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療育にまつわる「からだ」へのまなざし vol.52

3月のバオバヴカフェは、「アートとケア」の最終回。自身も引きこもり経験のある、渡辺篤さんの章を読む。
「想像しえない他者をつなぐ」の章。この方の、優れたプロジェクト「同じ月を見た日」について話す。ちょうどコロナ禍の作品ということで、みんなが引きこもり状態になった、当事者意識を共有しやすくなった、とされる時の作品。人々の「月を見る」という振る舞いを写真にして積み上げていくこと。プロセスが作品のようで、ケアとしての行為のようで、いい意味での曖昧さやゆるさの魅力をシェアする。
「記号性への批判意識」の章。エイブルアートという言葉が出てきたりと、2000年代初頭の「アートとケア」にまつわる言説を振り返る話も出てくる。
「痛みを開示する」の章。「協働」という言葉がよく扱われるようになった、とか、プロセスを大切にするということ、アートによるリカバリーとは、という話題も出てきた。

それにしても、この「ケア」にまつわる「しんどさ」は、どこからくるのか。そしてまた、そこにふみこんでいく、これまで触れてきたアーティストたちは、何を原動力としているのだろうとも。
人間という存在が抱える「よわさ」が、そこにあるからだろうか。強いばかりの人間など、実はどこにもいないはずなのに…まだまだ、考え続けていきたい「ケアとアート」というテーマであった。

ところで、バオバヴカフェで、扱い続けている「療育にまつわる「身体」へのまなざし」には、社会的弱者への思い込みや、はたまた正しい人間像や自立した人間とは、というような、至極当たり前とされている「人間像」(身体像ともいえるところ)に、クエスチョンマークをつけることから始めないと次に進めないケースを共有したりしつつ、会を重ねている。そういう意味では、なかなか、創造的と言って良いのかもしれないし、おどりにつながっていくところを面白がっているところがある。今回の「ケアとアート」は、そんな「創造的な」ところを大いに刺激する内容であったし、参加者の言及も、いつになく拡がっていったように感じていることを、付け加えておきたい。

さて、次回(4/17)は、「ケアとアート」から派生して、「エヴァ・フェダー・キティ」の著作(岡野八千代他訳「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」白澤社)読んでいくことに…今回、「はじめに」の箇所を、シェアする。詳細は以下。
お子さんを育てる中で、この書物を編んでいった彼女には、何かヒントがあるような気がしている。

以下、文責、花沙。
今回は、ヱヴァ・フェダー・キティ「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」(岡野八代・牟田和恵監訳,白澤社)という著書の、「はじめに」の部分をシェアしました。

本書は、子どもや高齢者、病気の人、障碍者等を「依存者」とし、彼らへのケアを「依存労働」と呼んでいます。人間である限り、誰もが「依存者」である時期は避けられません。その時期、誰かがそのケアを担わなければなりません。キティは、その事実が覆い隠され、見過ごされながら、平等論が語られていると批判しています。

「おおむね女性が依存労働の重責を担っている事実」(p10)があります。自立した個人を前提とした通常の平等論では、この事実が見過ごされていて、男性が依存労働に参入することについては語られないと指摘します。自立を前提とした「男性中心の仕事の領域で女性が平等を達成できないのは当たり前」(p12)であり、その事実は人間が一方的に誰かに依存する時期が必ずあること、それが人間の本質であることを、浮き彫りにします。

「自立という虚構にメスを入れられるような鋭い議論をすることが私の目的である」(p15)、とあるように、そもそも人間は自立していないという事実を前提とした平等論を目指すことが、本書の目的だと解釈しました。

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