドにあった大きな松の木も伐採されていた。

でも、今に始まったことではない。その少し前には、うんていがなくなっていた。遊具の規模も縮小した。今の遊具でSASUKEのコースを考えるのはちょっと難しいかも。
あと、グラウンドの柱もなくなっていた。サッカーに使えるゴールはベンチの足元の部分だけ。

今の子どもたちは、サッカーでパスの練習をしている。試合は1つの小さなゴールでしかできない。グラウンダーのシュートしか入らない。
公園ではその遊び方が当たり前という環境で育ったら、違和感はないのかな。老害のようだが、見ていてえもいわれぬ苦しさがこみあげてきた。

常識が変わる。景色が変わる。それを見届けていく。自分の好きだった景色がどんどんなくなっていく。それを目の当たりにすることが、大人へ近づくということなんだろうか。子どもと大人ってグラデーションだと思うけど、自分という点が子ども側から大人側へと急速に動いていくような、そんな感覚。気づいたらたくさん移動していたっぽい

たくさんの事情があるのは知っている。公園での危険な事故の多発。ここ数年の変化で、僕の大好きな公園は安全に楽しく遊ぶための最適解に近づいているのかもしれない。

僕が子どもだったころから今でも残っているのは、鉄棒、ブランコだけ。砂場は閉鎖して使えなくなってしまった。
今でも時々、鉄棒で逆上がりしてみたり。ブランコを立ちこぎしてみたり。少しでも思い出を拾い集めるように、外灯を眺めながら。
外灯の色も、オレンジから白に変わってたっけ。もう覚えていない


公園は、子どもと大人のどこにいるかを測るのにベストなものさしなのかもしれない。次に散歩に行くときは何か変わっているだろうか。見たくない。でも、見届けなければいけない気がする。どんなに苦しくても
それが、お世話になった公園への自分なりの恩返しだと信じて。大人になりつつある自分の使命だと信じて。




最後まで読んでくださってありがとうございました!!

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