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その珈琲の香りは手紙

高崎の「いし田珈琲」でコーヒー豆を買うことにしている。挽いてもらった豆を湿らせたペーパーフィルターに入れて、口の細いポットのお湯をぽとぽとと垂らす。次の瞬間、甘く香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。ああ、これはいい豆だ。心を込めて焙煎されている。コーヒーをゆっくりと蒸らしながらお湯を注ぐ。大好きな人と美味しいコーヒーを飲む休日の幸せよ。

きっかけは「高崎絶メシリスト」だった。夫婦そろって酒をほとんど飲まず、日本茶とコーヒーは日常生活に欠かせないうるおいだ。高崎での新生活を始めてすぐに、家で飲むドリップ用のコーヒーをどこで買おうかという話になった。

「高崎絶メシリスト」は、高崎の町に点在する、絶滅危惧種スレスレの「安くておいしい『町のメシ屋』」を紹介している本だ。そこに「いし田珈琲」の名前があった。知らない土地に来て、行きつけのコーヒー店が見つかるとその町がいきなり身近になる。ドアを開けたとたん聞こえた、かわいい奥様の元気いっぱいの「いらっしゃい」と、テーブルでくつろぐ年配の常連客の笑顔を見て、ここは当たりだと思った。

コーヒー豆を選んで挽いてもらうときに、カウンターの奥で車椅子に座った物静かなご主人が会釈をしてくれた。「高崎絶メシリスト」によると、彼は「群馬県の伝説の焙煎士」だそうだ。でもそんな肩書があってもなくても、買ってきた「いし田珈琲」のコーヒーを自宅の小さなキッチンで淹れるとき、ご主人の穏やかな物腰からは想像もつかないコーヒーへの執念、情熱、熱くて濃い想いを感じる。不自由な体を突き動かすその想いは、香りという手紙として飲み手の心に伝わり、記憶に刻みこまれる。最初に買った豆はマンデリンだった。ものすごく美味しい深煎りのコーヒーだった。

コーヒーの香りを焙煎士からの「手紙」と感じたのは人生で2回目。「いし田珈琲」と出会うずっとずっと前、まだ学生だったころ、私は吉祥寺の井之頭公園に隣する小さなコーヒー屋さんを訪ねた。そのときはじめてマンデリンを勧められた。和製カトリーヌドヌーブと呼びたくなるような優美な奥様が、もの知らずの私にコーヒーの美味しい淹れ方を丁寧に教えてくれた。教わった通りに湯を注ぐと、ブクブクと勢いよく湧き出た泡が注ぎ終えるまで消えなかったのを覚えている。今回、「いし田珈琲」のマンデリンを飲んで、初めて自分で淹れられた本当に美味しいコーヒーの香りが、甘くて強くて胸躍るような香りが蘇ってきた。まるでタイムカプセルを開けて手紙を取り出したかのようだった。

「高崎絶メシリスト」には載っているけれど、「いし田珈琲」が地元の人に愛されて、末永く続きますように。高崎に住んでいる限り、ここのコーヒーを飲み続けていきたい。そして私たち夫婦の仲も、甘く長く続いていくといいなぁ。

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